「もう、アレしかないわね」
 隣に座ったまま、泣いて、泣いて、ようやく泣きやんだ私の背中を撫でてくれていた小枝さんが、手を止めた。
 先日買ったハンカチを、まさか号泣で使うなんて思わなかったけれど、自分の好きな香りのお陰で少しだけ心が穏やかになる。
 ……でも、これを見るたび思い出すんだ。
 鷹塚先生と、前までのような『恩師と教え子』の関係には戻れなくなった日のことを。
「鷹塚君、ぎゃふんと言わせてやるわよ」
「……ぎゃふん……ですか?」
「そう。ぎゃふんと!」
 漫画の中では聞いたことのある擬音……でいいのかな。
 その言葉を口にした小枝さんは、握り締めた手を天井に向かって突き上げた。
 ――……それからだ。

 私と小枝さんの、秘密の計画が始まったのは。

 まずはじめに、小枝さんが知り合いの美容室を教えてくれた。
 どうせなら、見た目をガラッと変えちゃおう! とのこと。
 昔は短かった髪を伸ばし始めたのは、中学2年のころから。
 ……理由は、単純。
 鷹塚先生に『キレイなんだから伸ばせよ』と言ってもらえたのも覚えていたけれど、女の子らしくなりたいなと素直に思ったから。
 思春期ゆえの思いだったのか、それとも周りのみんなの真似をしたくなったのかまでは覚えていない。
 ウィッグを初体験して、鏡に映った自分の姿を見たときは本当に驚いた。
 ……まさに、劇的な変化。
 こんなにいともたやすく使うことができるなんて、まるで魔法みたいだった。
 長かった髪をひとつにまとめ、隠すようにウィッグをかぶる。
 それだけで、髪の長さが半分ほど消え、髪の短い私のできあがり。
 不思議というよりも、やっぱり嬉しかった。
 だって――……髪を切るという決心をしたものの……ずっと迷っていて。
 切らずに済む方法があったことを知り、お陰で迷いが消えた。
 美容室でウィッグの取り扱い方と自分での着脱方法を教えてもらって、翌日、改めて自分で着けてみての出勤。
 その朝は、ほかの誰でもなく1番最初に鷹塚先生に会った。
 ……驚きに満ちた顔は、今も鮮明に覚えている。

 なんで。

 私を見てそうつぶやいたのを見て、とても申し訳なくなった。
 嘘をつくことを決めたのは、自分。
 だけど……そのせいで、彼が傷つくかもしれない。
 ……と思ったところで、はたと思考が止まる。
 傷つく……?
 誰が傷ついたりするだろう。
 私は彼の特別でもなければ、彼の何かでもない。
 必要とされたわけでもなければ、選ばれたわけでもなくて。
 ……何を考えてるのかと思いきや、私はどうやらとても欲深い自分勝手な人間らしい。
 彼が傷つくはずない。
 たしかに、私の長い髪を褒めてくれた。キレイだと言ってくれた。
 それはとても嬉しかったし、私の自信そのもの。
 でも。
 彼に切るなと言われたわけでもなければ、切るために彼の了承をもらわなければいけない立場でもなかった。
 ただそれだけの関係。
 ……それでも……苦しかった。
 私の髪を見て悩んでいるというよりも、まるで責任を感じているかのような顔をしているのを見るのが。
 そのたびに、『嘘なんです。本当は切ってないんです』と言ってしまいたかった。
 でも、眉を寄せて思い悩んでいるような鷹塚先生を見た小枝さんは、『成功ね』とにんまり笑って。
 最初はその意味がわからなくて、どうして彼をつらい目にあわせているようなことが成功なんだろうと悩んだし、頭に『?』ばかりだった。
 本当にこのままでいいのか、と。
 ……いいはずないのに、と。
 だって、私の目的は彼に対する嫌がらせでもなければ、もう一度好きになってもらうことでもない。
 鷹塚先生に向いていた自分の気持ちを離れさせること、なのに。
 彼を忘れるためなのに……できなくなる。
 むしろ、余計にあれこれと彼を想う時間が増えてしまい、以前よりももっと気持ちが向いてしまうばかり。
 そもそも、小枝さんが私にこの計画をすすめてくれたとき、『鷹塚君をぎゃふんを言わせる』と言っていた。
 その目的は、私を断ったことを後悔させるためと言っていたけれど、でも、私は彼を諦めるための日々だと思っていたので、正直困ってしまった。
 だって……いつまで経っても、鷹塚先生から気持ちが離れられないから。
 これじゃあ、ずっと“好きな気持ち”が持続したまま。
 ううん、むしろどんどん強くなってしまう。
 諦めると約束したのに。
 離れなければと思ったのに。
 ……それなのに……彼は私から離れることをせず、いつしか――……また触れてくれるようになった。
 驚いたし、どうしようと悩みもした。
 でも、やっぱり嬉しかったから。
 どうしようもなく好きな人だから、手を払うことなんてできなかった。
 彼に改めて抱きしめられたあの日、自分がしたいと思うことと、しなければならないこととが頭の中でせめぎあって苦しかった。
 だけど、頭の半分以上が『このままでいいんだ』と考えてしまっていて。
 それはきっと小枝さんに対する裏切りだろうとも思ったのに、彼から離れられなかった。
 ……キスをされたときも、そう。
 嬉しくて、信じられなくて……とても幸せで。
 夢かもしれないと思ったけれど、でも、こんなありえないことを与えてくれる夢ならば覚めたくないと強く願った。
 ずっと、ずっと夢でいい。
 もう二度と起きないと思っていたことが、自分の身に起きたんだから。
 ……それは、今もそう。
 彼に抱きしめてもらえて、キスを……されて。
 今、目の前に彼が居る。
 これは現実か、はたまたリアルな夢か。
 …………どちらでもいい。
 いつか泣くことになったとしても、構わない。
 ありえないことが、起きたんだから。
 二度と起きないことが、起きたんだから。

「どうしたの? その首」
 ありえないことが起きたといえば、あの夏祭りもそうだった。
 小枝さんと小川先生に誘われて出かけた、市境の神社。
 そこで、お参りをしてから小枝さんを探しに参道へ戻った途端、鷹塚先生に会ったのだ。
 彼に会うことはまずないと思って、あの日はウィッグを付けなかった。
 当然のように驚かれ、指摘され、咄嗟に出たのが『ウィッグ』の言い訳。
 短い髪を長くすることができるんです、なんてすぐばれてしまうかと思ったけれど、鷹塚先生は納得してくれた。
 ……そのとき、思ったの。
 やっぱり鷹塚先生は、どんなときでも『教え子』を信じてくれるんだな、と。
 嘘だと、わかっていたのかもしれない。
 でも、それでも信じてくれた。
 ……そのときわかったの。
 ああ、だから私は彼に惹かれたんだ、と。
「ちょっと。瑞穂ちゃん」
「っ……え、な……んですか?」
 鷹塚先生と別れて小枝さんたちと合流したとき、彼女は私の顔ではなく首のあたりに視線を向けたまま、ずいっと近寄ってきた。
「ここ。どうしたの?」
「っ……」
 ひたり、と彼女の人さし指が首を撫でた。
 そこ。
 触れられた瞬間、なんのことか当然理解したのと同時に、先ほどまでの情事が蘇ってかぁっと顔が熱くなる。
 ……言い逃れなんて、できない。
 恐らく、今の私の反応を彼女は見逃していないから。
「…………実は、鷹塚先生に会ったんです」
「鷹塚君に? ……あ。そういえばあの人、いっつもこのお祭り来てたっけ。巡回だとか言いながら。まったく、ワケわかんないわよね。ぶっちゃけ、自分が単にお祭り好きなだけなのに」
「そうなんですか?」
「そーなのよ。あの人、子どもと一緒になって金魚すくいやってるとこ、去年見つけたもの」
 曲げた腰を戻して両手を腰に当てた彼女が、ため息をついた。
 金魚すくい。……鷹塚先生が。
 ふと光景が目に浮かび、小さく笑いが漏れた――……のも、つかの間。
「……ふぅん?」
「っ……!」
 一歩こちらへ踏み込んだ彼女が、目の前できれいな瞳を細めて笑った。
 しまっておいたものを見透かされたような感じに、また喉が鳴る。
「なるほどね。我慢できなくなったか」
「……あ、こっ……これは……!」
「アトなんて付けちゃって。やーらしーんだー。不潔よ不潔ー」
「ッ……小枝さん……!」
「……なんてね。ふふ。面白くなってきたじゃない。作戦成功ってトコね。……ったく。ほんっと、世話が焼けるんだから」
 小枝さんがくすくす笑ってくれたのを見て、正直ほっとした。
 ……間違ってなかった、んだ。
 彼を嫌いになってしまわなくて、よかったんだ。
 やっと小枝さんの言っていた『作戦』の意味がわかった気がして、情けなくも泣きそうになった。

「ほんっと、ありえないわよねー」
 それからしばらく経って小枝さんがそう笑ったのは、保健室にいた私を彼が『瑞穂』と名前で呼んでくれたとき。
 まったく躊躇せず名前を呼び捨てにした彼は、まるで私の反応をうかがうかのような目をしていた。
 『お前ならどう出る?』
 そう聞くかのように見つめられ、私にできたのは、こくん、と喉を動かすことだけ。
 そんな鷹塚先生を睨み、『ないわー』を連呼して保健室をあとにさせた彼女が、ふたりきりになった途端ニヤリと笑った。
「ないわー」
「え?」
「あんな顔見たことないもの。……スイッチ入ったわね」
 パソコン前の椅子に座ったまま私を見つめた彼女が、くすくすと意味ありげに笑った。
 スイッチ。
 その言葉の意味がなんとなくはわかったけれど、でも違うと自分の中では強く否定していた。
 彼が私を好きになってくれるはずがない。
 だって……私は彼の教え子で、絶対に恋愛対象になるはずがない人間だから。
 …………でも。
 それでも、もしかしたら……と、心のどこかで期待している自分がいたのも確かに事実だけど。
 そのとき、小枝さんがぽつりとつぶやいた言葉が、やけに印象的だった。
「アレはもう横恋慕なんてかわいいもんじゃないわね。略奪よ略奪」
 完全に、狩りの目だもの。
 私ではなく、彼が引き返した廊下のほうを向いた彼女が笑ったけれど、意味はさすがによくわからなかった。
 ……でも、今はちょっとだけわかるかもしれない。
 恐らく今の私は、彼女に言わせれば『狩られた対象』とやらなんだろうから。

 ――……そして、つい先ほど。
 お風呂へ一緒に行った帰りに、小枝さんが笑った。
「もういいわね。総仕上げ、完了って感じで」
 私とは違う、大人の女性らしいあでやかな浴衣姿。
 私より数センチ背が高いので、さらにステキに見える。
 眼鏡の向こうからのぞく瞳がすぅと細まると、にっこり彼女らしい笑みを浮かべた。
 同じ同性でも、ときどきこの顔にどきりとすることがあった。
 違うところばかりなのに、でも……雰囲気がもしかしたら鷹塚先生に似ているからかもしれない。
 彼女もまた、彼と同じように笑うときがあるから。
「ずいぶん焦らしたでしょ? ただ、『待て』をずーっとやってきたから、ここで一気に解放しちゃうと、それはそれで瑞穂ちゃんが危ない感じするけど」
「……危ない、ですか?」
「そ。ぱっくり食べられちゃうだけじゃなくて、もっと大変な思いするかもってこと」
 はらりと落ちた後れ毛を指先で撫でつけた彼女が、ふふと意味ありげに笑った。
 今の発言だけでも十分すぎるほどオトナだと思うけれど、彼女が言う『大変な思い』というのが正直頭に浮かばないので、いろんなことを想像してしまう……ものの。
 途端に顔が熱くなって、途中でやめる。
 だって、もしかしたら全然関係ない的外れなことを想像してるのかもしれないし。
「鷹塚君、相当キてるだろうし。気をつけなさい? 瑞穂ちゃん」
「えと……何をですか?」
「やぁね。明日の朝、ちゃんと時間には起きてくるのよ? ってこと」
「……?」
「だーかーら。あんまり激しくヤられすぎて、足腰立たなくなっちゃうと困るわよってこと!」
「っ……!」
 くすくす笑っている彼女を見ても合点がいかずに首をかしげたら、口元へ手を当ててにやりと笑われた。
 その、顔。
 ……やっぱり、鷹塚先生に似ている。
 表情そのものがではなく……雰囲気が、だ。
「……ま、大人だしね。わきまえてると思うけど。彼も一応は」
「…………」
「とりあえず、コレ。さっき拾ったんだけど、届けてやってくれるかしら」
「え? ……あ」
 どこから取り出したのか、見たことのある携帯電話を差し出された。
 黒い、折りたたみ式のモノ。
 これは小枝さんのものではなく、今私が考えていた人の所有物だ。

「限定解除、してきなさいな」

 両手で受け取ったときに、彼女が見せた笑顔。
 それはとてもきれいで、とても大人っぽくて……でも、何かを秘めているように見えた。
 もしかしなくても、彼女はわかっていたんだろう。
 彼の部屋へ行くことで得られるものが、ちゃんとあるってことを。


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