「ごちそうさま」
「ごちそうさまです」
 つい、クセで『でした』が付きそうになった。
 そんな俺とは違い、丁寧に頭を下げて感謝を口にした葉山が、床に置いていたトレイに皿を載せて片付け始める。
 ……こういう何げない動作に、『へぇ』と思わされるんだよな。
 昔とダブるところもあるのに、違うところも当然多くて。
 いちいち発見するかのように目につくと、目新しさを感じもする。
「あ、やりますからいいですよ?」
「いや。俺だって、運ぶくらいはできるぞ?」
「……ありがとうございます」
 茶椀と木椀、それに皿を持って台所へ向かうと、シンクへ食器類を下ろした彼女が俺を見上げた。
 そのとき、あとは洗っておきますね、と言われてさすがに『よろしく』と答えるほかなかったが。
「……正直、小枝ちゃんがちゃんと渡してくれるとは思わなかった」
「え?」
 シンクへもたれながら苦笑を見せ、鍵の束を取り出す。
 じゃらりと音を立てて現れた、大小さまざまな鍵。
 車もそうだが、プライベートで使う鍵よりかは仕事で使う鍵のほうがよっぽど多い。
 ……だが、今はここに自宅の鍵だけ入っていない。
 理由は簡単。
 今の所有者は、俺ではなく目の前の葉山。
 小枝ちゃんが出かけるのを見たとき、恐らくこれから葉山に会うであろうと踏んで託したから。
 ものすごく怪訝な顔はされたし、嫌だともはっきり言われた。
 それでも2度3度頼むと、大げさにため息をつきながらも受け取ってくれたんだから、やっぱりそういうトコは昔から変わらないなと思う。
 現に今、鍵はちゃんと葉山に渡っていて。
 明日学校で会ったら、まず礼を言っておこうと素直に思った。
「……あ、鍵。お返ししますね」
「あぁ、まだいい。帰るときにでも置いてってくれ」
「わかりました」
 スポンジをくしゅくしゅと握って泡のついた手を流そうとした彼女に、首を横へ振る。
 何も、今返してほしくて言ったんじゃない。
 ただ単に、鍵を渡せたことが嬉しかっただけ。
 ……嬉しかった、か。
 そうだな。確かに俺は嬉しかった。
 チャイムを鳴らして玄関を開けてもらえただけでなく、『おかえりなさい』と笑みを浮かべて迎えてもらえたことが。
「っ……!」
 ぽん、と両手を肩に置いてから、そのまま体重をかけるようにして抱きしめる。
 華奢な身体。
 それでも、温かくて柔らかくて、かなり心地いい。
 ……落ち着く、とでもいえばいいか。
 この感触は、何モノにも勝る。
「んっ……!」
 さらりと耳元で揺れる髪を指先で梳き、首筋をあらわにしてから口づける。
 ……だけでは、済まない。
 先日、自分が残したアト。
 そこを舌で撫でると、吐息が変わって聞こえた。
「……随分薄れたな」
「あっ……ん! ゃ……」
「ンな声出すな。……歯止め利かなくなる」
 情けなくも語尾が掠れた。
 だがそれは、相当自分がヤバい証拠。
 ……息が荒いのは、気のせいじゃない。
「優等生がどうした? ……随分と俺に染まったな。彼氏以外と遊ぶだけじゃなくキスまで許しまくって」
「っ……そ、んなんじゃ……」
「……十分“そんな”だろ? ()ってください、つってるようなモンだぞ」
 ちゅ、と音を立てて唇を当て、薄く笑う。
 我ながらいい性格してるぜ。ホント。
「嫌なら嫌って言え。拒否しろ。……ガキじゃねーから、わきまえるぞ」
「……それ、は……っ」
 目の前で緩く首を振られ、ふわりと甘い香りが広がった。
 ……あー。シてぇな。
 ものすごくイイ香りが鼻先にあって、ウマそうな肌が目の前にある。
 ならば――……手を出してもバチは当たらないか?
 目を閉じたままそんなことを考えると、かき抱くように腕へ力がこもった。

「いい加減、俺のモノになっちまえよ」

「っ……」
 返事はどうした、返事は。
 いつだっていい返事をしろ、って言われなかったのか?
 言われただろ? はっきり大きな声で言えって。
 ――……ほかの誰でもない、この俺に。
「これじゃ生殺しだ。いつか、タガが外れる」
「……た、かつかせんせ……」
「俺だってフツーの男だぞ。理性と本能どっちが強いかっつったら、当然後者だ。……いつまでも、『先生』じゃいられなくなる」
 耳元で吐息を含みながら囁き、反応をうかがう。
 腕に伝わる鼓動は、間違いなくコイツのもの。
 どきどきしてることが十分わかるほど速まっていて、口角が上がる。
「……よっぽどイイのか? ソイツは」
「え? ……あ……っ」
「優しいだけなら誰だってそうだ。男なんて特にな。気に入った女には優しくして当然だろ? で? ……ほかには?」
「……え、と……」
「知らねーけど、多分ソイツよかよっぽど俺のほうがウマいぞ」
「…………うまい……ですか?」
「ああ」
 片腕をほどき、指先で脇を撫でる。
 無論、そこだけじゃない。
 そのままゆっくりと上げ、胸の下のラインギリギリをなぞる。
「っぁ……!」
 今度は指先で顎をとらえ、肌に触れるか触れないかの首筋のラインを辿って鎖骨へ。
 そのとき、こくん、と喉が動いた。
 ……素直だな、お前は。ホントに。
 それが今はキツい。
「……しようぜ、つったらお前はそれもうなずいてくれるか?」
「えっ……」
「メシを作ってくれっつったのは、間違いなく俺のわがままだ。なのにお前は、うなずいてくれたどころか、実際行動にまで移してくれた。……じゃあ、ほかはどうだ? ほかのことでも、お前はこうしてうなずいてくれるか?」
 自分でもむちゃくちゃなことを言ってるのはわかってる。
 だが、それくらいもう……おかしくなってるんだ。
 どうしようもなくて。
 無理やりにでもどうにかしてしまいそうで。
 一線越えるか越えないかは、キッカケしだい。
 ほんのわずかなひと押しがあれば、簡単にあちら側へいってしまう。
 ……だから、認めてほしい。
 許してほしい。
 ほかの誰でもなく、この――……俺を。
「……瑞穂」
「っ……」
 『はい』とうなずいてくれまいか、と願うしかできない現実が正直しんどくなってきた。
 最近は、特に。
 コイツに触れられるようになった今だから、なお。
「……邪魔だな」
「あ……っ」
 すい、と右手をすくい、目の高さまで上げる。
 泡のついた手。
 だが、そこには相変わらず細い指輪がはまっている。
「外せ」
「っ……え……」
「邪魔だ。……すげぇ邪魔」
 舌打ちが出なかったのは、まだ幸いかもしれない。
 指先でつまむように指輪を弄り、耳元でねだる。
 だが、こればかりは『はい』とすんなり言ってくれそうにない。
 ……だから、イラつくんだ。
「せめて俺の前だけでいい。……だから、外せよ」
「っ……あ」
 ぼそりとつぶやいてから頬へ口づけ、仕方なく手を離して一歩離れる。
 濡れた手をタオルを握ることで簡単に拭き、ため息ひとつ。
 困ってる、だろうな。多分。
 ……いや。正直よくわからない。
 前までと、まるで違いすぎて。
 今、葉山が何を考え、どうしたいと思っているのかが……まったく俺にはわからない。
「……はー……」
 ため息をつくと、反応したのか葉山が振り返り、少しだけ心配そうな顔を見せた。
 いわゆる、アレか。
 ため息をつくのは……という定言のようなモノで、か。
「幸せが逃げる、か?」
「いえ。いいんですよ、ため息をついても」
「…………へぇ」
 意外な答えに、目が丸くなる。
 コイツなら1番言いそうなことだったのに。
 ……まさか、正反対を許可されるとはな。
「ため息は、いっぱいに膨らんだ“心”の空気を少しだけ抜くための行為ですから、ついてもいいんです。ストレス解消にもなりますしね」
「……へぇ」
「それに、ため息はつきっぱなしでは終わりませんから」
「つきっぱなし、じゃない?」
「はい。鷹塚先生の場合は、特に。……逆に『じゃあやるか』って奮起されるんじゃないですか?」
「っ……」
 ご名答。
 さすが、俺を知りえているだけのことはある。
 ……だが、果たしてちゃんとわかってるのか。お前は。
「ごっさん」
「あ……っ」
 頭を撫でてその場を離れ、ゆっくりとリビングへ向かう。
 そのまま身体を預けるようにソファへ座ると、思った以上に軋んだ音がした。


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