バチンッ
「っくぅ……!!」
「あ……!?」
じんじんと鈍く身体に響いているものの正体が“痛み”だとわかったのは、それからほんの少し経ってからのことだった。
「馬鹿!」
「なっ……な……!!」
すぐ近くからのはずなのに、なぜかやたら遠くから聞えてくる声。
ひとつは、さすがに慌てたらしき綜のもの。
そしてもうひとつは――。
「なっ……んてことを……!」
やっておきながらそのセリフはないだろうと思うんだけど、どうかしら。
ひりひり、じんじん。
そんな鈍い痛みの発生源である、こめかみから耳のあたりを押さえながらゆっくりと上半身を起こす。
正面に捉えるのは、『ぶっちゃったよ! 叩くつもりなんてなかったのに!』みたいに慌てている様子の、東堂さん。
東堂さん。
……く。殴ったわね。
殴ったわね私のことっ……!!
「ッ……わ!?」
「ちょっと!!」
「いや、あのごめん!! まさか君が出てくるとは思わなくてッ……ていうか、まさかこんなっ……こんなことになるなんて……思わなく……て……っ」
叩かれた場所を押さえていた手を外し、そのままの勢いで東堂さんの襟元を引っ掴む。
さすがはお坊ちゃま。
人にすることは慣れてても、されることは慣れてないってワケ?
『お願いだからやめてくれ』とか、『頼むから許してくれ』とか瞳が物語ってるような気がしたけれど、当然気になんてしたりしない。
だって、この人叩いたんだもん。
私のこと……ッ……!!
「ッ……!!」
「そんなふうに後悔するなら、最初っから手なんかあげるんじゃないわよ馬鹿ぁあ!!」
「ひぃっ!」
ごめすっ
「ぐっ!?」
鈍い、にぶーい音のあと。
目の前で今にも泣きそうな顔をしていた東堂さんは、ゆっくりと後ろへ倒れていった。
「……はぁ……はぁ……。……ったく!」
パンパンと両手を叩いて塵を払い、乱れた髪を撫で付けて直す。
やたらめったら自分が考えたよりも深くまで拳が入った気がするけれど、気にしたりしない。
女子どもに手をあげる男は、人類の敵よ! 敵!
それに私は1度叩かれてるんだから、あくまで制裁を加えただけ。
……怒りの鉄槌は効くんだから。
…………。
まぁ、私が綜の目の前に出たとき、咄嗟に『ぐー』だったのを『ぱー』にしてくれたから、思ったより痛くはなかったんだけどね。
でも、気持ちの問題なのよ。気持ちの!
身を呈してまで彼氏を助けようとした私の健気さは、本当に拍手モンなんじゃないだろうか。
「ちょっと綜!」
「なんだ」
「う……冷たいわね」
『よくやったぞ優菜』とか『怪我はないか? ……ああっ、こんな赤くなって!』とか『馬鹿だなお前は! どうして俺のためにこんな……』とか。
そういう、愛のあるあたたかーいお言葉が降ってくるかと思いきや、満面の笑みを凍り付かせるには十分すぎるほどの凍て付く波動が向けられた。
ああもう。
せっかく私が痛い思いをしてまで、庇ってあげたっていうのに。
もうちょっと温かみがあってもいいんじゃないかしら。
「馬鹿が。どうして出て来た」
「は? だって、顔で売れてるんだもん。商品傷付けられたら困るじゃない」
「……俺の商売道具は手だろうが」
「あのねぇ、綜。いい? よーく聞いて」
きっぱりと答えた私に、ものすごく怪訝そうな顔を見せた綜。
でも、だけど彼はやっぱり何もわかっていなかった。
そりゃ確かに、綜は『ヴァイオリニスト』だから、手が命だとは思う。
だけど、それだけじゃない。
綜の付加価値は、もっともっと多いんだから。
「あのね? 綜の場合は、『イケメン』で『若い』『ヴァイオリニスト』っていうのが大事なの」
ひとつひとつ大事なポイントを押さえるような仕草を手で示しながら、腰に手を当ててとっくりと言い聞かせてやる。
相変わらず怪訝そうにこっちを見てはいたけれど、まぁ、気にしないことにしよう。
だって、綜の場合1から10まで気になんかしてたら、前へ全然進めなくなっちゃうもん。
いいの。
然るべき重要ポイントだけ押さえておけば、あとは曖昧でも。
……あくまで、『芹沢綜の場合』だけだけど。
「だから、ヴァイオリンの腕だけ達者でもダメなんだよ? 優しいイケメンっていうその仮面あってこそ、毎日おいしいごはんにありつくことができてるんだから」
「……お前に言われたくはないな」
「え? なんで」
「無職同然のお前に、そんな偉そうなことを言われても釈然としない」
「くっ……! 誰のせいよ! 誰の!! っていうか、私は無職じゃないってば! まがりなりにも、綜の付き人やってるじゃない!」
はぁ、と小さくため息までついた綜に腹が立って、廊下の壁をばしばし叩いていた。
言うにこと欠いて、無職だぁ?
それはないでしょ!
そ……そりゃあね?
毎月ちゃんとした給料は貰ってないけど。
…………。
……はっ。
っていうか!
私はまったくもってこれまでの間、綜に慰めてもらったり、同情してもらったりすらないんだけど!?
おかしいよ! おかしいでしょ!?
なんで? もう、かれこれ3分以上経ってるよ?
それに私、綜の代わりに殴られたんだよ!?
なのに、この人ッ……!!
「ちょっと、そ――」
がし
「へ……?」
壁を叩いていた手をきゅっと握って、綜へ指を突きつけようとした瞬間。
後ろから伸びてきた何かに、その手をぎゅっと掴まれた。
「……うわ!?」
「……佐伯優菜……とか言ったな」
「は……は!? え!? やだ、ちょっ……ちょ! 何!?」
恐る恐る振り返ったのがいけなかったのかもしれない。
いきなりすぐ近くにあったのは、東堂さんの顔で。
しかも、ただの『東堂さん』じゃない。
今私が殴ったせいかどうかはわからないけれど、その鼻からは……その…………だっ、だらだらと鼻血が……。
「佐伯優菜!!」
「はひっ!?」
大きな声でフルネームを呼ばれ、条件反射的にそちらへと身体ごと『気をつけ』の格好になった。
……うぅ。
こ……怖いよー怖いよー!
こんな間近で、しかも鼻血出しながら睨んでるんだよ? この人。
……ヤバイ。
ヤバイヤバイヤバイ……!!
もしかしたら私、このまま指揮棒とかでこう……ぐさっ! みたいに、刺されちゃったりし――ないよね?
大丈夫だよね!?
うえーんやだよー!!
「私はなぁ……これまで人に――ましてや女性になんて、叩かれたことがないんだ」
「ふへっ……!? ……は、はぁっ、あの、その……っ……す……すみませ……っ」
「パパにだって殴られたことないんだぞ!!」
ちょーん。
……な……何か聞えたよ、今。
ぶわっ! と今にも泣きそうな顔で思い切り叫ばれ、口元がひくつく。
……ああ。
もしかしてこの手のセリフって、お坊ちゃまにはつきものだったりするのかしら。
「だから!!」
「ひぃっ!?」
がしっというよりももっと強い音と力で両肩を掴まれ、びくっと身体が震えた。
……こわっ!
怖いよこの人本気で! めちゃくちゃ怖い!
ヤバイヤバイヤバイ!
私きっと刺されるんだ。
ここで人生終わっちゃうんだ……!
……う……うぅうっ……!!
「やだっ! やだやだやだ! ごめんなさい、ごめんなさいぃい!!」
泣きそうになりながら両腕を顔の前に上げ、必死で彼からガードする。
きっと、こんなことしたって無駄だってことくらいわかってる。
だけど、何もしないですべてを甘んじるなんて……そんな……っ……そんなのは絶対いや!!
犬死なんて、絶対絶対嫌だもん!!!
「うわっ!?」
「やめてー!! 本当に、本当に謝ります! お金だって、な、ないけどっ……けど、でも! ちゃんとお支払いしますーー!! だからやめて! 死にたくない!! まだ私若いし!!」
「ちょ、まっ……待ってくれ! 私はそんなつもりじゃ……っ……」
「やだやだやだー! 命だけはっ、命だけはご勘弁をー!!」
ばたばたと身体を動かして、なんとかもがく。
必死に抵抗する。
こうすれば、多少の時間稼ぎにはなるってわかってるから。
もうちょっとでいいの!
……えっとえっと……そ、そうね。
せめてお祖母ちゃんになるまでは……! 孫の顔を見るまでは!!
だから……!
だからー!!
「違うんだ!! そうじゃなくて、私と――」
「いやぁああ死にたくないぃいいーーー!!」
「わっ、私と付き合ってくれないか!?」
ちょーん。
「………………へ……?」
「だ、だからそのっ……なんて言うか……」
今度は、さっきまでとまた違った静けさがあたりに広がった。
……へ。
え……?
あ……あれっ……?
えーとえーと、今何か聞こえたぞ。
なんか…………変なこと言わなかった? この人。
……例えるならば……そう。
まるで、『愛の告白』めいたものを。
「いや、あの……実は、その……」
私だけじゃなくて、当然のように回りの時間までが動きを止めてしまったように感じた。
ぴたっという音がするくらいキレイに、あれほど暴れていた私の身体も固まっている。
唯一、目の前で鼻血の池を床に作り続けている東堂さんだけが、顔を赤くしながら一層その血の量を増やしているように見えた。
「わ……私は、これまで女性に殴られたことなんてなかったんだ」
「……そ、そりゃそうでしょうね……」
「だから、その押しの強さに惚れてしまったんだ。す……っ……好きに、なってしまったんだ」
…………。
………………。
ぐへぇ!?
「うそ!! えぇ!? ちょ、なっ……なんで!? どうして!?」
まるでタコみたいに唇を尖らせながら『好き』と呟いた彼を見て、一瞬血の気が引いた。
何コレ!?
どこのドッキリ!?
っていうか、悪い夢なんじゃないの? 間違いなく!
だってだって! こっ、こんな……。
こんな、こんな、こんなっ……!
こんなに気持ち悪い愛の告白受けたの、今このときが初めてなんだもん!!
「ついては、佐伯優菜! こ、今週の土曜日、一緒に遊園地へ行かないか!?」
「はぁ!? ちょ、なっ……なんで!? っていうか、遊園地ぃ!?」
「そうだとも! いや、実を言うとな。昔から、『遊園地デート』というものに憧れがあってだな……」
し……っ……知るかぁ! そんなモン!!
だいたい、そんなセリフは大の男が頬を赤らめてまで言うことじゃないでしょ!?
びっくり!
ちょーびっくり!!
っていうか、ヤバイ! ヤバキモチワルイ!
なになになにコレ!? なんなのこれ!!
「やっ……やだ! っていうか、綜! ……あれっ? 綜!?」
ぶんぶんと否定するために首を精一杯振れるだけ横に振り、後ろにいたはずの綜を振り返る――……が。
なぜか彼は、私たちをスルーしたまま遥か向こうに立っていた。
いや、だって。
ちょっと待って?
今に今、綜ってばすぐ後ろにいたよね?
……なのに、なんで……?
っていうか、その前に。
どうして私を置いていくワケ?
「ちょっ……! ちょっと! 綜!? 綜ってば!!」
冷ややかな目線で私たちを見つめて小さくため息をついた彼に、再度助けを求めてみる。
……だけどそのとき。
まったく思いもしなかったことが身に降りかかってきた。
「っ……な!」
別に、読唇術があるわけでも、読心術を心得てる訳でもない。
ない……んだよ? 私は。
本当に、何も知らないぺーぺーなんだよ?
なのに。
このときの綜の唇の動きだけは、大きな声で言われたかの如くハッキリと伝わってきた。
「お前は、相変わらずヘンな人間に好かれるな……ま、精々自分でなんとかしろ」
「ッちょっ……!! 綜ぉおお!!!!?」
頼りない手を精一杯伸ばしたのに。
なのに彼は、二度とこちらを振り返りもせずにその場を立ち去っていった。
……信じられない……。
目の前の東堂さんも信じられないけど、あの彼氏も信じられない。
このとき改めて、綜が背負うべき言葉は『無情』しかないと確信した。
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