「むかしむかし、あるところに。双子の兄弟がいました」
 静かな声……だけど、どこか楽しそうな声で。
 宗ちゃんは、さらに続けた。

「弟は、兄貴が嫌いでした」

「え!?」
「……こらこら。いちいちツッコミを入れない」
「いや、だって! そ、そんなこと言われたら……」
「だいじょぶだって。コレはあくまでも『おとぎ話』なんだから」
「……うーん……」
 さりげなく一瞬、宗ちゃんの目が違ったんだけど……。
 でもまぁ、つっこめないから黙っておく。
「双子なのにどうして『兄』とか『弟』とかで区別されるんだろう。弟は、小さいころからソレがなんとなく不満でした」
「……そうなの……?」
「ゆーなぁ。だから、これはおとぎ話だって」
「でも……」
「あーもーわかったわかった。それじゃ、ちょっと話を端折(はしょ)るか」
 いくら『おとぎ話』だって言われても、やっぱり『双子』って聞けば宗ちゃんと綜が頭に浮かぶ。
 ましてや、話をしているのは宗ちゃん本人で……。
 ……だもん、一言一句にどきどきしちゃうのは仕方ないと思う。
 うう。
 なんか、心臓に悪いよコレ。

「弟は、幼馴染の女の子が好きでした」

「ぶっ!?」
「うわ。優菜お前なあ……」
「だ、だだだだって! ……え!? っていうか、アレだよ! 端折りすぎ!!」
「……なんだよもー。お前がいいって言ったんだろ?」
「だ、だって……!」
 いきなりとんでもないことをさらりと言われて、顔が赤くなった。
 だって!
 そ、そりゃあね?
 一応、宗ちゃんからそういうことだったって言うのは聞いてるけど……。
 でも、だからってそんなにさらりと言ってのけられても、こっちはまったく心の準備が整ってないワケで。
 だから――。
「でも、幼馴染の女の子は、兄が好きでした」
「……っ……」
「弟は、どうしてだろうと考えました。なんで、自分じゃなくてアイツなんだろうと悩みました」
 地を見つめて、わずかに瞳を伏せる。
 ……何も言えない。
 ぎゅっと拳に力が篭る。
「でも、結論は出ませんでした」
「……宗ちゃん……」
 そんな彼が、一瞬私に見せた儚い表情。
 それで、胸が苦しくなった。
「兄妹同然に育ってきた3人に、ある日転機が訪れました」
 ぱっと声色を変えた彼が、顔を上げて真正面を向いた。
「双子の兄が、単身パリへとヴァイオリンの修行に行くと言い出したのです」
「…………」
「弟は驚きました。……でも、それ以上にショックを受けたのは、ほかでもない幼馴染の女の子だったのです」
 目を閉じると、蘇ってくるあの日の出来事。
 綜に『パリへ行く』と言われて、どうすればいいかずっと考えてて。
 ……だけどもちろん、当時の私に考えはこれっぽっちも浮かばなかった。
 綜がいなくなっちゃうのがつらくて、寂しくて、怖くて。
 ショックでショックで、ただ毎日毎晩泣くしかできなかった。
 綜がいなくなる。
 もう、会えなくなる。
 それはもう、心が潰れるんじゃないかというくらいの出来事だった。
「ある日、女の子は決意しました。双子の兄に、自分の想いを伝えようとしたのです。……ですが――」
「…………平気……」
「……ですが無情にも、兄はその気持ちに応えることはありませんでした」
 ちょっとだけ私の顔を伺うようにした宗ちゃんに、首を緩く振って笑みを見せる。
 すると、視線を逸らしてから小さく続けた。
 どこにでもあるような、知ってるような……そんな昔話。
 でも、それはここまでだった。
 ここから先のことは、本当に私の知らないおとぎ話だったから。
「女の子を泣かせたと知った弟は、兄に詰め寄りました。どうしてそんなことした? と。想われてるってずっとわかってたクセに、なんでそんなひどいことしたんだ、って」
「…………」
「でも、アイツは何も言わなかった。それに対して、ひとことも俺には何も言わなかったんだよ」
 ふっと笑って私の頭を撫でた宗ちゃんに、ただただうなずくしかできない。
 ……あのときは、すごくつらかった。
 ヴァイオリンを私にだけ聞かせてくれて、私だけ許してくれて。
 だから、勘違いしてた部分はあると思う。
 それは、知ってる。
 ……でも、私だけが特別なんだって思ってた。
 だから、『がっかりした』なんて思い切り突き放された言葉を投げつけられて、ショックで立ち直れないほどだった。
「それからしばらくして、出発の日が来た。……当然のように、お前は来なかったんだよな」
「……ん」
 綜の家の前に、タクシーが停まってるのは知ってた。
 でも、私は見送りに出るだけのことはできなかった。
 ……つらくて、どうしようもなくて。
 その日の前の夜もずっと泣いてたから、とてもじゃないけど見送りに出れる顔じゃなかったし。
 だから、カーテンの隙間からこっそり覗くしかできなかった。
 ……拭っても拭っても止まってくれない涙を、少しだけ恨めしく思いながら。
 綜が行っちゃうって思ったら、余計に止まらなくて。
 会いたいっていう気持ちと、あのときの綜の言葉が頭の中でずっと響いてて。
 ……ドアが閉まるまで、動けなかった。
 ううん。
 ドアが閉まって、タクシーがいなくなっても、それでもそこから動けなかった。
「……あのとき、な」
「え?」
「あのとき俺……アイツ殴ってやろうと思ったんだよ」
「っえ」
 うっすらと滲んだ涙を拭いながら彼を見上げると、頭を撫でてから苦笑を浮かべた。
「優菜が来ないから、絶対泣いてるって思って。……だけど、涼しい顔してさっさと行こうとしてるアイツ見たら、なんか無性に腹が立ってさ」
「……宗ちゃん……」
「同じ顔なのに、なんでお前なんだよって。……俺のほうがアイツのことわかってるのに、どうしてお前が……って」
 苦笑を浮かべながら話してくれる宗ちゃんを見ていたら、そのときの情景が目に浮かぶような気がした。
 胸倉を掴んで、必死に食い止めようとする宗ちゃんと、そんな宗ちゃんを涼しげな顔したままで見つめる綜。
 相反するふたりなのに――……なのに、ふたりとも私のそばにいてくれた。
 不平不満なんて、一度だって言わずに。
「そのとき、アイツがなんて言ったかって話はしたよな?」
「えっと……数年やるから、ダメなら諦めろってやつ……?」
「それそれ。ほんっと、アイツ上から目線だよな」
 くすくす笑った宗ちゃんは、両手を組むと大きく伸びをした。
 でも、もう一度私を見つめ、優しく笑う。
「じゃあ、この間。久しぶりに帰ってきたとき、アイツなんて言ったと思う?」
「え? この間って……綜がこっちへ帰ってきたとき?」
「そ」
 9年前の話は聞いたけれど、先日の話は聞いてない。
 なんて言ったんだろう。
 9年間、ずっと離れていた人。
 てっきり私のことなんて忘れちゃってると思ったのに、綜は……私をそばに置いてくれた。
「アイツ、偉そうな顔してこう言ったんだぜ」
 ふっと笑った宗ちゃんは、まっすぐに私を見たまま口を開いた。

「お前が手に入れられなかったもの、この先二度と手に入らないから諦めろ」


「え……」
「今度は俺が優菜に手を出す番だな、ってさ」
「……っ……うそ……」
 瞳が丸くなると同時に、全身が(あわ)立った。
 ……うそ……。
 うそ、そんなの知らない。
 宗ちゃんがそこまで言ってくれたってこともそうだけど――綜が、言ったっていうのももちろん。
 どちらも、本当に私の知らない世界だった。
「すげー悔しかったよ。……頭に来た。でも、どこかで諦めがついたんだと思う」
「……え……」
「ああ、悔しいけどコイツは俺の手に入らないものを全部持っていくんだろうなーって」
 苦笑交じりに笑った彼が、次の瞬間ふっと表情を変えた。
 ……泣いてた。
 私、いつの間にか。
 だけど、宗ちゃんは相変わらず優しい顔で頭を撫でてくれた。
 …………ああ。
 なんだか、9年前のあのときに、戻ったみたいだ。
 あの日もこうして、宗ちゃんに慰めてもらったっけ。
「なぁ、優菜。ひとつ聞いてもいいか?」
「え……?」

「お前は、アイツにちゃんと気持ちを伝えてるのか?」

「っ……」
「不安なのはわかる。……ほら、昔1度酷い目に遭ってるからさ。でも、だからって求めてばかりじゃ……何も手に入らないんだぞ?」
「っ……」
 核心を突かれた気がした。
 ……ううん。
 核心っていうか、なんかもう……本当に、痛いところ。
 …………それって……『違う』とは言えない。
 確かに思い起こしてみれば、私自身――綜に面と向かって『愛してる』なんて言葉を言った覚えはない、から。
「…………」
 愛してる。
 たった一度。本当に一度だけ、小さな声で――だけどはっきりと、この耳で聞いたことがある。
 私に宛てられた、本当に大切で大きな意味を持つ言葉を。
 ……英語の『I love you』とか、ほかの国の同じ意味を持つ言葉よりも、日本語の『愛してる』が1番優れていてもっとも気持ちが込められているように感じる。
 すごくすごく、きれいな言葉だなって思う。
 だからこそ、嬉しかった。
 たとえ嘘でも、口から出任せでも、それでもイイって思えた。
 綜に言ってもらえたから。
 綜がくれた言葉だから。
 だから――……。
「アイツ馬鹿だからさー。誰が見たって明らかにわかるようなことでも、アイツだけは気付かないんだよ。優菜が死ぬほどつらい思いしてても、本当に――……アイツのことを心底から好きだとしても」
「…………」
「だから、その都度言ってやれ。つらかったらつらいって。寂しかったら寂しいって。……好きだったら……好きだって。じゃなきゃ、これから先も変わらないぞ?」
 そう言って笑った宗ちゃんは、『馬鹿となんとかは紙一重って言うだろ?』と続けた。
「アイツが昔から『不言実行』だってことはお前が1番知ってるだろ?」
「え? あ……まぁ、うん……」
「だからさ、今度はお前が教えてやれよ」
「……私が?」
「そ。つーか、お前じゃなきゃできないんだって」
 くすくす笑いながら、宗ちゃんはまるで『困ったヤツ』とでも言わんばかりの顔を見せた。
 ……私だけじゃない。
 なんだかんだ言っても、彼は綜に対しても優しいんだ。
「言葉が必要なこともあるんだぞ、って。行動だけなら猿でもできる。立派な青年名乗ってんなら、それこそもっとちゃんとしろって」
「……猿」
「そ。ほら、アイツってさー、なんかサル山のボス猿みてーじゃん」
「あはは」
 指で目元に触れ、そのままびよーんと横に引っ張る。
 そうそう!
 綜って、そういう目してるよね。
 彼にそっくりな宗ちゃんがやるからこそ、ついつい綜とダブっておかしさが増えた。
「言葉の重みはあいつが1番よく知ってるから」
「……え?」
「アイツ馬鹿だからさ、言い方ってモンを知らないんだよ。……結局はお前を傷付けるしかできなくて、1番困るのは自分なのにな」
 ……どうして宗ちゃんは、こうも私を惑わせるんだろう。
 いつもと、全然違う。
 いつもの宗ちゃんならば、こんなふうに私を困らせるようなことはしない。
 いつだって的確で、いつだって正しくて。
 ……こんなふうに……私を翻弄させるような方法も、表情も、決して見せないのに。
 なんだか今日という日があらゆる意味を持つような気がして、喉が鳴った。
「っ……なんで……」
「ん?」
「どうして……宗ちゃんは、いつも……いっつも……! 私の欲しい答えをくれるの……?」
 いつの間にか、彼のジャケットを掴んでいた。
 皺の寄った、服。
 だけど、宗ちゃんはまるで私のそんな行動を最初からわかっていたみたいに、微笑んだままで首を振った。
「何を言い出すのかと思えば。ったく、当たり前だろ? どれだけ俺が……お前を見てきたと思ってんだよ」
「……っふ……ぇ」
 一気に、感情が込み上げてくる。
 目の前が霞み、ぱたぱたっと温かいモノが頬を伝って手の甲に落ちた。
「さっきは『勝てない』みたいなこと言ったけど、でも、そういう意味ではアイツなんかに負けてないんだからな」
「……ん……」
 よしよし、と背中をさすってくれるようにしながら抱き寄せられ、胸元で何度もうなずく。
 冬の陽と同じ穏やかな温かさが、確かにそこにあった。
「……ありがとう、宗ちゃん」
「ああ」
 かっこ悪いけれど、ちょっとだけくぐもった涙声。
 でも、宗ちゃんは笑ったりすることもなく、頭を撫でてくれる。
 ……ああ、なんでこんなに優しいんだろう。
 どうしてこんなに、温かいんだろう。
 いかに自分が彼という人の加護と恩恵を授かっていたか、身にしらしめされたような気分だ。
「え……?」
「ホントはさ、こういうとき『アイツなんて忘れて俺のところに来いよ』って言ってアイツから奪っちゃうのが、お決まりのパターンなんだろうけど……」
「……宗ちゃん……?」
「でもなぁ……残念ながら、優菜にはそれって通用しないんだもんなぁ」
「……え?」
 肩を抱いて遠くを見つめた彼の独り言みたいな声に、まばたきが何度も出た。
 だけど、大げさにため息をついたり、『俺っていいヤツ』なんて言う声が聞こえたりしてはくるものの、一向にこちらを向いてくれる気配はない。
「……だろ?」
「へ?」
 ――なんて思っていたら、急に宗ちゃんが私を見た。
「お前がアイツを忘れられないこともわかってるし、アイツじゃなきゃダメだってことも知ってる」
「……宗ちゃ……」
「だから、あえて言わないからな? そんなこと。お前は、アイツにどんな仕打ちされても、どんなに嫌いって思っても……絶対にアイツを嫌いになれないんだから」
「ッ……」
 優しい顔なのに。
 口調だって、いつもと何も変わらないのに。
 ……なのにどうしてこんなにも、雰囲気がまるで違うんだろう。
 いつもは、優しいお兄ちゃんみたいだった。
 でも今は――今はまるで、厳しい顔したお父さんみたいだ。
「アイツが好きなんだろ? 好きで好きでたまんないんだろ? ……だったら行けよ。泣いてないで。……な?」
「宗ちゃ……っ……」
「馬鹿正直で、純粋で、ひたむきで……それが『佐伯優菜』なんだし、俺達が知ってる『優菜』なんだぞ」
「……っ……ん……! うんっ……!」

 優菜。
 お前には、アイツ以外に逃げる道なんて最初から用意されてないんだから。

 柔らかく笑った瞳の奥で、そう言われたような気がした。

 温かな冬の日差しを浴びている地面に、両足で立つ。
 行く先を見つめて、ここから少し離れた場所にいるあの人を思い浮かべて。
「……ありがとう、宗ちゃん」
「ったく。世話が焼けるなぁ、お前たちは」
「う。ごめんなさい」
 くるっと振り返り、ベンチに依然として座ったままの彼を見つめる。
 だけど、やっぱり立ち上がるような素振りも見せずに、ひらひらと手を振るだけだった。
「なー、優菜」
「え?」
「アイツに会ったら言っといてくれよ」
「え? ……何を?」
「『ヘンな遠慮すんじゃねぇよ、バーカ』って」
「っ……ん……」
「昔からなんでもわかったみたいな顔して勝手に行動されて、こっちは迷惑なんだっつーの」
 ぽりぽりと頭をかきながらそっぽを向いた宗ちゃんが、ほんの少しだけ照れているように見えたのは気のせいだろうか。
 ……ああもうっ。
 ホントにもうっ!
「優菜?」
「優しいなぁもう、宗ちゃんは。……綜のこと、すごく好きなんでしょ?」
「ぶ。……悪いけど、俺は男に走るほど困っちゃいねーよ」
「違うってば! そういう意味じゃなくて……なんだろ。ほら、兄弟愛? みたいな」
「……そーゆー仁義みたいなのも、却下」
「あはは」
 たたっと彼のすぐそばまで戻ってから、ぐりぐりと半ば強引に頭を撫でさせてもらう。
 柔らかい髪と、柔らかな髪色。
 そして、同じように温かくて柔らかくて……優しい人。
 私にとって大切で大切で、誰よりもきっと頼りがいのある人だと思う。
「ありがとう、宗ちゃん」
「おー」
「……それじゃあ……行ってきます」
「気をつけろよ?」
「ん。ありがと」
 タン、と両足を揃えてから、しっかりと腰を曲げてあいさつをする。
 親愛なる人へ捧げる、とても大切な気持ちを込めて。
 笑って手を振ってくれた宗ちゃんに背を向けて、ずっとずっと遠くにいる彼の姿を思い浮かべる。
 1歩大きく踏み出したら、もう振り返らない。
 それが、私の背中をどんと大きく押してくれた宗ちゃんに対する、最低限の礼儀だと思うから。
 マナーだと思うから。
「…………っ……」
 先だけを見て、歩いていく。
 だけどそれはいつしか、小走りへと変わっていた。
 先を急ぐ気持ちにつられて。

「あー……ったくよー……俺って、ホントお節介だよなぁ」
 隣の温もりがなくなったベンチで独り、両腕を縁へ乗せながらうなだれるように大きなため息をつく。
「貧乏くじ引きまくりだっつーの」
 だが、冬らしくない青空を見上げたその顔は、心底晴れやかな笑顔だった。


ひとつ戻る   目次へ  次へ