「芹沢先生ー。ここがわからないんですよぅ」
「ああ、これか。これは別に難しく考えたりしないで、そのまま弾けば大丈夫だよ」
「でもでも、なんだかよくわからなくて」
「……そうだな……じゃあ、こう持って――」
 ぷっちん。
「あ」
「あーあ。優菜ってば、どうするの? これでもう、3本目じゃない。いい加減、先生も怒るよー?」
「……ヤバ」
 3年の選択音楽の授業は、ヴァイオリンになっていた。
 だからこそ、ヴァイオリンの指導ではピカイチと称されている綜が先生として来てるんだけど。
 ……で、もちろん私もみんなと同じくヴァイオリンを持っている。
 いや、あの、もちろん学校のだけどね。
 …………なんだけどぉ……。
「ほらぁ、早く新しい弦貰っておいでよ。練習できないでしょ?」
「……うん」
「あ。今なら芹沢先生空いてるよ? 行っておいで」
「え!? なんで私が!」
「だって、カッコいいじゃない。それに、優しそうだし」
「やさしぃいー?」
 友人のにっこりとした笑みとは逆に、ものすごく眉が寄って、ものすごく低い声が出た。
「……どしたの? 優菜」
「あ、ごめん。つい、条件反射で」
 訝しげな顔をした彼女に慌てて首を振り、席を立って向かうのは――芹沢センセのところ。
 くぅ……行きにくいわね。
 っていうか、どうやって声かければ……?
「……綜」
 彼のそばへ寄って小さく呟くと、こちらに気付いて振り返った。
 ――が。
「あ!?」
 私だとわかるなり背を向けた。
 ちょ……!
 っくぅ……何よ、その態度。
 私が『先生』って呼ばないとこっち見ないつもり!?
 あー、そう。わかったわよ。
 それじゃあいいわよ!
 アンタじゃなくて山口先生に頼むから。
 憎ったらしい背中に『あっかんべ』をして振り返り、グランドピアノのところにいた山口先生に向かう――と、教官室から電話の鳴る音が聞こえた。
「あら、電話」
「せ、先生!!」
「ごめんねー、ちょっと待ってて」
「そんな!?」
 なんてバッドタイミング!
 声をかけようと伸ばした手をそのままに、私は取り残されてしまった。
 ……くぁ。
 ってことは、やっぱり……。
 ちらりと振り返って、ヴァイオリンを持っている彼に視線が向かう。
 黙ってれば、なかなかイイ男なのに。
 口を開けば最悪だから、ホント神様は二物を与えないのね。
 ……しょーがないなぁ……。
 いつまでも弦の切れたヴァイオリンを持っているわけにもいかないので、綜で我慢するか。
「……えー、もしもし」
「なんだ、佐伯優菜」
「ちょっと。随分態度が違うじゃない」
「同等に扱ってほしかったら、先生と呼ぶんだな」
 やっぱり。
 ほとんど口を動かさずに小さく喋っているため、ほかの子たちは気付いてないみたいだけど、私にははっきりと聞こえてくる。
 彼の、氷点下ボイスが。
「せりざわせんせい」
「なんだ?」
 1文字1文字をハッキリと発音してやると、多少態度を柔和させてこちらを彼が振り返った。
 疲れる。
 ああ、ものすごく音楽の授業がブルーだわ。
「弦が切れたんで、交換してほしいんですけど」
「どうして切れた?」
「え」
「これ、新しい弦だろ? 演奏してて切れるほど消耗されてないが」
 ぎく。
 そ……それを見つけちゃいましたか?
 ヴァイオリンを渡すとしげしげ見つめてから、弦を指でつまんでこちらを鋭く見られた。
 ……だ、だって。
 っていうか、元々はあなたが悪いんですよ! あなたが!
 私の目の前で嘘くささ満点の態度で生徒に接するから!!
「……手、触ったから」
「は?」
「べつになんでもないです」
 視線を外してぼそっと呟いた言葉はさすがに綜も拾えなかったらしく、怪訝そうな顔を見せた。
 そんな彼に再び滑舌(かつぜつ)よく答えると、一瞥してから新しく弦を張り替えるべくヴァイオリンを机に置く。
 相変わらず慣れた手つきでヴァイオリンを持ち、手際よく進める作業。
 こうして見ていると、本当に綜はヴァイオリンが好きなんだなーなんて思えてくる。
「お前、調弦してて切っただろ」
「え?」
「ペグ、回しすぎたんじゃないのか?」
「……ぺぐ?」
「ここだ。テストに出すからな」
「っお……覚えとくもん」
「ほぅ。じゃ、構造と名称すべて覚えておけ」
「わかってるわよ!」
 イチイチ、そんな専門用語言わなくてもいいじゃない!
 弦を巻く部分って言えばいいのに。
 そんな綜からヴァイオリンを受け取ろうと手を伸ばす。
 ――が、なぜか先に綜が構えた。
「……え?」
「これ以上弦を無駄にされたくないからな。調弦してやるから、少し待ってろ」
 そう言って弓を当てがった途端、今までうるさかった室内が徐々に静まり返っていった。
 ……本当に、同じヴァイオリンなんだろうか。
 そんな思いが浮かんでくる。
 調弦してるだけなんだよ?
 特別な音なんて出してない。
 普通に、弓を引いているだけの音。
 なのに……それでもこんな音は私には出せなかった。
「ほら」
「……あ……。ありがと」
 彼がヴァイオリンを返してくれると同時に、教室がいきなり大きく沸いた。
 途端に、彼へあちこちから声が飛んでくる。
「先生、何か弾いてくださいよー!」
「あ、私も聞きたいー!!」
「私も、私もーっ」
 口々に拍手とともに飛んでくる声で、綜が苦笑を浮かべた。
 ……う。
 早速、芹沢先生モードになったわね。
 今まで私には、無表情で接してたくせに。
「あ!」
「それじゃあ、みんなが課題にしている曲を弾こうか」
「賛成ー!!」
 ひったくるようにヴァイオリンを取られ、私が持っていたそれは再び綜の手の中へ。
 ……くぅ。
 さすがにこの場に立ったままいるのもなんなので、一旦席へと戻る。
 変にみんなから言われてもヤダしね。
 軽く綜を睨みながら席へ戻ると、同時に彼がヴァイオリンを構えた。


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