開け放たれたままの、戸。
そこを軽くノックして一歩踏み込むと、荷物の整理をしていた葉山が驚いた顔をして振り返った。
「……鷹塚先生……」
「教師も相談に乗ってもらえるんだよな?」
「あ、それは……はい」
もしかしなくても、葉山にとっては俺がここを訪ねたってこと自体、ものすごくびっくりしたんだろう。
……ま、そうだよな。
これまで何度となく葉山と個人的に接する機会があったのに、一度だって相談めいた話なんかしなかったんだから。
なのに、それが急にこんなふうに訪ねてきたら……何ごとかとも思うはず。
「どうぞ。どこでも大丈夫です」
「ああ」
葉山の反対側にある、幾つかの椅子。
出口の戸を閉めた彼女に手で示され、葉山の荷物が置かれている正面に腰かける。
「…………」
「…………」
だが、彼女から何かを言うことはなく。
ただ黙って、ゆっくり両手を机の上に組んで置いただけ。
……なんか、ホント雰囲気が変わるモンだな。
まっすぐに俺だけを見つめてくる彼女を見ていたら、つい何もかも喋ってしまいそうになって少し驚く。
カウンセリングなんて、少なくとも俺には1番縁遠いモンだと思ってたのに。
これでも10年以上教師をやってきて、それなりに慣れてきたっていう自負めいたモンさえあった。
……なのに、だ。
まさか、そんな職業柄の悩みとはまったく違う方面の話を………いや。
むしろ、下らない雑談。
そんなモンされるなんて、葉山は思っちゃいないだろう。
「やきもち」
「……え?」
「やきもち、つったらいいのか。……なんだろうな」
嫉妬。
その単語がまず口から出てきそうになって、必死で違う言葉を探し出す。
やきもち、も嫉妬も同じ。
だが、なんとなくまだ前者のほうが柔らかいような気がして、そっちを選んだ。
「………………」
どっかりと椅子に座り、背もたれにべったり背中を預けたまま、まっすぐ葉山を見つめる。
だが、彼女は俺が喋らなければ何も言わず。
ただ黙って、俺と同じように見つめてくるだけ。
……なんか。
そうされると、余計こっちが何か喋んなきゃ、って気になって。
もしかしたら、これが彼女の方法ってヤツなのかもしれないが。
「…………」
「…………」
それでも、表情だけは変わる。
無愛想極まりないこっちとは違って、穏やかな表情。
笑ってるワケじゃない。
だが、不思議とその顔は微かに笑みを浮かべているようにも見えて。
……こういうのは、多分俺の気の持ち次第でどうとでも変わるんだろうな。
ただ、俺はコイツが笑ってる姿を多く見てきたから。
そして――……やっぱり、いつだってそうであってほしいって願望もあるから。
だから、俺の頭がそう判断してるんだろう。
「……たとえば、だ」
行儀悪く足を組んだまま、組んだ両手を膝に置く。
……そういや、昔もこうして喋ったことあったな。
遠い遠い昔とやらに分類されるんだろう。
俺にとってはほんの少し前にも思えるような時間も、彼女にとっては遠い過去。
「猫を拾うんだよ。……だとするだろ? 野良の子猫」
「……猫、ですか?」
「ああ。それで、その猫を育ててかわいがって……そしたら、懐くよな。俺に」
「ですね」
手で大きさを示しながら、話したかったことを猫になぞらえる。
なんとなく頭に浮かんだこと。
だが、まんざらでもない。
「ずっと俺しか見なかった。……まぁ、猫にとっちゃ、単に世話してくれるだけの人間に過ぎないだろうけど。それでも、こっちは飼い主気取り。俺だけを頼りにせざるをえない」
ふと浮かぶのは、あどけない表情。
俺よりもずっと小さくて、ホントにまだ子ども。
……あんなころもあったんだよな。
なんて、ガラにもなく思うような相手。
それがどうだ。
今じゃ、俺なんかの手を借りずとも独りで生きていける。
俺なんかを頼りにすることもなく、自分の考えで、自分の足で、自分の道を拓いて行く。
……昔とは違う。
だからこそ、俺を離れて自分のために向かうんだ。
自分のためになる、場所へ。
俺じゃない、ほかのコイツが隣にいてほしいと思った男の場所へ。
「……だけど、あるときから隣の住人も餌をやるようになった」
急に現れたワケじゃない。
元からずっとそこに住んでいた人物。
ただ、俺が気にもしなかっただけ。
ずっと、俺だけを見ているんだとばかり思っていたから。
今考えればそれはひどく浅はかで、自惚れ以外の何ものでもないのに。
「で、結局俺のところには徐々に徐々に来なくなった」
パン、と手を叩いて一気に話しきる。
おしまい、とばかりに姿勢を変え、肩をすくめて。
すると、黙って話を聞いていた葉山自身もわずかに表情を変えた。
……だが、変わらないところ。
それは、必ず彼女が俺の視線の先を追って来るところだ。
「そーゆー寂しさ。……なんつーんだろな。うまくは言えねーんだけど」
真顔で話すのは、何年ぶりか。
しかも、こんなにも中味のない話を。
ハッキリしてない。
ぶっちゃけてしまえば、もっと単純な中身。
……だが、それをコイツに真正面からぶつけられない俺は、やっぱりズルいのか。それとも弱いのか。
いや、そのどっちもなんだろうが。
「……それは、いつごろから感じてました?」
「さぁ……いつごろだろうな。最近っちゃ最近だと思う」
正直、葉山に申し訳ない気持ちもある。
こんな、ある意味デタラメにも近い話。
それなのに、彼女は一生懸命聞いてくれて。
なおかつ……浮かべているのは、どう見ても不安そのもの。
心底から、俺を気にかけ、心配してくれている顔だ。
「………………」
本当は、もっと違うことを言わなきゃいけなかったのかもしれない。
だが、俺が言えるのはコレが精一杯。
……つーか……多分、彼女に言える本心めいたモノはコレがギリギリ。
言わなきゃいけないってワケじゃない。
ただ俺が『気のせいだ』と思い込めば済むだけの話なんだから。
からかってるワケじゃない。
心配してもらいたいワケでもない。
「……悪い。やっぱ、イイや」
「え?」
「いいんだ。気にすんな」
ガタン、と音を立てて椅子から立ち上がり、これ以上、俺の我侭に縛り付けることはできないから、切り上げる。
黙って聞いてくれただけで、十分。
少しとはいえ、寄り添ってもらえただけで、俺にとってはこの上ない。
……小川先生じゃない、俺。
久しぶりに、俺だけが独占できた。
まるで征服にも似た感情で、なんとなく満たされた気分になった。
「っ……鷹塚先生!」
ドアへまっすぐ向かうまでの間、葉山を見ずに……というよりは、見れず。
だから、戸口へ立って初めて、俺を追いかけて来てくれていたのに気付いた。
見上げる表情は、何か言いたげ。
……そりゃそうだ。
どちらかと言えば、『どうして?』ってところか。
もっとちゃんと話せ、って感じだろうな。
相談に来といて、結局は猫がどうのなんていう、たとえ話しかしなかったんだから。
聞きたいことは山ほどあるはず。
だが、それを彼女はしない。
それがわかってるから、あえてあんな半端に切りあげられたんだ。
……葉山はそういうヤツだから。
わかっててやってる俺は、ホントにヤなヤツだと思う。
「……悪かったな。邪魔して」
まじまじと見つめてから、ゆっくり言葉を吐く。
不安げで、心配そのものの表情。
なぜか昔の彼女とダブって、つい、幼いころの彼女へしたみたいに手が伸びた。
「……先生……」
ゆっくり頭を撫でると、指先だけでも十分わかる、柔らかくて艶々してる髪の感触を味わうかのように手が動いた。
昔と違う長い髪。
するり、と指を絡めても止まることなくすくえる髪。
あのころとは違う。
……俺の好きな、長いキレイな髪だ。
「…………」
「……鷹塚先生……?」
俺を見上げたまま首を傾げた仕草を見て、思わず眉が寄った。
このまま抱きしめてキスしたら、もう止まらない。
そこを越えたら最後。
もう――……この関係には戻れない。
「小川先生と仲イイんだな」
「え?」
「最近。よく……つーか、しょっちゅう話してるトコ見かける」
言いながら、表情が強張るのがわかる。
つーか、なんだ。これ。
まるで、自分のモノを取り上げられてそれを気に食わないみてーな。
俺にとって、コイツはなんだ。
別に、所有物でもなんでもないのに。
……所有者気取りか?
心底笑える。
「……鷹塚先生」
そう呼ばれても、伸びた手は戻らない。
頬に触れたまま、撫でるように手が動く。
まるで、その感触を楽しむかのように。
……味わうかのように。
「…………」
今までは、俺だけだった。
でも、変わった。
ほかから出て来た、手。
それは優しく笑う、丁寧な人間。
……男。
俺と違う、優しいヤツ。
上品で、荒っぽさはまるでない。
…………優しくしてもらえるぞ。俺なんかより、よっぽど。
俺は優しくないからな。
乱暴で、酷くて、力任せで。
挙句、お前を泣かせるしかできない。
「……ワリ。またな」
「あ……っ」
咄嗟に身体が動きそうになった。
そんな自分を寸でのところで制し、背中を向ける。
コイツにこんなこと言えばどうなるかなんて、わかってたはずなのに。
……はず、か。
肝心なことは何ひとつわかっちゃいないんだな。俺の頭は。
「待ってください……っ!」
「っ……」
「鷹塚先生、待ってください。……私の……話も聞いてください」
「…………」
彼女に背を向け、職員室へと足を向けた途端。
葉山が、ぎゅっと背中を掴んだ。
引かれる、ジャージ。
直接触れられているワケじゃないのに感触を感じて、思わず喉が鳴る。
「……先生、ずるいです。この間からずっと……」
「…………俺は……」
「私の気持ち、ちゃんと聞いてください」
反射的に、ぎゅ、と拳をキツく握り締めていた。
爪が手のひらへ食い込み、奥歯を噛み締める。
とっくに芽生えていた、彼女に対する思い。
わかっていたのに、認められなくて、ありえないと蓋をした。
無理矢理、顔を覗かせてこないように。
這い出してこないように。
……わかってんのは、俺自身なのにな。
ンなことしたら、かえって溢れ返るだけだってことに。
「……私、ずっと……ずっと、先生のこと――」
背中にある彼女の感触を味わいながら、足を止めていたのがマズかったのかもしれない。
カラ、と小さな音とともに、職員室のドアから小川先生が姿を現したのをばっちり目撃してしまったから。
……は。
都合よくタイミングが働くのは、全部彼のためか。
神様ってヤツに味方されてるのは、俺じゃない。彼のほうだ。
「っ……え……!」
後ろを振り返ることなく、腕を回して彼女の首を捉える。
ぐい、と隣に身体を持ってきてから、一瞬だけ合った目。
驚いたように丸くなっていて、だけど――……かわいくて。
薄っすら開いた唇を見て、小さく喉が鳴った。
「せ、ん――」
「迎えが来たぞ」
「……え……?」
「お待ちかねだ」
耳元で囁き、差し出すように彼女の背を押す。
離れてはいるが、恐らく驚いているであろう彼。
……お前は俺のモノじゃない。
そうだろ?
だから、そんな顔するな。
「…………」
両手をジャージのポケットに突っ込んだまま、俺を振り返って足を止めてしまった葉山を見つめる。
葉山瑞穂。
お前は――……誰のモノだ?
首から下げられているネックストラップにかかっている、フルネーム。
それが首輪になればいいのに、と頭のどこかでもう独りの自分が舌打ちしたような気がした。
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