「嘘をつき始めたのは……私が、小枝さんに相談したのがきっかけです」
「……やっぱり」
「え?」
「お前が嘘つくようなヤツじゃないのは、わかってる。多分俺が1番よく、な。てことは、おおかた誰かがそそのかしたんだろうとは思ったんだが……なるほど。小枝ちゃんか。納得」
「っあ、違うんです。別に、小枝さんが言い出したわけじゃ……」
「いーって。どうせ小枝ちゃんを守ってるだけだろ? 別に、そのことに関して直接聞きに行ったりしねーって」
「……鷹塚先生」
 困ったように慌てて両手を振った彼女に肩をすくめ、ペットボトルから烏龍茶をひと口。
 独特の渋みがうまいと思えるようになったのは、いつからだったか。
 ああ、大人になるってのはこういうことか、なんて当時思ったような気もする。
「小枝ちゃんが何を考えてるのかは知らねーけど、お前のためになるって思ったから始めたんだろ? お前に害がないなら、それでいい。……そもそも、俺は小枝ちゃんと友好じゃねーし」
「そうですか? そんなことはないと思いますけれど……」
「いや? どう見たって敵対関係だろ? 仲がいいんじゃなくて、お互いいがみあってるっつーか……まぁ、小枝ちゃんが自分と似てるからなんだろうけど」
「……鷹塚先生と小枝さんが、ですか?」
「ああ。お前も思わなかったか?」
 つーか、俺と似てる相手だから、仲良くなったんじゃねーの?
 そんな自意識過剰なことをさすがにぽろりと口にするつもりはないが、葉山が彼女にひかれた理由のひとつに『俺と似てるから』というのがあったとしたら、素直に納得できる。
 昔から、似てるなと思ってた相手。
 いつだって上から目線で、初対面の相手にもへりくだった態度をとったりしない。
 相手に媚びず、自己中心的というよりは自己尊重主義とでも言うべきか。
 一歩間違えれば唯我独尊になりかねない態度が、俺に似てるなと思った。
 こうだと思ったら、こう。
 ほかの人間の意見に左右されない、確固たる自己。
 ……だから、俺がひかれることはなかった。
 いろんな場面、いろんなときに納得するし同意もするが、好きにならなかった相手。
 というか、彼女を『女』と意識してみたことなんて一度もなかった。
「……たしかに、似てるかもしれません」
「だろ?」
「そうですね。小枝さんも、カッコいいですもん」
 くす、と笑ってうなずいたのをみて、思わず噴きだしそうになった。
 このセリフ、小枝ちゃんが聞いたら何て言うんだろうな。
 まぁ、『当然でしょ』とふんぞり返りそうな気がしないでもないが。
「……小枝さんも、か」
「え?」
「お前は俺をいつも立ててくれるんだな」
 『も』と言ったのは、彼女の優しさなんかじゃないと思う。
 素直な気持ち――……というか、単に彼女が普段から思ってくれていることが口に出ただけなんだろう。
 俺も、ね。
 臆面もなくにこりと笑った彼女に、情けなくも笑みが漏れそうになる。
 笑みっつーか、むしろニヤけ。
 ……ダメだな。
 性格が悪いとか云々のレベルじゃない。
「なぁ、瑞穂」
「っ……はい……」
「俺を好きだって気持ち、お前はずっと持っててくれたのか?」
 目を見ての質問。
 つくづくタチが悪いな、俺は。
 それでも彼女は表情をほとんど変えることなく、静かに目を伏せた。
「ずっとそうでした、と言ったら……嘘つきの部類に入ります」
「いや。むしろそれが当然だし、普通だろ? 正直だな……お前は」
 申し訳なさそうに眉尻を下げたのを見て、笑いが漏れる。
 そういうところは、昔から何も変わっていない。
 ……素直なまま成長したか。
 当時の願いがそのまま形になって目の前に現れてくれている、今。
 これを喜ばずに何を喜ぶか。
 昔、俺が描いた『将来の彼女』が現実となった今。
 ……まさかその教え子に手を出したいと思ってるなんて、当時の俺が知ったらどう思うんだろうな。
 軽蔑か、拒絶か。
 はたまた、自分で自分を殴りつけてでも思いとどまらせようとするかもしれない。
 当時の教え子は、それこそ自分にとっての子どもとイコールの位置づけだったんだから。
「……高校生のとき、鷹塚先生を見かけたことがあるんです」
「俺を?」
「はい。街探検か何かの途中だったみたいなんですけれど……たくさんの子たちに囲まれていて、その輪の中で楽しそうに笑っていて。……ああ、鷹塚先生だぁ……って」
「っ……」
 当時のことを思い出すかのように懐かしんだ彼女の、その顔。
 やたらかわいくて、それでいて――……どきりとするような、笑み。
 はにかむような、噛みしめるような……そんな独特の甘い表情に喉が鳴った。
 ……当時高校生だったお前は、そんな顔して俺のことを見てた、のか?
 まったく身に覚えがないだけに、申し訳ない気持ちがわずかにある一方、どこかで……どこかで少しだけ、もったいねぇなと思ってる自分がいるのに気づいた。
 高校生だったときの彼女。
 今から、数年前の話だ。
 俺は、彼女が小学校を卒業したあと、一度も見たことがない。
 だから、4月に会ったとき気づかなかった。
 だが……彼女は最初からわかっていた。
 それどころか、卒業から数年経つ高校生になったとき俺を見て、気づいてくれた。わかっていた。
 ……俺を、はっきりと覚えていてくれた。
 それが無性に嬉しかったが、同時に申し訳ないとも思った。
 今の俺の気持ちが、大いに作用してるのは間違いない。
 それでも――……そうか、お前は昔の俺を知ってるのか。
 目を合わせて『もう随分前の話ですね』と笑った彼女に対して、うなずくことしかできない自分が情けなかった。
「鷹塚先生のこと、ずっと目で追ってて……なんで見かけたんでしょうね。もしかしたら、テストか何かで早帰りだったのかもしれません。友達も……穂澄も一緒にいたはずなんですけれど……でも、彼女の記憶にはなくて。ただ、楽しそうに子どもたちと歩いている鷹塚先生を見たのは、確かなんです」
「……そうか」
「すごく嬉しかったんですよ? 私」
「嬉しい?」
「はい。鷹塚先生を見ることができて……ああ、やっぱり私は鷹塚先生のことが好きなんだな、って思ったんです」
「っ……」
 好き、と彼女が口にするたび、どきりと身体が反応する。
 ……当然か。
 自分の人生において、そこまで何度も『好きだ』と気持ちをぶつけられたことなんてない。
 それがどうだ。
 目の前の彼女においては、今の『好き』がいったい何度目の好きなのか正直よく覚えてないほど口にしてもらえた。
 奇特なヤツ。
 ずっと拒否した揚げ句、やっぱり惜しくなって手を伸ばすなんていう都合のイイ扱いしかしなかった俺に対して、まだなお好意をあらわにしてくれるんだから。
「……好きな人はできましたけれど……そんなとき、鷹塚先生を見かけたんです。カッコよくて、どきどきしたら……それまで好きだった人は、もしかしたら“好き”じゃないのかもしれない、って思っちゃって」
「…………」
「だから、正確には『いない』んです。鷹塚先生を越えるほど好きになれた人は……いませんでした」
 ふふ、と笑った彼女が首をかしげると、さらりと長い髪が肩を滑った。
 俺が訊ねた『ずっと』は、俺が彼女を冷たく突き放してからのことだった。
 だが、彼女が話した『ずっと』は違う。
 それでも、俺が知らなかったころの彼女の話を聞くことができて、質問の答えはどうでもよくなった。
 カブってるようなところもあるんだよな。
 ……つーか、高校のころって。
 俺にとっては18年以上前のことだが、彼女にとってはついこの間ってところか。
 6年……前くらいか?
 年の差が激しいな。
 成人すれば何歳だろうが犯罪じゃなくなるような錯覚に陥るものの、こういうふとした瞬間に感じる年齢差ってのはかなりデカいんだな。
 高校生だったのが6年前か……俺と大違いだ。
 俺なんて、6年前も先生やってたぜ。
「……だから、好きだった人と一緒にお仕事ができるっていうだけで、幸せだったんです。なのに、それだけじゃなくて一緒にごはんを食べに連れていってもらえたり……特別扱いしてもらえて……本当に夢みたいでした」
「…………」
「鷹塚先生が、嘘をつけない人だってことは知ってます。まっすぐで、いつだって全力で、とても優しくて――……」
「……俺は優しくねぇよ。……騙されてるんじゃないのか?」
「先生になら、騙されてもいいです」
「っ……」
「思いやりの塊みたいな鷹塚先生に騙されるなら、きっと幸せですから」
 笑顔でさらりと言うな。そういうセリフを。
 ……はー。
 絶対とか、間違いないとか、なんでそう言い切れるんだ。
 俺は完璧じゃない。
 むしろ、打算的でどうしようもないヤツ。
 いつだってラクすることしか考えてなくて、いい加減で。
 ……お前はそういう部分を見てないから、そんなきらきらした目で見てくれるんだ。
 実際の俺はそんなんじゃない。
 聖人君子なんかの真逆を突っ走るようなヤツなのに。
「……俺はずっとお前に……ただ幸せになってほしかった」
「え……?」
 彼女から視線を外し、ぽつりと呟く。
 ずっとそうだった。
 受け持っていたころはもちろん、再会してからもそう。
 ……そして、彼女から離れたときもそう。
 どうしても、幸せになってほしかった。
 俺なんかじゃない、もっと優しい誰かのそばでずっと笑っていられるように。
 それだけを願って彼女を遠ざけた。
 ……だが、どうだ。
 実際そうしてみると、次々に不安ばかりが増え始める。
 手が届かない場所へやってしまえばいいと思う反面、俺のそばで俺が見守れるところにいないと、幸せかどうかわからないという不安。
 そして、ほかの誰かなら必ず彼女を幸せにできるのかという疑問。
 日に日にそれらが大きくなって、結局はまた彼女を手中へ捕らえることを望んだ。
 ……わがままなのは、俺。
 突き放したにもかかわらず、また欲しがったんだから。
「お前が泣かないで済むように、ずっと笑っていられるように……そればかり考えてたのに、結局俺が1番お前を泣かせたんだな」
「そんなこと……ないです」
「いや。実際そうだろ? 傷つけたのは俺だし、俺と再会しなければこんな思いはしなかった」
「っ……違います」
 まっすぐな眼差しに、たまらず眉が寄った。
 折れない、曲げない、受け入れない。
 ……頑固だな、お前は。
 だが、そこがいいんだろう。
「それは私も同じです。鷹塚先生には、たくさんご迷惑をおかけしました」
「……いや、それは……」
「それに……っ……幸せになってもらいたいのも、一緒です」
「っ……」
「笑っていてほしいんです。鷹塚先生の笑顔、私……大好きなんです」
 ふるふると首を振った彼女が、にっこり笑みを浮かべた。
 ……その笑顔。
 それこそ、俺が好きなモノだ。
 ぱっと周りを巻き込んで明るくする。
 そんな力があるから、たまらなく見たくなる。
 ……ほっとする。
 ここしばらくはずっと、俺にとってお前の笑顔は虹よりもレアな存在だったからこそ、余計に。
「幸せになっちゃいけない人なんていません。みんなが幸せならいい、なんて自分を引くのはやめてください。……みんなを大事にしてくれる鷹塚先生こそ、1番大事にしてほしいんです」
「…………」
「それは、私だけの願いじゃないですよ? きっと……教え子みんなの願いです」
 そう言われると弱いんだよ。俺は。
 教え子、なんてくくりでまとめるな。
 ……困るだろ?
 言い訳も、言い逃れも、反論もできなくなる。
 俺にとって、大事な子どもであり家族みたいなモンなんだから。
「……お前は素直すぎる」
「え?」
「もっと人を疑うことを学んだほうがいいぞ」
 ……特に、俺という人間を。
 特別なフィルターを通して俺を見てくれるのは、ありがたいといえばありがたいが、申し訳ないといえばそう。
 そんなにキレイな人間じゃないんだ、俺は。
 透き通るほどキレイで向こう側もはっきり見えるのはお前で、俺はどす黒くくすんで向こう側どころか、近くのモノすべてを取り込んで汚してしまうのに。
「……っ……」
「俺を好きだ、つったな」
「……はい」
「好き、はわかった。じゃあ次は?」
 1歩畳へ手をついて近づき、もう片手を頬へ当てる。
 冷房の効きすぎている部屋のせいか、いつも以上に滑らかでわずかに冷たかった。
 もしかしたら、俺の手がよほど熱いのかもしれない。
 ひんやりとした感触が心地よくて、溶かしてしまうんじゃないかと思っている自分もどこかにいた。
「好きだからどうしたい? 前回もそこが大事だ、つったろ?」
 あれは、保健室での出来事。
 ……そういや、あのころからもう小川先生と小枝ちゃんは付き合い始めてたっつったな。
 つか、そーゆーことは俺に報告してくれてもよかったんじゃねーの?
 そしたら、迷わず葉山をどうにか…………どうにか、できたのかよ。
 意気地がなくて、結局最後には自分の保身を選んで手を引っ込めたクセに。
「…………」
 彼女を見つめたまま、喉が鳴る。
 ……もう、逃げない。
 なぜなら――……わかったから。
 彼女が俺を見放さないでいてくれるということが。
 どんな醜態を見せたとしても、理解してくれるということが。
 ……だから、追いかけたんだ。
 全部さらけ出して、欲しがったんだ。
 逃がした魚が、予想以上にデカかったから。
 ないと思っていた二度目が手に入りそうだとわかったから、ブレーキをかけることは一切なかった。

 そのままでいい。

 そう言ってくれるだろうと確信したから。
「俺だけのモノになる覚悟、できたか?」
「……でき、ました」
 こくん、とうなずいたのを見ながら頬から顎へ指を這わせ、つい、と上を向かせる。
 形いい、つややかな唇。
 ぷっくりと柔らかそうでかつ弾力があるように見えて、視線がしばらく離れなくなる。
 ……ウマいことは知ってる。
 あとは、どう味わうかだけ。
「じゃあどうする? ……お前はどうしたいんだ?」
 どうなりたい。俺と。
 俺が欲しいのは、その先の言葉。願い。
 ……つくづく性格が悪い……というか、もしかしたら性癖のひとつなのかもしれない。
 どうしても彼女にねだらせたがるという、クセのようなモノは。
「…………壮士さん」
「なんだ?」

「私だけのものに……なってください」

 意思のある、まなざし。
 一瞬視線を外した彼女が改めて俺を見つめたとき、そこには芯の強そうな女がいた。
「いいぜ。お前だけのモノになってやる」
「っ……ホントですか……?」
「嘘は言わない。……それとも、お前の中の“俺”は平気で嘘を吐くのか?」
「そんな……! そ、んなことは……ないです」
「だろ?」
「……はい」
 まじまじと見つめてやってから笑い、うなずく。
 途端、ほっと身体から力を抜いた彼女は、満面の笑みを浮かべた。
「律儀だなお前は。……昔と同じだ」
 膝で立ち、片腕で身体の重心を変えて唇の前でささやく。
 ……何度目だ。お前に口づけるのは。
「っ……」
 重ねるように唇を当て、滑らかな感触を味わうように舐める。
 化粧の味はしない。
 ……だから、お前はうまいんだ。
「…………ん……ん」
 体勢を変えたからか、布の擦れる音とそれに混じって……いや、混じらずに聞こえる甘い声。
 ……コレが聞きたかった。
 どうしても欲しかった。
 だから、ねだった。
 お前をくれ、と。
「……ずっと俺だけのモノでいろ」
 舌を離して唇だけを当てたまま囁くと、濡れた感触が心地よかった。
 刹那、うなずいたような……囁かれたような、了承。
 途端、笑いが漏れ、今度は引き寄せるように腰へ手を回す。
 なんとしても、どうしても欲しかった女。
 ……いや、正確には『欲しがった』女だ。
 どうしようもなく手に入れたかった。
 俺だけのモノにしたかった。
 ――……俺色に塗り潰す準備がすべて整った、今。
 もう、迷うことも止まることもない。
 理性がいなくなった今、あるのはただ、目の前でイイ声を漏らす彼女に欲情する本能。

 欲しい。

 ただそれだけだ。


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