そんなわけで、わたくしは今『佐伯』ではない。
 今から5年前私は、芹沢綜を筆頭者とする新しい戸籍に移った。
 苗字を、“佐伯”から“芹沢”に変えて。
「くふふ」
 今でも、郵便物が『芹沢優菜様』で来るたびに、にやけそうになる。
 芹沢家の奥さんになって、今年で5年。
 今ではもう、生まれたてでぴーぴー泣くしかできなかった我が子たちも、立派に幼稚園の年中さん。
 親の手を離れ、幼稚園という世界でふたりは……ううん、私も含めたら3人はそれぞれの友達を作っている。
 年下、年上。先生、親御さん。
 そんな年齢も性別もバラバラの人たちなのに、友達という言葉で繋がりを作れる関係を。
 あぁ。自分が幼稚園児だったときは何も感じなかったけど、親っていろいろ大変なのね。
 ハラハラドキドキの毎日を送っている親の立場になって初めて、当時の我が両親の気苦労がわかった気がする。
 でもちょっと、考えてみて。
 いーい?
 私が『芹沢ツインズ』のママになったってことは、芹沢綜その人は……そう!
 パパなのよ、パパ!

 今じゃ、あのしかめっ面しか見せなかった綜その人が、ふたりの子どものパパなのですよーー!!

 私にとっては、出産とかなんとかっていういろいろなことよりもずっと、『綜がパパになる』ってことのほうが、重大事件だった。
 だって、綜がパパって……あはは! なんか、やっぱおかしいかもしれない。
 って、いやいやいや。
 でもね、みんなは知らないだろうけど……アレはアレで、存外だったのですよ。ぞ・ん・が・い!
 人間、いざってときっていうか……うん。アレよ。
 まさに、『なるようになる』んだなー、って綜を見てて思った。
 ちゃんと、そうなるようにできてるのよ。
 『パパ』という名称にばっちりなその人に。

「行ってらっしゃーい」
 ひらひらと手を振り、ひと目で『幼稚園児が乗ってます』とわかる、黄色い標識マークが付いたバスを見送る。
 あぁ……やっとあのウチの怪獣も行ったか……。
 毎朝毎朝、この調子。
 ましてや、ウチの幼稚園は毎日お弁当を持たせなきゃいけないから、余計大変。
 朝ごはんを食べさせて、それとは別にお弁当を作って。
 ……しかも、我が家はもれなくすべてが2倍。
 時間が幾らあっても、ホント足りない。
「……この時間が1番ほっとするよー」
「あはは。ちょっとわかります」
「でしょ!?」
 くすくす笑ってうなずいてくれたのは、同じマンションに住んでいる(かい)君と、羽菜(はな)ちゃんのママ。
 玠君はウチの双子と同じ、ももぐみさんの男の子。
 羽菜ちゃんは今年年少さんに入ったから、同じクラスになることはないんだけど、でも、同じマンションだし、それに休み時間ともなると子どもたちは一緒に遊んでいるらしくて、私を見ると『カンくんあーちゃんママ』と言ってくれる。
 そんな様子が、ものすごくかわいい。
 はたしてウチの子たちに、こんなあどけない年少さん時代はあっただろうか。
 同じ女の子なのに、ウチの娘とはまったく違うように思えるから、不思議。
「まあ、家でぎゃーぎゃー騒がれてるより、ずっといいわよね。帰ってくるまでの間は、やらなきゃいけないことも多いし」
 そう言って腕を組んだのは、妃稀(きさき)ちゃんのママ。
 家は、この通りからちょっと奥に入った所にあるマンション。
 だけど、バスの待ち合わせは一緒だし、やっぱり同じももぐみさんというのもあって、日々、井戸端会議ならぬ路地端会議に加わってくれている。
「ほんとほんと! あのふたりが家にいると、大人しくしててもやらなきゃいけないこと終わらないもん」
「それはやっぱり、双子だからですよー」
「え、そうかな。やっぱり?」
 苦笑すると、目の前のふたりもうなずいた。
 ……双子か。
 私も、まさか自分まで『双子のママ』になるとは思ってもなかったから、本気でびっくりしたんだけどね。
 ってまぁ、今から数年も前のことを思い出しても、今がどうにかなる訳じゃないんだけど。
「……あ。それじゃ、またあとでね」
「はーい」
「またね」
 妃稀ちゃんのママがそう言ったのを機に、それぞれ自宅へ戻る。
 とはいえ、階は違うけど建物は一緒。
 玠君&羽菜ちゃんのママとは、話しながらエントランスへ。
 それにしても、やっぱり不思議よね。
 何が、ってそりゃあこの関係よ。
 ぱっと見ても、彼女は私より若いってことがすぐわかる。
 だけど、話すのは当然タメ口で、お互いの実年齢なんて何も気にしない感じがおもしろいなーと素直に思う。
 子どもを介して仲良くなって、一緒にランチへ行くこともあれば、いろいろな家庭内の愚痴を交えた内部事情もお互い喋りっこしたりするし。
 年は違えど『同い年の子を持つ親』としては同じ立場だから、わかり合える部分があるんだろうなぁ。
「あ。そういえば明日は保育参観だっけ?」
「あ、そういえば。……忘れてた」
「んもー。しっかりしてねー?」
「あはは。ついうっかり」
 あ、と口に手を当てて笑った彼女の肩を、ツンツンとつつくと、くすぐったそうにまた笑った。
 明日の土曜日は、普段来れないお父さん方のための保育参観が行なわれる。
 いつもは、平日に保護者会を兼ねた保育参観があるんだけど、参加者はほとんどがママさん。
 だからか、うちの園では2ヶ月に1度くらいの割合で、土曜日に保育参観が行なわれていた。
「パパさん、楽しみにしてるでしょ?」
「あー。多分、してると思います」
 にやっと笑って彼女を見ると、一瞬瞳を丸くしてから笑ってうなずいた。
 パパさんということはもちろん――ウチのパパさんも、参加なわけで。
「ビデオ持ってかなくっちゃ」
「うちもっ」
「ばっちり撮らなきゃね」
「ですねー!」
 誰を、って?
 そりゃあ、言うまでもなくうちの子と戯れる、パパをよ。
 弱みを握るにはイイ機……ってワケじゃないけど、でも、あの顔は綜にぜひとも見せてやりたいと思うワケで。
 って言ってもまぁ、これまでに一度たりとも成功したためしはないんだけどね。
 とほほ。
 でも、ホントに優しい顔してるのよ?
 あんな顔、一度だって私に向けてもらえたことないもの。
 彼氏・彼女として過ごしていたあのころももちろん、新婚生活や現在に至る結婚生活中も含めて、なかったと思うし言える。
 もーさ、私にも愛情たっぷり注いでマックスみたいな顔をしてくれてもいいと思うんだけどね。
 ま、いいんだけど。べつに。
「さて。静かなうちに、掃除するかな」
「同じく。やらなきゃいけないこと、いっぱいあって……あっという間ですね」
「そーそー」
 ぐっ、と腕をクロスしてやる気をアップさせるべく気合を入れると、くすくすと彼女も笑った。

「ねー、あーちゃん。明日楽しみだねー」
「うんっ」
 その日の夕食時。
 テーブル越しに、ちょうど私の目の前に座っているあーちゃんに声をかけると、同じように首をかしげながらにっこり笑った。
 うーん。
 そういう顔されると、超絶素直で聞き分けのいいかわいく子に見えるのよね。
 普段の、わがまま全開聞きわけゼロの彼女とは、雲泥の差だと言ってもいい。
「あーちゃん、おいしい?」
「うん、おいしー」
「そぉ? よかったー」
 食卓には、昼間の内にこねておいたハンバーグが並んでいる。
 なかなかねー、ふたりが幼稚園から帰ってきていろいろやるってのは、大変なのよ。
 まぁ、それでも最近は言葉が通じるようになってきたから、よくなったほうだと思うけど。
「…………」
 そんな中。
 まるで、テーブルをふたつにわける見えない境界線があるかのように、左半分は温度が違っていた。
 ……つ……つめたっ。
 両手でお箸とお茶碗を持ったまま、ひくっと口元がひきつりそうになる。
 せっかく……せっっっかく、いろいろとあえて聞いてやろうっていうか、そっちに会話を振ってやろうとしてるっていうのに。
 なんでこー、揃いも揃って人の努力を無にしようとするのかしら。
 ……遺伝なの? コレぞまさに。
 …………。
 そう言われたら……確かに、うなずいてしまうと思うけれど。
「こほん。カン君?」
 コトン、とお茶碗の上にお箸を重ねてテーブルに置いてから、すぐ隣にいる息子を見る。
 もぐもぐと、上手に箸を使って食べている彼は、聞こえているんだかいないんだかは知らないけれど、まったくこちらを見ようともしない。
「…………」
 それにしても、フツーに箸で食べてるわね。フツーに。
 未だに、あーちゃんは箸よりフォークのほうを上手に使うんだけど……やっぱりそこは、双子だとはいえ違う成長過程があるらしい。
「どお? ねぇ、おいしい?」
 にっこりこり。
 そんな音が零れるほどの笑みを首をかしげながら浮かべ、彼の出方を待つ。
 すると、ものの数秒も経たない内に、彼は反応をはっきりと見せた。

「……別に。普通かな」

「ふ、普通……!?」
「うん」
「……ど……っ」
 どこの世界に、ごはんの感想を聞いて『普通』と答える幼稚園児がいるのよーーー!!
 アンタは、私の斜め前にいるあの男か!!? みたいな!
「あっ! ママ、あぶないよー!」
「え? っ……わ!?」
 慌てたような彼女の声で気付いたものの、笑顔は引きつるし、テーブルに置いていた箸と茶碗はひっくり返しそうになるしで、大変だった。
 しまいには、『だいじょうぶ? ママ』と隣の超冷静息子に言われたほど。
 いや、でもねぇ……結構、思ってもなかった答えが子どもから返って来ると、精神的にクルわよ。
 普通、って。
 何よそれ……フツー、もう少しかわいげのあること言ってくれるのが、4歳児なんじゃないの……?
 なんだかもう、椅子から転げて床に両手を付きたい気分よ。
 ヨヨヨ、と涙をちょちょぎらしながら。


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