「っく……待ちたまえ!」
長く細く続くテレビ局の廊下で、背中に何度目かのそんな呼び止めが追ってきている。
っていうか、『たまえ』って……。
実家が、昔から続く財閥だか旧家だか知らないけれど、やっぱり不釣合い。
だったらまだ、綜が言ったほうがぴったんこな感じがする。
だって、東堂さんって確かに『おぼっちゃま』みたいな感じはするけれど、でも、残念ながら『金持ち』ってオーラは嗅ぎ取れないのよね。
綜のほうが……って二度目だわ。
「芹沢綜! 貴様、私を愚弄する気か!?」
たたたっと音が聞こえて何かと思いきや、いきなり目の前に東堂さんが現れて行く手を阻んだ。
びしっと音が聞えるんじゃないかと思うほどの勢いで、綜を指差して。
でもまぁ、確かに正当っちゃあ正当だと思う。
だって、綜ってば彼の声を聞きながらもまったく足を止めたりも振り返りもしなかったし、気にも留めてなかったんだもん。
もしかしたら今綜の頭を覗いてみたら、『うるさい』なんていう東堂さんへの言葉すら見つからないかもしれない。
スルーよね、うん。
完璧に、スルーされてる。
……あ、でも。もしかして、東堂さんって結構地味ーな人なんじゃないかしら。
見た目は割と派手っていうか目立つ感じがあるんだけど、でも、それはあくまでも『綜と絡んでないとき』であって、ちょっとでも綜が入ってくると途端に色も光も失ってしまう。
……ふ。
やっぱり、綜の前にはどんな人も色褪せちゃうのよね。
だってこの人、無駄にオーラとか持ってるんだもん。
いかにも『音楽家です!』みたいな。
「……ふん。私の言葉は耳に入らない、とでも言いたげだな」
くっと嘲るように笑った彼の表情なんて、別に気にもならなければ見たくもない。
だけど、さほど広くもない廊下を立ち塞ぐように目の前にいられては、こっちだってなす術もなくて。
あのー邪魔なんですけど……かなり。
はぁあと大きめにわざとらしいため息をついたりしてみたけど、やっぱり彼は気にもかけてくれなかった。
「はっ。さすがは、低俗な雑誌にスクープされるような『とんでも音楽家』だな」
彼は、思い切り綜をなじったつもりだったらしい。
高らかに声をあげて笑い、『こりゃ参った』とばかりに顔へ手を当てる。
だけどそのへんは、さすがウチの稼ぎ頭。
そんな陳腐な言葉は痛くも痒くもなければ、心にグサッと刺さるだけのような致命傷になるはずもなく。
「ふ」
「っ……何がおかしい!」
「あんな記事を鵜呑みにするヤツなんて、うちの付き人だけだと思ってたが……まさか、ほかにもいるとはな」
くっくと喉で笑い、ちらりと私を見つめる。
あ、見たわね。私のこと。
もしかしなくても『付き人』って私のことか。
……腹立つ。
でも、ここで噛み付いたって相手にしてくれないことは100も承知。
今は目の前に大きな大きなお邪魔虫が居座ってくれちゃってるんだから。
そうよ。
綜に噛み付くのは、これが終わってから。
そう自分に言い聞かせつつも、やっぱり握った拳にはぎちぎちと力がこもっていた。
「『売名行為』だとは思わなかったのか?」
「っなんだと……!?」
「まさか、一流を名乗ってる人間までがあんなモノを本気にしてるとはな。……とんだマエストロ様だ」
「き……っさま……!!」
「ちょっ!? やめっ……やめてください!」
目の前の相手を鋭く見据えたままでの嘲笑に、当然といえば当然の如く東堂さんが素早く動いた。
だけど、それは私も同じ。
ぐいっと綜の胸倉を掴んだのを見て、思わず身体が勝手に動いていた。
――が。
まったく動じる様子のない綜は、しなくてもいいことをさらにしちゃってくれるから困る。
「殴りたければ殴ればいいだろう?」
「くっ!!」
綜の辞書に『遠慮』とか『常識』って言葉が欠落してるのはわかってる。
わかってるよ?
でもさぁ、首を締め付けられるほど相手に憎まれてる状況で、なんでわざわざ相手を焚きつけようとするのかなぁ。
…………。
もしかして…………綜って『S』じゃなくって『M』なのかしら。
ああ、そういえば昔そんな話聞いたことがある。
音楽家だけに限った話じゃもちろんないけど、普段抑圧されてる人ほど『縛られたい』とか『ぶって!』とかって思うとかって……。
…………っぎゃあ!
やだー!!
っていうか、一瞬でも綜が縄で両手を縛られてるところを想像した私は、ちょ、ちょっとしたヘンタイさんなんじゃないだろうか。
……うぅ。
考えたりしなきゃよかった……。
今さら遅すぎるけど、かなり自分の軽率な行動に反省。
――けど。
独りで悶々としている間に、目の前の状況はちょっと変わっていた。
「……あれ?」
先ほどまではまさに一触即発の状況だった綜と東堂さんなんだけど、今は東堂さんが両手を綜から離して少し間隔も空けていた。
依然としてかなり睨んではいるんだけど、まぁ……これで少しは場が納まってくれそうだ。
……と、思う。
あ、いや。『思いたい』。
「……フン。少しは頭が回るんだな」
しかぁーし!
しなくてもいいのにやっちゃう人は、『限界』という言葉も知らないらしかった。
バッと音がするほどの勢いで綜を見上げたにもかかわらず、私をスルーした綜はまた口角だけをあげて嫌みったらしい笑みを浮かべた。
そんでもって対する東堂さんは、当然と言えば当然だけど、やっぱり綜を見据えたまま瞳を細めている。
あーうーあーうー。
なんでこう……綜って、大人気ないのかしら。
黙ってれば穏便に済むところを、まるで自分から石をぶち込んでまでわざわざ大きな波を立ててるようで。
……やっぱりMなのかな。
「…………」
眉を寄せて綜を見つめると、なんだかぞくぞくと悦の表情を浮かべているように見えてくる。
まるで……この状況を心底から楽しんでいるように。
…………うーうー。
もうヤダよー! 早くお家に帰りたい!!
そんな意味を込めて綜のシャツを引っ張ってみたけれど、結果として何も変化は起きなかった。
「……貴様、随分と偉そうな口を利くんだな」
「偉そうも何もないだろう? 俺はただ、事実を口にしているだけだ」
「……っ……なんだと……?」
瞳を細めてさらに続ける綜を、東堂さんが1歩こちらへ足を踏み出しながら睨みつけた。
……やだ。
ダメ。
ダメだよ、綜!
これ以上この人を刺激したら、今度はいったい何をされるか……!!
っていうかその前に、絶対絶対この人キレやすい人だから!
えーとえーと、ほら、なんていうのかなぁ。
いるじゃない? こー普段は大人しいキャラを装ってるんだけど、いざ弄られすぎちゃうと泣きながらこっちに向かって来るようなタイプ。
両腕をぐるんぐるん回しながら……みたいな。
そう、それ!
まさに、東堂さんってそんなタイプだ。
だから、ダメなんだってば!
ここでこれ以上刺激したらっ……刺激したら……!!!
「あのまま俺を殴っていたら、自分がなんの商売してるかもわからない――そう。あの記事以下の低俗な人間だと思うところだったがな」
……ほら、ね? 言っちゃったでしょ?
「ッ貴様ァ!!」
「っ……!」
ぐわっと目を見開いた東堂さんは、案の定こちらへと殴りかかってきた。
確かに、綜が悪いのはわかってる。
って言うかむしろ、綜が100パー悪いと思う。
でも! でもね!?
やっぱり、暴力はよくないと思うのよ!
暴力反対!
だってほら、ふたりは仮にも音楽家な訳でしょ!?
ということはイコール、手が命なワケで!
えーとえーと、だから、だからっ……ああもう! まどろっこしい!!
「とにかく、ダメーっ!!」
「ッ……馬鹿!」
叫びながら綜の前に立ちはだかろうとした途端、世界がすごくゆっくり動いた。
それこそまるで、スローモーション映像みたいに。
勝手に身体が動いて、口は何かを叫んでいて。
それまで、こっちを見向きもしなかった綜の表情がごく近くなるにつれ、驚いたように瞳を丸くしているのが目に入る。
……だけど、それは本当に一瞬の出来事だった。
次の瞬間、自分の立場も何もかも、すべてが一変してしまったから。
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