「ありがとうございました」
「いいえ、こちらこそ」
 5時間目の終了、少し前。
 子どもたちと並んでから師範にあいさつを済ませると、そこで当然のように解散となった。
「それじゃ、次の時間は教室でまとめやるからー。先に行って準備しとくよーに」
「はーい」
 ぞろぞろと列を成して体育館から出て行こうとする子どもたちに声をかけ、自分は後片付け。
 ……の前に、再度彼を見送る。
 近所にある空手道場の師範。
 なんでも、ほかのクラスの子数名が通っていたこともあって、今回快く引き受けてくれたんだそうだ。
 ……だが、まさかこんな大波乱の時間になるとは。
 いったい、誰が予想したか。
「あ。私も手伝います」
「あー、サンキュ。助かる」
 もしかしたら、罪悪感とやらを抱かせてしまったかもしれない。
 ひどく申し訳なさそうな顔のままこの時間を過ごした葉山が、俺より先にマットへ手をかけた。
「…………」
 咄嗟。
 いや、恐らく反射ってヤツだろう。
 ソレ位、鮮やかだった。
 ……しかし、まさか武道まで習っていたとは。
 スポーツ万能少女だとは思っていたが、そこまで精通しているとは夢にも思わなかった。
「…………」
 捻られた腕は、ホントに、手加減されたからアレで済んだようなもので、本気だったらまず折れてた……かも。
 ……つえーんだろうな、多分。
 師範と一緒になって子どもたちへ熱心に受身の方法を指導してくれていた姿を思い出し、『あのときが葉山の本気じゃなくてよかった』なんて少し思った。
「…………」
 マットを片付けるべく端に立つと、葉山も同じように片づけをしていた。
 そんな後ろ姿を見ながら、『やってみたい』衝動に駆られる。
 ……今なら、もしかしてもしかするかもしれない。
 できるかもしれない。
 俺と彼女しか居ない、この空間。
 ……いや、ほら。何だ。
 あのときはさ、手加減っつーかやっぱ相手が葉山ってこともあって、力をあまり入れなかった。
 そりゃそうだ。
 身を守るための情報を何も得ていない彼女に、大の男が全力でかかることほど卑劣なものはない。
 ……だろ?
 だから、あえて俺も力を入れなかった。
 彼女なら、俺がほんの少し力を入れただけでも、まず勝てないと思ったから。
 ……だが、実際は違った。
 『アレは本気じゃない』なんて言い訳しても、通用しないようなことが身に起きた。
「………………」
 ごくり。
 後ろ姿を見たまま近寄り、そーっとバレないように両腕を彼女へ伸ばす。
 あのときは、俺だって油断してた。
 でも、今は違う。
 それこそ、半分本気。
 ……いや、もっと。
 だから――……今度は、腕を取られない自信があった。
「……よっ!!」
「ひゃっ……!」
 ぎゅうっと後ろから抱きしめると、彼女は身を縮ませて動きを止めた。
 だが、止まったのはそれだけじゃない。
 明らかに、俺たちの周りの時間も、一緒に止まったのがわかった。
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 ……あれ?
 一向に、動きだしそうにない気配。
 それどころか、身を硬くした葉山自身、微妙に震えているような気もして。
「…………葉山?」
 そっと力を緩めて彼女の顔を後ろから覗き込む………と。
 そこには、真っ赤な顔をして俯いている姿があった。
「うっわ!!」
「っ……」
「ち、がっ……! 悪い! 違うって!!」
 そーゆーんじゃなくて!
 慌てて両手を離し、その場から飛び退くようにして離れる。
 違う!
 ちがーう!
 俺は、違うぞ! 断固として違うんだって!
 あの、だから! そーゆーワケじゃなくて!!
「ちょ、ごめっ……! その、なんだっ……!」
「ち、違うんですっ……! 私のほうこそ……す、すみませんっ」
 両手を挙げて『降参』ポーズを取りながら、彼女に向かって首を振る。
 すげー慌ててる。俺。
 だが、それ以上に葉山のほうがもっと慌てていた。
「い、いいんですっ。……あの……ちょっと、びっくりして……」
 ばくばくと心臓が高鳴ったまま。
 さっきももちろん痛かったが、今は違う意味でものすごく痛い。
 ……うわ。心臓張り裂けそう。
 どくどくと妙な速さで血液が身体中を流れるのがわかって、だからこそ妙に息苦しかった。
「…………」
「…………」
 視線を落としたまま、困ったように……相変わらず赤い顔してる彼女。
 ……と、何も言えず、ただただ黙って対面している俺。
 ………………。
 ……うわ。
 やっちゃった感が、ものすんごい。
「ほんっとーーに、悪かった!」
「い、いえっ! 大丈夫ですから!」
 パン、と両手を叩いて合わせてから、頭を下げる。
 そんな俺に、慌てて手と首を振ってくれる彼女。
 ……だから、コレで終わり。
 この、妙な雰囲気と気まずさから、脱出。
「っし。んじゃ、片付けるか」
「あ、はいっ」
 口調を敢えて変えて提案すると、ぱっと表情を変えた彼女もうなずいてくれた。
 ……あー。
 やっぱ人間、予想外ってのはダメだな。
 久しぶりに、この年でビビった。
 ……まぁ、お陰で腹減ったのなんて頭の中から全部吹っ飛んだけど。

 ――……その日の放課後。
 妙な体力と気力の使い方をしたせいもあってか、子どもたちを一斉下校で送り出したあと戻って来た自分の机で、うっかり瞼が閉じそうになった。
「……あー。ヤバい。眠い」
「先輩、ダメですよ? 寝たら」
「言われなくてもわかってるっつの」
 言ってみただけなのに、なんだこの反応の速さは。
 もしかしなくても、相変わらず俺が葉山と仲いいのが気に入らないんだろ。
 ことあるごとに最近つっかかって来るんだよな、ホント。
 めんどくせ。
 つか、お前はお前で新任の山寺先生に声かけまくってたクセに。
「…………」
 そういや、今日はまだ葉山が職員室に戻って来ていなかった。
 いつもなら、とっくに戻ってきてる時間。
 ……珍しいな。
 つーか、もしかして寝てんじゃねーのか?
 自分が眠いせいか、人まで巻き込む。
「…………」
「先輩。どこ行くんですか」
 ぎろり。
 ちょっと立った途端ものすごい顔で睨まれ、思わず噴き出しそうになった。
 お前は俺のSPか何かか。
「トイレ」
「じゃあ僕も行きます」
「……馬鹿かお前」
「本気ですよ!」
 なんでだよ。
 思い切り瞳を細めてから表情で拒否し、大げさにため息ついてやる。
 ……このままじゃ、ホントについて来そうだ。
 勘弁してくれ。
「相談室なんか行かねーから、安心して丸付けしてろ」
「ほんとですね? 絶対ですよ? 嘘ついたら泣きますからね!」
「泣くな」
 すでに半泣きの顔で見られ、ひらひら手を振ってとりあえずなだめておく。
 いい年して泣くな。
 つーか、コイツじゃ周りの先生方に平気で『鷹塚先生に泣かされました』とか言いふらしそうで、そっちのほうがもっと怖かった。
「…………はー」
 職員室を出てから、相談室を目指す。
 つっても、目指すってほどの距離じゃない。
 すぐそこ。
 『相談室』と書かれているプレートも、ここからよく見える。
 6年も下校したあとの、16時過ぎ。
 この時間、当然校内に児童の姿はなく、そろそろ葉山自身も先に仕事を終えて帰る時刻。
 だが、相談室からは相変わらず光が漏れていて。
 ドアも開けっ放しになっているから、今は相談者も来室してないとわかる。
「…………」
 コンコン、とドアをノックして入る。いつもなら。
 たとえ、ドアが開いていたとしても、それはいつもの習慣。
 ……なんだが……さすがに、今日は手が動かなかった。
 両手をジャージのポケットに突っ込んだまま、無言で一歩踏み込む。
 合わせられた長机と、キレイに並ぶ幾つかの椅子。
 その窓際の奥の席に、彼女はいた。
 一見すると、『相談室』というよりは『会議室』に見えなくもない。
 ……ま、しょうがないよな。
 葉山が来ない日は、ここで来訪者との話し合いなんかもされる場所だから。
「………………」
 机の上に置かれている、大き目の手帳。
 クリアファイルに入っている、なんかいろいろな専門用語が並んでいる書類。
 幾つかのペンがのぞいている、筆入れ。
 ……そして、彼女の目の前。
 付けっ放しになっている、ノートパソコン。
 どれもこれもが、俺の知ってるころの彼女からはほど遠いモノばかり。
 だが、これらが今の彼女を表すモノ。
「…………」
 葉山のすぐ隣へ両手を置いて顔を覗くも、反応はない。
 両手で頬杖をついたまま、俯き加減で1点を見つめている。
 ――……ように見える。
 うまいな、意外と。
 ハタから見れば、決して寝てるようには見えない。
 ……うん。
 寝てるんだよ、今。この子は。
 本気で寝てるワケじゃないだろう。
 でもほら、たまにあるじゃん?
 眠くて眠くてどーしよーもなくて、ちょっとだけ目を閉じてみるか、ってとき。
 ようは、さっきの俺みたいな、ってこと。
 だから、一応意識はある。
 ……はず。
「………………」
 ぶんぶんと目の前で手を振ってみる。
 が、応答なし。
 ……ま、そーだろーな。
 つーか、完全に意識はどっか飛んでるかもしんない。
「………………」
 まじまじと近距離で顔を覗くと、相手が隙だらけだからというか、ナンというか……これまで気づかなかったようなことに気づく。
 伏せられている、瞳。
 薄いながらもきちんと色付いていて、大人になったんだな、ってことを改めて実感させられる。
 まつげ長いんだな、とか。
 なんか昔と全然違ういかにも『大人の女性』な雰囲気だな、とか。
 シャンプーだかなんだか知らねーけど、すげーイイ匂いがすんだな、とか。
 …………。
 とにもかくにも、これまでわからなかったこと。
 気づけなかったこと。
 ……そりゃそうだ。
 これまで、こんな近距離で葉山を見たことなんてない。
 近距離どころか、今は、顔がすぐそこ。
 普段の立ち位置からしたら、絶対にありえない距離。
「…………」
 ぱちん。
 頬を叩くと、予想以上に我ながらいい音がした。
 しっかりしろよ。シャキっとしろ。
 おっさんか、俺は。
 若くてかわいいねーちゃんが、目の前で寝てる。
 まさに無抵抗。
 だからっつって、アレコレ手を出す寸前のおっさんみたいで、情けなかった。
 ……そう。
 でも、そーだよ。
 そもそも、葉山が寝てるのが悪い。
 仕事中だぞ? まだ。
 そりゃ、人間誰しも眠くなる時間帯ってあるけどな。
 どんなにがんばっても眠くて眠くて眠くて眠くて……ってときも、ある。
 それはわかる。
 ……でも、寝るな。頼むから。
 俺のためにも――……つーか、見つけたのがほかの誰かじゃなくて、俺でよかったぞ。マジで。
「…………たく」
 すーすー、と静かな寝息が聞こえてきそうな葉山を見ながら、俺に感謝してほしいモンだなんて自分のしたことを棚に上げる。
「…………」
 音がする物が何かないか。
 そう思ってポケットを探ると、携帯が入っていた。
 パキン、と小さな音を立てて開き、ボタンを押す。
 別に、何か特別な想いがあったワケじゃない。
 ただ、押して出てきた画面がそれだっただけ。
 ……そもそも、音鳴るし。
 そんなふうに、このときの俺はあくまでも無意識だった。
 …………無意識、ってのとは少し違うか。
 それでも、気付いたときは自然とそうしていた。
「…………」

 ぴろりーん

 この場にそぐわない、やたら頭に響く高い音。
 なんの気なしに撮った、写真。
 画面には、かわいい顔して眠る、まさに無防備そのままの葉山の姿が残った。
「……ん……」
「ッ……!」
 小さく聞こえた声。
 思わずものすごい反応して、危うく椅子を蹴飛ばしそうになった。
 慌てて携帯をしまい、彼女から一歩離れる。
「………………」
「……よ」
「…………っ……!! た、たかっ……鷹塚せんせ……!?」
 がたがたーん
「あっ……!?」
「……あーあ」
 しばらくまじまじと俺を見つめた彼女が、ようやく今の状況を理解したらしく、立ち上がって椅子をひっくり返した。
 ……あー。
 思わず、普段の彼女と違っていかにも動揺しているのが見えて、つい笑いが漏れた。
「す、すみませっ……!」
「いや、別に」
「違うんですよ!? あのっ……あ、あの……」
「うん」
「ですから、これは……」
「うん?」
「……うぅ……っ……ごめんなさっ……」
 だが、なぜか彼女は俺に慌てて謝ってから椅子を直した。
 いや、別に俺何もしてないのに。
 なんて半分思いながらも、一生懸命弁解する姿がやけに面白くて……かわいくて。
「おもしれーな、葉山って」
「っ……面白くなんかないですよ!」
「いやー。なんか……なんだろ。猫みてーだな」
「そっ……そんなことないです!」
 笑いながらその場を離れ、入り口へ向かう。
 そして、振り返って言うのはたったひとこと。

「ンな顔して寝てると、食われちまうぞ」

「っ……」
 別に、深い意味があったわけじゃない。
 だが、困ったようなバツの悪そうな顔を見ていたら、そんなとんでもない言葉が出た。
 ……いや、俺はしないけど。
 もちろん、先に断っておく。

 ――……ちなみに。
 あとになって携帯を見ていたら、いつの間にか無意識にそのときの写真はしっかり保存されていた。
 消すのもナンだな、って思いがあった。
 ……そのせいかもしれない。
 結局、誰に知られることもなく、俺の携帯の中に彼女の写真が残ったのは。




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