「はー……ぁ」
 ようやく戻ってきた、職員室の我が席。
 淹れたコーヒーを置いて伸びをすると、ついでに欠伸も出た。
 今日は、短縮授業。
 ……そしてついでに、放課後のこれからの時間は親子面談。
 あーうーあーうー。
 俺、ホント苦手なんだよなぁ。
 このテの行事って。
 だからもちろん、家庭訪問も苦手。
 ……ま、さすがに全部の家が苦手ってワケじゃないけど。
 ひとつふたつ……ま、如いて言うならみっつくらいか。
 できるだけ長時間拘束されたくない親御さんが待ち構える家ってのは。
「……お」
「お疲れさまです」
「葉山もな」
 荷物片手に職員室へ戻って来た彼女を見ながら笑うと、同じように柔らかく笑った。
 彼女がこの学校に赴任して、早3週間。
 その間に劇的な変化こそないものの、徐々に徐々に彼女のお陰だと思える事例報告が増えていた。
 そしてそれはもちろん、俺のクラスだけに留まらず。
 これまで、ある意味『目安箱』として児童からの要望やら何やらを受け入れていた校長先生をはじめとする、ほかの先生方も口にしていることだった。
「これから、面談ですか?」
「ああ。……あー、そういや佐原のお母さんは明日だったな」
「あ、そうなんですか?」
「ああ」
 学級日誌の間に挟んでおいた表を見ながら口にすると、当然のように葉山は反応を見せた。
 どうやら、葉山が来るたび遊びがてら顔を見せているらしい、彼女。
 本人は気付いていないかもしれないが、これまで妙なわだかまりを抱いていたほかのグループの女の子とも、今では関係が良好になりつつある。
 恐らくは、彼女が抱いていたイガイガした気持ちが、葉山に相談して話を聞いてもらうようになったことで、自分なりに整理ができ始めているのかもしれない。
 ……安定、だな。
 前みたいにつっけんどんな言い方が減ったし、きっつい顔で睨むこともなくなったし。
 ホント、いいことだ。
「でもほら、今日はもう上がりだろ? だから、木曜でよければ結果報告するけど……」
「いいんですか?」
「そりゃあな。これまで佐原の相談に乗ってもらってたんだし、報告するのは当然だろ?」
「……それじゃあ……話せる範囲でお願いします」
「りょーかい」
 両手を組み合わせた彼女にうなずき、名簿を持って立ち上がる。
 時計を見ると、ちょうどあと10分で最初の親御さんが教室に来る時間。
 ……であり、葉山の終業時間でもあった。
「んじゃ、気を付けてな」
「あ、はい。それでは、お先に失礼しま――」

「どういうことなの!?」

「っ……」
「……なんだ……?」
 彼女を職員玄関まで見送りながら、階段へ向かおうとした矢先。
 いきなり、後ろから大きな怒声が飛んで来た。
「……アレは……」
「え?」
 ふたり揃って同じ方向を見れば、出所は職員室横の校長室。
 そのドア付近にちらちらと見える人影に見覚えがあって、反射的に眉が寄る。
「……アレだよ」
「あの人……ですか?」
「ああ。佐原のおかーちゃん、な」
 肩に名簿の背を当てながら葉山を見ると、自然に引きつった笑いが漏れる。

「どうして聞いてもらえないんです!? 私は親ですよ!」
「いや、そう言われましてもですね……。今日は生憎、校長先生が出張で出ておりますので……」
「そういう問題じゃないでしょう!! それじゃ、鷹塚先生は? 今どちらです?」
「あ、いえ。彼は今、個人面談を――」
「ほかの子とウチの子、どっちが大事なんですか!!」
 ハッキリ聞こえてくるのは、そんなとんでもない要望。
 ……って、要望とは言わないよな。
 そりゃ、誰だって自分の子が1番かわいいと思うぞ。
 それは当然だ。
 つーか、そうでなきゃいけない。
 ……だが、あまりにも度がすぎると、な……。
「………………」
 今ここで出て行って見つかるワケにはいかない。
 なぜなら、今あそこで必死に俺を庇ってくれてる教頭先生にも申し訳ないし、これからすぐ面談が始まるから。
 俺だって、自分のクラスの子たちは特別かわいい。
 だけど、だからと言って今ここで順番を変えてまで佐原のお母さんの話を聞く……ってワケにもいかない。
 それが、ルール。
 最低限の、当然だから。
「……しかし参ったな」
 いったい何があった。
 そして、何をした。
 ……俺か?
 やっぱ、俺なのか?
 …………あー……。
 俺、なんか気に食わないようなことしちゃったのかな。
 さっぱり思い浮かばないものの、なんだか知らんが遠目にみてもわかるほどの激怒っぷり。
 よっっっぽどのことがあったに違いない。
 いや、間違いなく。
「…………」
「っ……葉山……!?」
 柱の影から一緒になってあっちの出方を見ていた彼女が、不意に身を表した。
 彼女が何を考えているかは、なんとなく……わかるような気もする。
 だが、今はダメだ。
 絶対。
 かなり危ない。
 そう思ったから、咄嗟に彼女の手を引っ張っていた。
「おまっ……な! そりゃ気持ちはわかるんだけどさ、でもほら、今は――……」
「大丈夫ですよ」
「っ……」
「カウンセラーは、どんな人でも対応できるように学習してますから」
 慌てて首を振り、再度彼女を連れ戻そうと掴んだ手に力を込める。
 だが彼女は、そんな俺ににこりとした笑みを見せてくれると、ゆっくり手を重ねてきた。
「大丈夫です」
 再度告げられる、優しい口調の言葉。
 もしかしたら、俺が単にあっさりしすぎてるのかもしれない。
 もしくは、単純すぎるのかもしれない。
 だがなぜか……彼女の言葉を聞いていたら、すんなり手から力が抜けた。
「…………そっか」
 ぽつりと呟くように口から漏れたのは、そんな言葉。
 情けない話だが、頭のどこかでは『彼女ならば』って気持ちがすでに湧きつつあった。


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