「おはようございます」
「あっ! おはようございますっ……!」
うちのパパが先生へ挨拶した瞬間、彼女の声がワントーン上がった。
ハンバーグ事件のあった翌日の今日は、待ちに待った保育参観の日。
朝から、普段とは違う先生方を見ながら思わずおかしくて笑う。
なんでこうも先生の態度が違うかなぁ。
いつもの笑顔とは違う、きらっきらしたかわゆい笑顔な担任の先生たちは、平日のママさんオンリー参観日とはまるで違って見えた。
「あっ。えっと、それでは……神無君、天音ちゃん」
「はい」
「はーい」
「ふたりは、お鞄をかけてから、お洋服を着替えてね」
「はぁーい」
「わかりました」
膝を折ってふたりににっこりと笑みを見せた先生の指示に従って、我が子たちはいそいそと教室へ入って行った。
幾人もの、顔と名前を知っている友達が横を通り過ぎていき、そして『おはよう』なんて定番のあいさつを交わしている姿が見える。
はー、こういう雰囲気っていいわよね。
ほのぼのしてるというか、子どもだからこそのよさがあるというか。
とにかく、見ていると笑顔になるんだから、和んでいる証拠だ。
「あー! 玠!! それ、俺の!」
「なんでだよ! どこにも名前書いてないだろ!」
「そういうことじゃない! 順番があるだろ!」
「なんだよっ!」
……ううーん?
突然聞こえた元気なあの声は聞いたことがある……けど、顔が見えないから名前がわからない。
いきなり始まった、いかにも男の子のやり取り。
どうやら、玠君ママは年少さんの教室にでも行っているようで、代わりと言ってはなんだけど、玠君に対している男の子のご両親と思しきふたりがこちらへ背を向けた。
「俺が先に青色使うって決めたんだから、玠はあとだろ! 違う色にしろよ!」
「何時何分にそんなこと決めた? 別にいいだろ、僕が青使ったって。誰が使ってもいいって先生言ってたし!」
「じゃあ俺が先!」
「違う! 僕が先!!」
「もう。泰斗が、そんなに強く言ったら玠君が嫌な気持ちになるでしょう? 玠君と話し合って決めたらいいじゃない」
「なんでママ! だって、聞いてよ! 昨日さよならするとき決めたんだよ? 青は俺が使うって! そのとき、玠はいいって言ったもん!」
「言ってない! 明日は僕が先に使うって言った!」
「違う! 言ってない!」
「言った!」
「言ってない!!」
どうやら、教室にあったミニカーのおもちゃをどっちが使うかで喧嘩になっているらしい。
やーん、ほのぼのー。
うちの息子殿は、そこに絶対混じらないから、ちょっと混じらせて見てみたい気分。
まあ、間に立つママとしては、難しいところあるだろうけど。
「……もう。ふたりとも、言った言わないで喧嘩しても仕方ないでしょう? っ……笑ってないで、止めてくれたらいいのに」
「ほっとけばいいんだって。どーせそのうち、いつもみてーにけろっとして遊び始める」
「そうかもしれないけれど、泰斗がわざわざ玠君にちょっか出す部分もあるんだよ?」
「まあしょーがねーよな。玠だし」
「……しょうがなくないだろ」
「あ? 羽菜のほう行かなくていーのか?」
「あっちは彼女が行ったからな。……つーか、お前……ホントに止める気ゼロだな」
「別によくね? 手が出るわけでもねーし、こんなのケンカでもなんでもねぇって」
ああ、なるほど。
誰かと思ったら、泰斗君だったのね。
くっくと楽しそうに笑ったパパさんの隣に、玠君のパパさんが現れて、ため息をついた。
うーん。泰斗君ママ、お疲れ様です!
しゃがんで、ふたりに二、三言葉をかけたかと思ったら、どうやら納得したらしく泰斗君が玠君へ頭を下げた。
でも、それを見て玠君は青いミニカーを譲ってあげた。
わお、すごいじゃん!
ふたりともえらいぞーと遠くから拍手を送ると、泰斗君ママが私に気付いて苦笑を見せた。
「おはよ、あーちゃんママ」
「おはようございます」
「あ、あずさママと有征ママ。おはよ」
肩を叩かれて振り向くと、そこにはいつものふたりがいた。
にっこり笑った彼女らの奥には、相変わらず愛想のいいあずさパパと、真面目そうな有征パパがなにやら話し込んでいる。
「今日は、パパさんお仕事休み取れたの?」
「そーなの。土曜ってのが大きいんだけど、まあ、たまには休みくらい取ってもらわないとね。ほかの子じゃなくて、うちの子のことだし」
「あずさパパも平気だったんだ?」
「うん。この時期、運動会とかもあるから大丈夫かなって思ったんだけど、今年は重ならなかったの」
「そっかぁ」
あずさパパは小学校の先生で、有征パパは高校の先生。
なんでも、ふたりは幼馴染らしくて、園で見かけるときは大抵ふたり一緒にいる。
だから、こうしてただ立っているだけで――……。
「あ! センセー!」
「うわ! なんでここに居るんだよ」
「へっへー。だってほら俺の弟、年長だし。……あ。ママいるよ? あっちに。ママー!」
「マジか。いや、いーって。呼んでくれなくて」
「なんで? 話したいことあるっつってたけど」
「いやいやいや。今日はオフだし。思いっきりプライベート。また月曜にしてくれ」
……なんて、ちょっとだけ教室の様子を垣間見ることができちゃうわけよ。
ってまぁ、これが子どもならいいんだけどね。
彼が言うように、おかーさまたちに捕まった日には、それこそ個人面談と化してしまう。
先生ってほんと大変だねー。
「お前はいいよな、さすがにここで保護者に会わないだろ」
「……保護者には会わないが、教え子に会うことがあるからな。それはそれで厄介だぞ」
「うわまじで。……ってまあそうか、そうだよな。うわー、教え子の子どもとタメって……あーでもあるな。俺もありうるわそれ、十分」
何やら感慨深げに話していたふたりは、顔を見合わせるとお互いにうなずきあっていた。
「それじゃ、またねー」
「うん、またあとで!」
あずさちゃんと有征君は違うクラスなので、ここで一旦バイバイをしてわかれる。
けれど、相変わらず喧騒は変わらなかった。
それにしても、なんかこー……子どもって、まさに“縮図”よね。
もちろん、何のって言ったら、それぞれの親のとしか言えないんだけど。
「あーん、カンくんまってー!」
「置いてくぞ」
「うえーん! まってってばー!」
……はぁああウチもか。がっくし。
あれじゃまるで、昔の私と綜そのものじゃないの。
やっぱり、どこの家でも子は親に似るのね。
ていうか、あーちゃんはお姉ちゃんじゃありませんでしたっけ?
スモックに着替えたウチの子どもたちがトイレへ走っていったのを見ながら、深いため息が漏れた。
「おはようございます。あ、先に保護者会がありますので、お遊戯室へお願いいたします」
「わかりました」
いつもと違う高さの声で振り返ると、にっこり笑った先生が綜へ話しかけていた。
ふむ。
いつもの3割5割り増し。
そんなにあからさまな態度をとられると、こっちもなんだか切ない気がするわ。
まぁ、父親が幼稚園に来ることが少ないから仕方がないってのも、あるんだけど。
「…………」
「なんだ?」
「べつにー?」
ま、にこやかな笑みを浮かべて、柔和な態度を崩さない我が家のパパもいい勝負だとは思うけども。
「カン君ママー」
「ん?」
なんてことを考えながらお遊戯室へ向かうべく廊下を歩いていたら、後ろからかかった声で、足が止まった。
「あ。おはよー」
「おはよ。あ、おはようございます」
「どうも」
大きく手を振って歩いてきたのは、妃稀ちゃんのママだった。
にっこりと浮かべた笑みのまま、私にするのと同じように綜へもあいさつをくれる。
お。
「おはようございますー」
「おはようございます。いつも、親子揃ってお世話になってます」
「あはは。とんでもない」
彼女の後ろに見つけたパパさんへあいさつすると、苦笑を浮かべながら頭を下げられた。
やっぱり、自然の流れともいうべきか、さほど広くはない廊下を2列になって進む。
もちろん、私の隣には妃稀ちゃんのママ。
ちらりと後ろを見てみると、何を話してるのかわからないけど、綜もにこやかに妃稀パパと話していた。
「ねーねー今日さ、なんか先生の態度いつもと違わない?」
「あーっ。やっぱり思った? そうそう、そうなのよ! なんか、ママたちそっちのけって感じで」
「そうそう! ウチもさー、私があいさつしてるのに、先生ってば旦那しか見てないんだもん」
どうやら、先生の違和感を感じたのは私だけじゃなかったらしい。
『先生ってば正直よね』なんて苦笑を浮かべてうなずく彼女に、もちろん私も首を縦にしっかり振りながら同意する。
……そりゃまぁ?
妃稀ちゃんのパパさんは、カジュアルとはいえきちっとしたシャツにジーンズだし?
いかにも『休日のよきパパさん』の模範ともいえる格好をしてるから、目が行かない訳がない。
一方、ウチのパパはと言うと――。
「でも、カン君パパならわかるなー」
「へ?」
いきなり変わった声色で彼女を見ると、にやっと少しだけいたずらっぽい顔をしながら、声を潜めるように私に囁いた。
「だって、ワイシャツよ? シャツ! カジュアルスーツって感じだし、すっごいカッコイイもん」
「えぇー? そうかなぁ」
「そうに決まってるじゃない! ……ほら。ほかの先生も、ばっちり見てるし?」
「へ?」
手のひらを立てて、ひそひそ話よろしく続ける彼女に促されるままそちらを見ると、確かに、そこにはかわいいエプロンを着けた先生方がちょっぴり嬉しそうな顔をしながら話しているのが見えた。
もちろん――かどうかはわからないけど、目線は、ちらちらとうちのパパへ。
「うーん。そーかなー?」
「ただでさえ、超が付くほどの有名人だもんねー。こりゃあ、今日は1日大変かもよー?」
「もー。そんなことないって」
「あるってば! ……ふふ。気をつけないとねぇ」
「何をよー」
つんつん、と肘で突いてくる彼女は、なぜかものすごく楽しそうだった。
……大変、ねぇ。
まぁ、それはこれまでの幼稚園経験でわかってはいたけれど。
綜って、案外クラシック好きの人以外にも気づかれているのか、はたまた単なる噂が駄々漏れ状態なのかはわからないけれど、でもとにかく、この園内にいるときはどこにいても視線を感じてばかりだった。
いわゆる好奇の眼差しがほぼ90%以上を占めると言ってもいいだろう。
直接的な話し声が聞こえることはないんだけど、それでも、耳に入ったときはあんまりいい気がしない。
だって、どれもこれも『あれが……』とか『あの子たちが……』とかっていうモノばかりなんだもん。
こんなんじゃ、『実は某芸能人の子どもが通ってる』なんてことになった日には、とんでもないことになりそう。
テレビ出演がほとんどなくて、しかもきっと噂してる人たちの半分以上は『ヴァイオリニストらしい』ってだけで、実際の姿を知らないだろう。
だけど、それでもこれほどの盛り上がりを見せる。
……ホント、好きよね。
ある種の特別な存在って。
ごくたまに、『ヴァイオリニストの芹沢さんですよね?』なんて、子どもとはまったく関係ないことで声をかけられることもあるんだけど、やっぱり感じはよくない。
だけどそれは私以上に、体裁上は笑顔で接している綜も同じどころかむしろずっと嫌な気持ちではあるとか。
……まぁ、そりゃそうだろうけど。
だって、小学生が転校生を揶揄するのと同じレベルに思えるんだもん。
「んーと、確か羽菜ママたちが席を取っておいてくれるって話だったんだけど……」
「え? ホント?」
「うん。……あ! いたいた」
お遊戯室の入り口に立って、きょろきょろと探すように額へ手のひらを当てた妃稀ママが声をあげた。
目線を辿ると、そこにはこっちへ手を振る羽菜ママの姿。
「気が利くぅ」
「どっちかってゆーと、羽菜んちってよりかは、泰ちゃんちのほうだけどね」
確かに、言われてみれば羽菜ママの隣には泰斗ママが座っていた。
「おはよー。ありがとね、席取っておいてくれて」
「ううん。気にしないで。あ、おはようございます」
「どうも」
「おはよ」
にこやかに、綜と妃稀パパへあいさつした羽菜ママは、相変わらずかわいい顔してかわいいことを言ってくれる。
ホント、こういう子を嫁に貰えたら、ご主人はどれだけイイだろうか。
……なんて、パパさんに言うまでもなく、表情がすべてを物語ってると思うんだけどね。
彼女の隣で笑みとともに頭を下げた彼を見ていたら、ピンと来た。
すごい優しそうだし、子煩悩っていうか……むしろ、愛妻家?
きっと彼女は、彼にとっての恋妻に違いない。
だって、なんかもー、見てるだけで愛情が伝わってきそうなんだもの。
きっと、人が見てないところなら、迷わず彼女の頭を撫でてやるような旦那様だろう。
「なんの話だろうね」
「さー。今度の遠足のこととかじゃないの?」
「あ。そういえばそうかもね」
「……ま、あとは近所から来た躾のなってない親への苦情とかかしら」
「もぅ。またそういうことを……」
「あら。だって、ホントのことじゃない」
肩をすくめた妃稀ちゃんママは、相変わらずカッコイイことを言ってくれる。
そうそう。
未だに、園長先生直々にお叱りの言葉が飛び交う保護者会。
しかもこの前なんかは、『今年の親御さんは今までで1番苦情が多いです』とまで言われた。
……そうよそうよ。
もっと言ってやってちょーだい。
そんでもって、もう少し人の噂ばっかりするのをなんとかしてもらえないものかしらね。
だって、私たちと違って何よりも1番かわいそうなのは……やっぱり、親に巻き込まれてるウチの子たちだと思うから。
何もしてなくても『天才ヴァイオリニストの子ども=なんでもできる神童』くらいに見てる親も中にはいるみたいだから。
……なんだかなぁ。
親と子が必ずしも「=」で結ばれることなんてないと思うんだけど。
そりゃまぁ、中にはあの親にしてこの子あり的な親子もいるけどさ。
まぁ、そういう親が多いからこそ、みんなで園長先生にお叱りの言葉を頂戴するんだけどね。
私も、そうならないように気をつけなくちゃ。
子どもって、ホントに見てるところは見てるっていうか……いいことも悪いことも区別なくマネをしたがるんだから。
「……あ。噂をすれば……」
「ホントだ」
これまで、ざわざわとものすごくうるさかった室内が、徐々に徐々に静かになり始めた。
見れば、目の前のステージ上にマイクを持った園長先生が立っている。
それじゃまぁ、注意事項と連絡と――そんでもって、ありがたくお小言を頂戴しますか。
私にとっても、転ばぬ先の杖になるだろう話であると思うから。
|