「……なんか」 「ん？」 「どきどきしますね」 「ぶ！」 「……鷹塚先生？」 「いや……悪い。なんでもない」 　つーか、そーゆーのに慣れてないってことが、ようやく今になってわかった。 　葉山に謝り倒してからやってきた、新江ノ島水族館。 　新、が付く前は本当に江の島の先にあったんだが、今ではすっかり便利な場所に移っている。 　その――……地下駐車場での、出来事。 　ハザードを焚いてギアをＲに入れてから、ついうっかりいつものクセでシートに手を当てたとき。 　妙に葉山がなんとも言えないような顔で黙ってるなと思って聞いてみたんだが、それが間違いだったかもしれない。 　……俺にとっては。 「どきどき……するか？」 「私、普段自分以外の車に乗ることがないので、だからだと思うんですけれど……。やっぱり、カッコいいですよね」 「な……にが？」 「……当たり前に運転されてる、のがです」 「俺？」 「はい」 　うわ。 　真正面から思いきりかわいい顔で微笑まれ、迂闊にもこっちこそどきどきした。 　カッコいい、って。 　カッコいいって言われた。 　ヤバい。え、俺？　のことだよな？　マジで。 　隣に並びながら地上へのエレベーター待ちをしつつも、平然とした顔のワリに内心ばくばく大波乱。 　さらっと言うんだもんな、葉山。 　……あーゆーの言われると、たまんねぇ。 　そーか。 　だから、コイツはかわいいんだな。 　今さらながらに、改めて葉山の魅力とやらを再確認。 「………………」 　もちろんだが、モノの言い方とか捉え方とかそーゆー内面だけじゃない。 　……今日の格好はなんだ。 　胸元に白い大き目のリボンが結ばれている７分丈の青いカットソーに、ミニスカートとニーハイという組み合わせ。 　ウチのクラスの子が穿いててもなんとも思わないのだが、どうしてコイツがするとこうもエロく見えるんだ。 　お陰で、助手席に彼女を乗せたのを若干後悔した。 　そりゃそーだろ？ 　すぐそこに、白く眩しい太ももがあるんだぞ？ 　ギアを握り損なったら、うっかり触ってしまいそうな距離に。 　どうしたって目が行って、そのたびに自己嫌悪。 　見えそうで見えない、ギリギリのライン取り。 　ある意味、最強。 「っ……」 「なんですか？」 「いや……お前、さ」 「はい」 「なんつーかこー……笑うと、いいよな」 「え……？」 　うわ。 　うわうわうわ、何を口走ってんだ俺ーー！！！？ 　自分で、ものっそいびっくりした。 　え、なに。 　何、いいよなって。いいよなってなんだよ！！　馬鹿か！！　引っ込みつかなくなったじゃねーか！ 　馬鹿ー！！ 「いや、あの、な？　その……うん。お前の笑顔ってさ、なんかこー……虹みてーなんだよな」 「……虹ですか？」 「そ。虹」 　不意に浮かんだ、モノ。 　光差す空に浮かぶ、大きな七色の半円。 　その元には幸せが詰まっているといわれる、アレが不意に思い浮かんだ。 「いや、そんだけ稀なモンとかってワケじゃなくてな？　見ると、ほっとする。すげー嬉しくなるっつーか……みんな、好きだろ？　いや、だから……あのな？　なんかこー……いいよな、って」 　しどろもどろにあれこれと『違うんだぞ』を浮かべながら呟くも、案の定あやふやなモノにしかならず。 　不思議そうな顔ながらも優しげに笑っている葉山を見ていたら、どんどんやっぱり慌てた。 「……まあ、そんな感じだな」 「ありがとうございます」 　ふふ、と笑った彼女が、嬉しいですと呟いてから微笑んだ。 　それを見て、どきりとする。 　……かわいくて。 　そして、ああ……あながち『虹』って表現は外れてもねーな、と思って。 「……あー。んじゃ、ちょっと待っててな」 「あっ。せめて、自分の分は自分で……」 「いーって。一括で買ってくるから」 　エレベーターから降りて向かう、エントランス。 　屋根つきの広い広い玄関ホールは、団体が集合をかけるときにはものすごくありがたい場所。 　……ま、それを当初から頭に入れて作ったんだろうな。 　今日はさすがになかったが、平日ならばとっかえひっかえあらゆる学校が利用する。 　ある意味、遠足の聖地。 「大人ふたり、で」 　窓口に割引券と一緒に札を出し、代わりにチケットを受け取る。 　それから振り返ると、すぐそこにかわいい子がふつーの顔してふつーに俺を見て微笑んだ。 「……っ……」 　やっぱ、かわいいよな。コイツは。 　両手でバッグを持っている姿も、いつもとは違って下ろしている髪型も何もかも。 　俺にとっては、かわいく目に映る。どうしたって。 　贔屓抜きにしたって、そうだ。 　……多分、誰が見てもかわいいと思う。 　コイツは、間違いなく。 「ありがとうございます」 　無言で差し出したチケットを両手で受け取ってくれたのを見て、なんとも言えない感じが身体に広がった。 　笑顔で感謝されると、こっちのほうが恥ずかしくなる。 　……なんか……たまんねーな。 　財布をポケットへねじこみながらチケット確認をしているスタッフへ差し出すと、薄暗い館内が少しだけ居心地よさそうに見えた。 「……あー。水族館だな」 　当たり前すぎるセリフがぽつりと漏れ、それを葉山にしっかり拾われた。 　どうしたんですか、と言われて改めて思う。 　……どうしたんだ俺、と。 　入ってすぐの水槽の中にいる、幾つもの種類の魚たち。 　それを見ながら、記念撮影でカップルやら家族やらを出迎えているスタッフに捕まる前に、葉山と奥へ向かう。 　これまでも、何度か来たことのある場所。 　もちろん、それは個人的にではなく団体でという意味。 　引率した経験は何度かあるが、だからこそ……まさかそんな場所へ個人的に来ることがあるとは思わなかった。 　何度も見たことがあるから、ほぼ全部知り尽くしている場所。 　楽しいと思う余地はないはずなのに、視界に葉山がいるだけで、まったく違う場所に思えるから不思議だ。 　……楽しい、と。 　意外といいモンなんだな、と。 　そんなことを思っている自分に、ある意味驚く。 　素直に。 「かわいいですね」 「ん？」 　ガラスへ指を当ててこちらを向いた彼女の隣へ並び、同じ目線の高さで見る。 　すると、小さなカメがスイスイと泳いでいた。 「…………」 　いつも笑みを浮かべてるのは知ってる。 　だが、いつもと違うのもわかる。 　ふと周りを見れば、何組ものカップルが同じように水槽を見て回っていて。 　手を繋いでいたり、肩を引き寄せていたり……と様々ではあるが、共通点はひとつ。 　べったり。 「………………」 　ガラスに手を置いたまま、すぐ隣の葉山の顔をちらりと見ると、相変わらずかわいい顔で水槽の中の魚を目で追っていた。 　長いまつげ。 　ぷっくりした、艶やかな唇。 　……かわいいな、お前は。 「っ……！」 「……？　どうしたんですか？」 「いや……何も」 　魚よりもついそっちへ意識が向かってしまい、ぱっと目が合った瞬間心臓が止まるかと思った。 　わずかに首を傾げられて長い髪がさらりと流れた途端、身体を離して距離を作る。 　……あー。心臓に悪い。 　つーか、まさかだぞ。今のは。 　ぱちぱちとまばたきしながら俺を見る彼女に再度『何でもない』を口にしながら歩き出すと、すぐに葉山も隣へ来た。 　……隣、と言ってもばっちり隣じゃない。 　ある一定の距離がある。 　手だって、繋ごうと思えば繋げるんだが、そんなことしたらある意味終わり。 　この関係はなくなる。 　……果たして、それが幸せなのか。 　今の俺には、どちらとも言えない。 　それを――……意気地なしとか卑怯とか言うのかもしれないが。 「葉山」 「はい？」 「お前さ……なんで俺に付き合ってくれんの？」 「……はい？」 　ゆるやかな下りでかつ、螺旋になっている床。 　デカい水槽をいろんな場所から見えるように作られているこの建物の特性といえばそうなんだろうが、つい足早になってしまう。 　両手を手持ち無沙汰気味に握ったり開いたりしながら葉山を見ると、不思議そうな顔で俺を見上げた。 「……えっと……前と同じ答えじゃだめですか？」 「前？」 「はい。この……腕時計を買いに行った時です」 　同じペースで歩きながら彼女が見せてくれたのは、左手首にあるあの腕時計。 　相変わらず細いのがよくわかるのに、まるで確かめるかのようにうっかりまた手を伸ばしそうになる。 「鷹塚先生と一緒に居ると、すごく楽しくて……いつも笑っていられて。一緒に居られるときの自分が、好きなんです」 「……俺と居るときの？」 「はい。落ち込んだり、悩んだりするようなことがあっても……一緒に居られると元気になれるんです」 「落ち込んだりするのか？」 「……え？」 「お前は、俺の前でいっつも笑ってるだろ？　だから……お前のほかの顔を知らない」 　思わずそこで過敏に反応してしまった。 　悩んでるところなんて見たことないからこそ、てっきり“ない”んだと思ってた。 　……そんなはずないのにな。 　どんな人間も、悩み、立ち止まり、戸惑うんだから。 　なのに――……俺は何を安心してたんだろう。 　俺の前で見せてくれる顔は、いつだって笑み。 　だから、コイツはそんなふうに悩むことなんてないんだ、って。 　勝手に決め付けて……ダメな大人だな。 　何もわかってないのに、わかったつもりになってたなんて。 「……泣いたりとかするのか？　独りで」 「…………ときどき、ですけれど……」 「っ……」 　それを聞いた瞬間、ものすごくいたたまれない気持ちになった。 　独りで泣いてる。 　俺の知らないところで。 　俺の前ではいつも笑顔なのに。 　……泣く、のか。 　ひとりきりで、誰にも知られない場所で。 「……けよ」 「え？」 「俺の前で泣けよ。どうせなら」 　足を止めたまま、葉山をまっすぐ見つめて口を開く。 　……頼むから。 　驚いた顔の彼女に、思わずそう口にしていた。 「そうだろ？　頼れよ、もっと。俺だって…………俺でも、少しは役に立つぞ？」 「……鷹塚先生……」 「ひとりで泣くな。俺の前で泣いてるなら、慰めてやれるだろ？　聞いてやれるだろ？　お前はいつもがんばってるんだから。いつだって他人の悩み聞いて、共感してやってるんだから。だったら、お前の悩みは俺に出せよ。聞くから。共感できるように、がんばるから。だから……泣くな。独りで泣くな」 　一歩近づき、思わず顔を寄せる。 　……手が出た。本当はもっと先に。 　だが、うっかり頬へ触れそうになって、慌てて握り締めて止める。 　…………たまんねーよ、そんなの。 　つーか、もっと早く言え。そういう大事なことは。 「お前が独りで泣いてるトコ想像しただけで、すげぇ悔しくなる」 「っ……」 「俺の前では、いつも笑ってるのに。……なのに我慢してることがあるって知ったら、もう引けねーぞ」 「……鷹塚せんせ……」 　ふ、と葉山の表情が緩んだ。 　笑み、とは違う。 　だが……泣きそうなモノでもない。 　言うなれば、人が安心したときに見せるような、そんな顔。 　眉尻が下がって、気持ちうっすらと瞳が潤んだようにも見える。 「な？　絶対だぞ。独りで泣いたら、キレんから」 「…………ありがとうございます……っ」 　ぺこ、と頭を下げた葉山の頭に手を伸ばし、何度か往復するように撫でる。 　あくまでもそれは、慰めの意味を込めて。 　……なのだが、うっかりそうしてしまったのは、髪の感触を楽しむためだったんじゃないかと思えた。