ここの貸切露天風呂は、かなりよかった。 　箱根なんかでも入ったことはあるが、ここはまた違って。 　まさに、海を見下ろす高さにあるというのもあるんだろうが、少し熱めの湯と海からの風の温度差が非常に心地よく、ひっさしぶりにいい風呂だなと思えた。 　……つーか、ここの宿『当たり』だな。 　こういう職員旅行で行った宿のうち、個人的にまた来たいと思う宿は、なかなかない。 　小川先生が幹事で正解だろう。 　多分、これはひとえに彼の真面目な性格ゆえの『当たり』なんだろうが、ありがたいモンだ。 「……ん？」 　貸切露天風呂の鍵をフロントへ返し、かわりに自室の鍵を受け取ってから、エレベーターへ乗り込む。 　まだ濡れている髪を簡単にタオルで拭きながら廊下を歩いていると、自分に割り当てられた部屋のチャイムを押してる人間がいた。 　花山が着ていた色の浴衣とは違い、まるでぱっと花でも咲いたかのような明るさのある女モノの浴衣を着ている、かわいくて若いねーちゃん。 　……向こうから俺のトコへ来るとはな。 　いい度胸だ。 　つーか、好都合。 「どうした？」 「っ……あ。お風呂、だったんですね」 「ああ」 　困ったようにもう一度チャイムを押したところで声をかけると、驚いたらしく弾かれたようにこちらを見た。 　だが、相手が俺だとわかってすぐ、ほっとしたように両肩が下がる。 　浮かべているのは、安堵からの笑みか。 　……そーゆーのを無防備な顔っつーんだぞ。 　一気に警戒を解いた葉山に、ついため息が漏れる。 「お前も風呂だったんだろ？」 「はい。ちょっと熱かったですけれど、露天風呂は気持ちよかったです」 「だな。……つっても俺は、貸切行ってきたけど」 「そうなんですか？」 「ああ。眺めもよかったし、気持ちよかったぞ」 「へぇ。いいですね」 　わずかに首をかしげて笑った彼女に、ふ、と音もなく手を伸ばす。 　そのとき、ぽつ、と前髪に残っていたらしい滴が腕に落ちた。 　まるで、『よせ』と言うかのように。 「んじゃ、朝イチで俺と行くか？　一緒に」 「え……？」 「６時に予約してきたんだよ。なんなら行こうぜ」 　顎に手を当てて瞳を細め、戸惑った彼女の瞳を捉える。 　口角が上がったのは、性格の問題。 　だから、俺にはどうしようもないこと。 「……一緒に、ですか……？」 「ああ。絶景だったぞ。行きたいんだろ？　お前も」 「それは……そう、ですけれど……」 　でも、あの。 　困ってるのは承知。 　だからといって、言わないという選択はできない。 　……それもまぁ、性格の問題なんだろうな。 「で？」 「……え？」 「ひとりでどうした？　……俺を誘いにでも来たのか？」 「あ、ええと……これを、預かってきたんです」 「……あ？」 　ずっと両手で何か持ってんなとは思ったんだが、差し出されてみて驚いた。 　そこには、葉山が持っているはずのない、俺の携帯があったから。 「大広間の座布団の下にあったそうなんです。これ、鷹塚先生のですよね？」 「ああ。……それをわざわざ届けてくれたのか？」 「わざわざ、というほどのことではないんですけれど。でも、ないと困りますもんね」 　差し出された携帯を受け取り、開く。 　それはもう、習慣のようなモノ。 　メールや着信は１件もなく、相変わらず面白くもない待ち受けが同じように表示された。 「サンキュ」 「いえ、とんでもないです」 　パチン、と音を立てて携帯を閉じ、取り出した鍵をドアへ差し込む。 　昔ながらの、キーホルダー型の鍵。 　カードキーが主流になった今、旅館ならではの形態か。 「あの……鷹塚先生に、お話があるんですけれど……」 　ガチャ、とデカい音を立ててロックを外し、ドアを開く。 　冷房を付けっぱなしにしておいたお陰で、廊下よりも冷えた空気が足元へ流れてきた。 「壮士」 「え？」 「俺をそう呼んだら聞いてやってもいい」 「っ……」 　ぐっ、とドアを目いっぱいに開き、手を当てたまま彼女を見ると、丸い目をさらに丸くさせて俺を見つめた。 　風呂上がりだと言っていたからか、いつもより素に近い顔。 　若さというよりもそこに幼さが見え、一瞬昔の彼女とダブる。 「……壮士さん」 　小さな小さな声で、それでも精一杯の表情を浮かべて葉山が名前を呼んだ。 　こくん、と動く白い喉。 　……えろいな。 　普段のかわいらしい服装とはまた違い、あでやかな浴衣姿。 　合わせからちらりと覗いている鎖骨のラインが、やけに目につく。 「壮士さんに……お話があります」 「なんだ？」 「……ずっと、言わなければと思ってました」 「ふぅん」 　ぎゅ、と両手を握り締めた彼女が、１度外した視線を戻しておずおずと俺を見つめた。 　真剣な眼差し。 　……というよりかは、そこに決意のようなモノを感じる。 「いいぞ。……入れよ」 　口ではそう言いながら、正直携帯だけを受け取って『じゃ、またな』なんて言うつもりは元からなかった。 　だが、彼女からこう切り出してくれたのは、好都合。 　小さく頭を下げて先に部屋へ入ったのを見ながら、うっかり口元が緩みそうになる。 「…………」 　自宅じゃないものの、完全なるプライベート空間。 　そこまで薄い壁でもないようだし、まぁ……時間も時間だしな。 　お前が決めたことだ、葉山瑞穂。 　あと戻りはできない。 　……だが、それは同時に後悔もさせないということで。 　彼女がゆっくりと進んだのを見てからドアを閉め、後ろ手で音を立てないように鍵をかける。 　そのときわずかに音がしたものの、彼女は振り返らなかった。 　気づかなかったのか――……それとも本当に覚悟を決めでもしたのか。 　どちらにせよ、これで密室。 　……ここからは、大人対応でいかせてもらう。