今日はいつもの金曜日と同じ……ではない。
 俺自身の心持も当然違えば、周りの職員の雰囲気も異なっていて。
 ……ま、そうだろな。
 なんせ放課後からは、いわゆる“大人の”お楽しみがあるんだから。
「先輩、いよいよですね!」
「何が」
「何がじゃないですよ! 今日じゃないですか、職員旅行!!」
 花山のテンションは、朝から……いや、昨日の夕方からすでに高まっていた。
 お陰で、今朝の『おはようございます!』がやたらうっとうしくてキレそうになったほど。
 当の本人はそんなことみじんも察知していないようで逆に腹立ったが、それでもさすがに手は出なかった。
 大人だからな、俺は。
 というよりもまぁ……俺自身もやはりどこかで、今日をずっと待ってたからかもしれない。
「…………」
 アレはもう一昨日よりも前の夜になるのか。
 ウチでメシを作って待ってくれていた葉山をそのまま泊まらせるワケにはいかず、21時を少し過ぎたあたりで見送った。
 『サンキュ』とひとことだけ告げたのに、アイツは嬉しそうに笑ってくれて。
 ……そーゆー顔すンから、俺に手を出されてるって自覚は果たしてアイツにあるのか。
 黒エボの運転席へ手を伸ばして触れた頬の柔らかさは、今もなお右手にあるように思う。
 今日は金曜。
 アイツは今ごろ、指導教室へ行っているだろう。
 それでも、今夜の職員旅行へは東小の職員として参加予定なのは確認済み。
 ……泊りがけの旅行の最中、何も起きないとは言いにくい。
 なんせ、集まるのはすべて“大人”だけ。
 今から11年前に行った“修学旅行”とはまるで違う。
 酒も入るし、いつもと違う非日常の雰囲気が、人々を緩ませるのは目に見えてるから。
 …………なんて、な。
 果たして俺は、どこまで“人”でいられる。
 クセのようなもので腕を組んで椅子にもたれると、背もたれが鈍く軋んだ。

「危ないことしてるって自覚あるの?」
「あ?」
 昼休み。
 教室から職員室へ戻ったところで、相変わらず両手を腰に当てた小枝ちゃんが目の前に仁王立ちした。
 コーヒーも飲めねぇな、ンなことされたら。
 どいつもこいつも、俺なんぞほっとけばいいのに。
 つーか、その叱り方はまるで児童に対しているときと同じようにみえるから、好きじゃない。
 まぁ確かに、面倒くささと往生際の悪さを比べたら、俺のほうがよっぽどタチ悪いかもしれないが。
「危ないっていうか……いけない、よね。人の彼女に手を出してるのよ? ちっとも罪悪感があるようにはみえないんだけど」
「人の彼女、ね」
「……何よ」
「別に?」
 は、と笑ったのをどうやら見られたらしく、コーヒーをひと口飲んだところで小枝ちゃんが怪訝そうに眉を寄せた。
 だが、これを笑わずにいられないだろう。
 最近になって芽生えた疑問。
 それは、果たして葉山は本当に彼氏と仲良くやってるのか? ということ。
 昨日の件で、それが確かなモノへと変わった。
 仲良くやってる彼氏がいるなら、なぜ俺の要求に応える?
 なぜ、触れられて嫌がらない?
 キスを許す?
 アイツが男慣れしてるようには、とてもじゃないが思えない。
 キスしたときの感じもそうなら、抱き寄せたときの反応もそう。
 頬を赤らめ、困ったように視線を外し、唇を噛む。
 その仕草は、どんな男にも合わせられるような女はしないんじゃないか?
 確かに俺はアイツにとっての恩師で、なかなか『嫌だ』とは言えない相手かもしれない。
 だが、それとはまた違う理由があって、俺を拒まないでいてくれてるようにしか思えない。
 はにかんだ笑み。
 ときおり見せる、嬉しそうな顔。
 アレは、彼氏と仲良くやってるヤツがする顔か?
 ヨソの男にしていい顔か?
 ……違うだろ。
 あんな顔したら、誰だって勘違いする。
 ああ、コイツは俺のこと好きなんだな、と。
 手を出されるのをむしろ望んでるんだな、と。
 …………俺の勘違いじゃない。
 思い込みでもない。
 小枝ちゃんは、知らないだけだ。
 俺とアイツがふたりきりでいるときのことを、何ひとつ見てないんだから。
「今夜、絶対ふたりきりにはさせないから」
「なんでンなこと小枝ちゃんに言われなきゃなんねーんだよ」
「だってそうでしょ? みすみす瑞穂ちゃんを鷹塚君に渡したりしたら、それこそ貞淑の危機は免れないじゃない」
「は。ンなモン、なってみなきゃわかんねーだろ」
「火を見るより明らかだから言ってるんでしょ?」
 腕を組み直した彼女を鼻で笑い、座りなおしてから丸つけの途中だった家庭学習ノートを開く。
 ひとり1ページやる、毎日提出の宿題。
 この子はローテーションをきちっと守ってるが、中には守らず毎日好きな教科だけやってくる子もいる。
 ……ま、いいんだけど。
 計算だけでも、漢字練習だけでも、はたまた日記だけでも。
 どれをやるかが問題じゃなくて、毎日やることに意義があるんだから。
「ま、そんなに俺とアイツを引き離したいなら、首輪でもつけて常にリードしとけよ」
「……その言い方、すごいヤな感じ」
「悪かったな。昔からだ」
 短く笑うと、途端に面白くなさそうな顔をした小枝ちゃんがマグカップを自分の机に音を立てて置き、かかとを鳴らして職員室を後にすべくドアまで歩いて行ったのが見えた。
 が、その直後。
 どうやら入り口で花山とぶつかったらしく、『ちょっと、どきなさいよ!!』という甲高い声と、『うぎゃぁああ! なんですかぁあ!?』という絶叫が廊下だけでなくこの職員室内にも盛大に響き渡った。


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