ステージ上の人たちが移動し始め、ざわついた雰囲気から演奏者じゃない人たちも行き交い始める。
 でも、綜は座ったまま動かず、譜面台に置かれた楽譜をまとめると端へ置いた。
「…………」
 見ていた客席から立ち上がり、そっとステージへと向かう。
 彼が座っているのは指揮者のすぐ横なので、客席間近。
 お陰で、ステージまで行かずとも話は簡単にできる距離だ。
「ねぇ、綜」
「なんだ」
 周りがざわついているからか、綜はいつもと同じ口調だった。
 それが意外でもあり、でも、よっぽど頭にきてるんだろうなとも思う。
「ねぇ、なんで文句言わなかったの? あんなのひどいじゃない!」
「文句言って変わるか?」
「それは……でも」
「アレがアイツのやり方なんだろう。なら、俺は俺のやり方をするまでだ」
 ため息をついた綜が、立ち上がってヴァイオリンを構えた。
 途端、ざわついていたステージ上が……ううん、このホール全体が静まったようにも思えた。

 ゆるやかに始まる、ヴァイオリンの音色。
 ……なんていう曲なんだろう。
 少なくとも、私は聞いたことがない曲だった。
 まるで、猫が遊んでいるかのような、ちょっとかわいいっていうか……あ、曲調が変わった。
 最初は少しゆっくりしたテンポで始まった曲が、急激に速くなる。
 それに伴って音が変わると、今までとは全然違う雰囲気で、ぞわりと鳥肌が立った。
「この曲、知ってる?」
「え?」
 顔色を変えず弾いている綜を見上げていたら、ステージにしゃがんだミハエルさんに声をかけられた。
 相変わらずの微笑に、ついこちらもつられる。
「いえ、知らない……です」
「これはね、24のカプリースっていう曲の13番なんだよ」
「……カプリース?」
「そう。言わば、パガニーニっていう奇才のヴァイオリニストが、自分の技巧を自慢するために作ったようなものかな」
「え。自慢、ですか」
「うん。だから、綜と波長が合うんじゃない?」
「ぶ!」
 さらりと告げられた言葉に、思わず瞳が丸くなった。
「あはは! それは、言えてますね」
「でしょう?」
 あまりにも言い得て妙な言葉だとわかっているからか、ミハエルさんも笑う。
 確かにそうだ。
 綜は、『どうだ』と言わんばかりに見せつけるような演奏をする。
 それに、今のこの時間だってそういう意味合いなんじゃないの?
 彼がずっと見つめて――訂正。
 ずっと睨んでた、東堂さんへのあてつけみたいな。
 ……あ。
 どうやら綜が弾いているのに気づいたらしく、ステージの端へ戻ってきたらしい東堂さんが、ものすごく嫌そうな顔をしていた。
 嫌そうなっていうよりは……なんか、屈服って感じ?
 ほーら、見なさい。
 綜ってば、ヴァイオリンだけはすごいんだから!
 別に私が偉いわけじゃないんだけど、ついそんなふうに言いたくなった。
 だって、やっぱり……悔しいじゃない?
 自分の好きな人を散々目の前でコケにされたら。
「っ……!」
 綜が弓をヴァイオリンから離した瞬間、わあっと拍手が上がった。
 それに対してわずかに頭を下げて、笑みを浮かべる綜。
 なるほどね。
 どうやら、東堂さん以外の方々へは相変わらず猫かぶりモードらしい。
 でも、そんなみなさんから視線を戻した綜は、東堂さんを見つけるとそれはそれは冷たく笑った。
「……なんのつもりですか」
「別に。ただ指慣らしが足りなかったなと反省したまでですよ」
「嘘だ! 私に対するあてつけだろう!?」
「そう思いたいなら思えばいい。どちらにしろ、当時の連中のように、爪でえぐられないようお気をつけて」
「っ……!」
 さらりと言い放った言葉で、東堂さんは悔しそうな顔を見せた。
 でも、なんか最後にとんでもないこと言ってなかった? 綜ってば。
 どうやら意味がわかったらしいミハエルさんだけが、小さく笑う。
「相変わらず、綜らしいね」
「そう……なんですか?」
「この曲は別名『悪魔のほほえみ』って言われてるんだよ」
「……悪魔」
 ぽつりと呟いた瞬間、あまりにもなタイトルに目が丸くなる。
 悪魔、ですって。
 ゆっくりと視線が向かうのは、綜本人。
 今までと違って、椅子にしっかりと腰かけている。
 ……でも、その顔は相変わらず無愛想この上ないわけで。
 うーん……。
 悪魔、ね。
 確かに納得。
 今目の前には、確かにそう言える人がいた。
 敵に回せばどうなるか、わかってるんだろう?
 まるでそう言いたげな彼の言葉で、東堂さんは戦意喪失したらしい。
 っていうか……可哀想な気もする。ちょっと。
 だって、綜にあんなふうに言われて、こんなふうにされたら……恥かかされたみたいなモノでしょ?
 うーん。
 ……そりゃ、自業自得って言えばそうなんだけどね。
 まぁ、いいか。
 あのふたりは今後も仲良くなれそうにないみたいだし。
 なんとか平静を装おうとしている苦い顔の東堂さんを見ながら、自然と苦笑が漏れた。


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