「鷹塚先生」
「ん? ……おー。お疲れさま」
「お疲れさまです」
 その日の放課後のことだった。
 とっくに勤務時間は終了しているはずの葉山が、職員室の俺を訪ねてきたのは。
「どうした? もうとっくに帰っていいはずだろ?」
「そうなんですけれど……でも、どうしても鷹塚先生にお話を聞きたかったので……」
「……俺に?」
「はい」
 その顔は、いつもの彼女らしからぬ真剣な眼差しで。
 穏やかさとか和やかさとか、そういうものよりもずっと緊迫めいたモノを感じて、ついコーヒーを飲もうとした手が止まった。
「……どうした?」
 こういうとき、つい昔のクセが出る。
 相手は、もう22歳。
 しかも、相談員としてここに赴任して来た。
 ……なのに、だ。
 どうしたって昔『担任だった』という事実があるせいか、こっちが相談に乗ってやらなきゃって気になって。
 悩みか、はたまた困ったことか。
 初日ゆえの何かトラブルでもあって、それで俺しか頼れる人がいないんじゃ……なんて勝手に思い込んだというのも、少しはあったけど。
「実は……佐原さんのことなんですけれど」
「……佐原? ……って……ウチのクラスの?」
「はい」
 空いていた花山の椅子を引き寄せて彼女にすすめ、身体ごとそちらに向き直る。
 出てきたのは、葉山本人の悩みごとではなく、ウチのクラスの児童の名前。
 ……でも、正直その名前が出てきて、少しはわかっていたんだと思う。
 真っ先に、彼女が相談に行ったんだと確信したから。
「……へぇ。自分から行ったか」
「え? ……意外……ですか?」
「ああ。あの子はさ、5年のときからずっとある意味『女王様』的存在だったから。プライドも高いし、言うこともなかなかだし。だから、自分から弱みを暴露するなんて思わなかった」
 トラブルを抱えているのは知ってる。
 そしてそれが、家庭環境から来ていることも。
 だが、彼女は一切認めなかったし、そんな素振りも見せなかった。
 俺に言わせれば、ただ意地を張ってるってだけ。
 それでも本人にとっては、周りの自分を崇め奉ってくれる友人たちに対する体裁があったんだろうとは思う。
「なんでも、お母さんが……すごいみたいですね」
「そうなんだよ。……すげーぞ? あのお袋さんは。ウチの学校でも、トップクラスのクレーマー」
 最近流行りの、モンスターペアレントという言葉。
 とんでもねー言葉だなとは思うが、事実、それくらい『はァ?』なことを言い出すんだから仕方がないとも思う。
 どうして、集合写真でウチの子が真ん中に写ってないんですか。
 どうして、風邪を引いたんですか。
 どうして、ウチの子だけ宿題を忘れるんですか。
 どうして、どうして、どうして……。
 ホント、そんなんばっか。
 挙句の果てには、『どうしてウチの子は足が遅いんですか』なんてモノまであった。
 ……でもさ、フツーの感覚ならまず昔の自分を思い返してみるだろ?
 自分が子どものときはどうだったかな、って。
 そしたら、風邪引こうと宿題忘れようと、それは全部誰かの責任ってワケじゃないことくらいわかるはずなのに。
 でも、今は違う。
 とりあえず、責める。
 ……これが今の風潮なんだろうか。
 弱い部分弱い部分へと、どんどん『いじめ』が広がって行くのは。
「なんでも、お母さんの前で友達を悪く言っちゃったら、その日の夜にその子のところへ直接電話をしてたとかで……」
「……あー。アレだろ? 4人組」
「あ。ご存知ですか?」
「ああ。朝イチで俺ンとこ来たよ。昨日の夜、佐原のお母さんからものすごいキレられた、って」
 記憶にはまだ新しい、先週のこと。
 職員室に着いて間もないってのに、どやどやと4人が俺のところまで押しかけてきた。
 当然、ぎゃーぎゃーとデカい声でああだのこうだの文句を言っていたが……そういえばあのとき、佐原もいたんだよな。
 一瞬だけだったけど、職員室のドアの所ですげー困った顔してこっち見てたっけ。
 『あれ?』と思って見直したときには、もう居なくなっちゃってたけど。
「…………そっか。アイツ、大分悩んでるんだな」
「ですね。すごく……つらそうでした」
 きゅ、と両手を握り締めたままうなずいた葉山が、少しだけ視線を落とした。
 よっぽどいろいろなことを聞いたのかもしれない。
 その表情には、やっぱりこれまでの明るさが少しだけなかった。
「…………」
 同じ立場で考える。
 それはつまり、相手と同じ気持ちで同じ立場で物事を考えるということだ。
 単なる教師にできることは限られているが、やっぱりカウンセリングを学んだ人間ともなると違うんだろう。
 彼女の表情は、一時期の佐原にそっくりだった。
 …………でも。
「……あ……」
「ありがとな」
「先生……」
 手を伸ばし、わしわしとその頭を撫でる。
 驚いたように顔を上げたが、それでも、すぐにいつもと同じような柔らかい笑みを浮かべた。
 確かに、葉山の仕事は大変だろうし、正直しんどいと思う。
 人の痛みやつらさ、悩み、すべてを背負うんだから。
 ……それでも、彼女が居るから。
 そのお陰で、救われる子が居る。
「5時間目のとき、少しだけ佐原がいつもより元気だったんだ」
「……え?」
「葉山のお陰だったんだな。……ありがとう」
 大変な仕事だと思う。
 それでも、誰かにとってはものすごく支えになる、特別な存在。
 親でも、友達でも、先生でもない人。
 だからこそ話せる、自分が抱えている心の奥の深い深い部分にある、汚さだったり弱さだったり、醜さだったり。
 これからの時代、必要な存在ではあると思う。
「そんなっ……でも、よかった。佐原さん元気になれたんですね」
「そうだな。久し振りに、あの子が笑ってるの見たし」
「……よかった」
 心底ほっとしたように、嬉しそうに。
 両手を膝に乗せた彼女が、ほぅっと息を吐いた。
 ……そう。それ。
 この顔こそが、やっぱり彼女らしいモノだと思う。
「しっかし、初日から大変だなー。しょっぱなから相談あるなんて」
「ですね。……でも、私としては正直ほっとしてますけれど」
「……まぁ、そうかもな。けど、葉山なら大丈夫だろ。気兼ねなく相談行けそうな雰囲気だし」
「そうですか?」
「ああ。なんかこー、いかにも優しい人のよさそうなお姉さんっつーか……」
「そ、んなことないですよっ」
「いやいや」
 腕を組んだまま彼女に笑うと、慌てて手を振った。
 こういう謙虚さも大事だよなー、やっぱ。
 去年までの先生は、ホント怖かったもん。やたら上から目線だったし。
 ……あれじゃ、なかなか相談に行けないって。
 子どもじゃなくても、当然。
「そうい――」
「……あのぉ」
「ん?」
 何やら、やたら情けない声が背後から聞こえて来た。
「っあ……! す、すみません!」
「いえいえっ! とんでもないです!」
 と同時に、葉山が慌てて立ち上がり、頭を下げる。
 ひょっこり姿を現したのは、花山本人。
 …………あー。
 そういや、葉山に貸した椅子はコイツのだったな。
「本当に、すみませんでした」
「いいえー、いいんですよ! すみません、こっちこそ」
「そんな!」
 わたわたとお互いに頭を下げ、恐縮ですとばかりに手やら首やらを振る。
 ……うーん。
 なんかこのふたり、ちょっと似てるよな。
 なんて、ちょっと思った。
「あ、えと……それじゃ、私はお先に失礼します」
「ん? ああ、そっか。……悪かったな、こんな時間まで」
「いいえ、大丈夫です」
 俺の隣に立った彼女を座ったまま見上げると、にっこり笑って緩く首を横に振った。
 時計を見れば、彼女の勤務時間から大幅にズレてしまっている。
 ……初日からこれじゃ、かわいそうだよな……。
 荷物を纏めてから、改めて『失礼します』と職員室をあとにする後ろ姿を見ていたら、ふとそんなことが浮かんだ。
「………………」
「………………」
「なぁ、花山」
「はい?」

「お前、なんでそんな嬉しそうなんだ?」

 彼女を見送り、すっかり冷めたコーヒーを手にしたとき。
 ふと、横の花山の機嫌がやたらめったらイイのに気付いた。
 ひとつは、鼻歌。
 そしてもうひとつは……花山のその顔だ。
「ええー。そうですかぁ? そう見えますかぁ?」
「ああ。ぶっちゃけ、気色悪い」
 にたにた。
 それはもー、崩れに崩れたその顔は、とてもじゃないがヨソ様に見せてイイものじゃない。
 ……うわー、もしかしてよっぽど嬉しかったんだろうか。
 葉山がコイツの席に座ってた、ってことが。
「………………」
 コーヒーを一気に呷って、あることを誓う。
 今度もし座らせるようなことがあったら、そのときは俺がコイツの席に座って、俺の席に葉山を座らせよう、と。
 ……見物だな。
 そんときのコイツの顔が。
「……ふ」
 にまにまとそれはそれは幸福そうな顔をしている花山を尻目に、そんなことをほくそ笑むのだった。


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