あんなやり取りがあったあとだから、てっきり険悪なムードだと思ってた。
だけど、さすがにその辺はみなさん大人なようで、滞りなくリハーサルは進んでいった。
……あ。ソロパート始まるのね。
ステージの中央。いつも綜が座る場所は、今回のオーケストラでも変わらず指揮者のすぐ隣だった。
どうやら、ここからは綜の時間らしい。
ゆっくりと東堂さんがタクトを振り、綜がヴァイオリンを弾き始める。
「…………」
相変わらず、顔と性格に似合わない繊細な音出すのよね。
音楽に詳しくない私でさえ、きれいだと思うし何より音がのびやか。
お高いヴァイオリンってこともあるだろうけど、やっぱり弾き手のチカラも大きいんだろうとは思う。
あー、好きだなぁ。やっぱり。
目を閉じて聞いてると、本当に癒されるんだよね。
「……?」
カツカツと何かを叩くような硬い音が響いたかと思うと、同時に音が切れた。
目を開けて見ると綜の手は止まっており、ステージ上の人たちも東堂さんと綜を見つめている。
「そこはもっと、柔らかく弾いてください」
……ああ、なるほど。
東堂さんがタクトを振って指示しており、そのための時間だったのかと納得。
なんだ。やっぱりあの人もちゃんとしたプロの指揮者なんじゃない。
ちゃんと公私の区別が付いてるみたいで、安心したわ。
かくいう綜も、彼の指示にうなずいて再び弓を構えたし。
うんうん。いいことだ。
っていうか、綜もああやって真面目な顔してるとそれなりにいい人に見えるから不思議よね。
同じセリフを私が言ったら張り倒されるだろうけど、そこはやっぱりプロ同士互いを尊重しているんだろう。
再び始まった綜のヴァイオリンの音を聞きながら、つい笑みが浮かんだ。
ちょっと待った。
笑みを浮かべて聞いていたさっきの私から、たった数分後の今の話を聞いてもらいたい。
いやー、ちょっと訂正するわ。さっきのこと。
さっきのってのはもちろん、東堂さんのことよ。
さっき、『公私の区別が付いてる』って思ったけど、あれ判断がちょっと早かったらしい。
実はあれからというもの、たびたび演奏が中断している。
しかも、すべて綜のパートでだけ。
最初に出た指示のあともすぐに止めて、今度は『もう少し強く』と言ったりしたし。
それだけじゃない。
演奏を中断させるたびに、東堂さんが出す指示が毎回違う。
曲で弾き方の指示が異なるのはわかるけど、そうじゃないんだもん。正直、あてつけとしか思えなかった。
そう。東堂さん絶対あてつけでしょ。
だって『徐々に音を抑えて』って言ったかと思ったら、次は『伸びやかに広がるように』とか言うのよ?
どっちやねーん!
「…………」
でも。
でもね。
綜は今もなお、黙って指示に従っていた。
……きっとあの綺麗な顔の内心は、煮え繰り返ってるに違いない。
それでも、ああ偉いなぁ、がんばってるなぁ、とこっちが泣きそうになった。
まあ、口で文句言わないだけでものすごく怖い顔してたけどね。
「ちょっと休憩入れましょう。駄目だ。正直、このままじゃやってられない」
「なっ……」
東堂さんが、いかにも困ったという素振りと表情で指揮者台から降り、大げさにため息をつくと綜へ向き直った。
でもさ、ちょっと待ってよ。
それっておかしくない?
てゆーか、周りの人たちの顔を見なさいってば!
やればやるほど東堂さんから引いてるの、気づいてないのかしら。
……って、奥のピアノに座っているミハエルさんは、大きなあくびを隠すこともなくしてますけども。
「困りますね、芹沢さん。もう少しプロとしての自覚を持っていただかないと」
……うわ。
いいの? そんなこと綜に言っちゃって。
今のひとことで、怒り最高潮よ。きっと。
今に、ものっすごい威圧感炸裂の態度で、『お前ふざけるなよ!』って……あれ?
てっきり何か言い返すと思っていただけに、すんなり椅子に座った彼の姿に思わず拍子抜けした。
はぁあああもう……!
気分はもう、お母さんよお母さん!
だって、いつもあんなに練習してるんだよ?
どんな場所へ行っても『完璧な演奏でした』と言われる彼の裏には、並大抵じゃない日常がある。
きっと、綜以外で事実を知っているのは私だけ。
何時間も練習しているのを、基礎を怠らないのを、私だけは毎日見てきた。
だからこそ、正直悔しかった。
ひどいと思った。
「……最低」
うっすら涙が滲んだまま、ステージを去った東堂さんではなく椅子へ腰掛けたまま汗をぬぐった綜を見て、悔しさから唇を噛んでいた。
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