「せんせー。遊ぼーよー」
「……あー。悪い、ちょっとまだ仕事あるんだよ」
「えー! 昨日もそう言って遊べなかったじゃん!」
「ほんっと悪いな。せめて……そうだな。明日までには終わらせるからさ」
 教室にあるボールを抱えたままの男子に苦笑を浮かべ、紙の束を持っていないほうの手をあげて謝罪する。
 ……本音を言えば、当然俺だって一緒に遊びたい。
 担任を受け持った以上、自分のクラスの子はどのクラスの子よりも当然かわいくてたまらない。
 いっぱい話して、いっぱい遊んで、そしてわかってやりたい。
 それは、教員採用試験を受けたときの面接でも口にした言葉だった。
「本当にごめん」
 口を尖らせながら廊下を歩いていく子どもたちに詫びると、やっぱりため息が漏れた。
 ……やりたいことができない。
 教師って、こんな仕事だったのかとなってみて初めてわかった。
 なぜか知らないが、やたらと日誌や報告書なんてモノへの記入が多かったり、学年主任に半ば押し付けられるようにされた雑務なんかも抱えている毎日。
 もちろん、そんなモノよりももっと大切な授業計画を立てる必要もある。
 教育実習のときも大変だと思ったが、正式になってみてさらに過酷さがわかった。
 あのときよりもずっと忙しくて大変な日々を送っていたから、月日がめまぐるしく流れていく。
 と同時に、疲労もストレスも限界を感じるほどまで溜まってて。
 教師って給料の割りにハードだよな、なんてことは何度も思った。
 風邪を引くわけにはいかないし、下手な用事なんか入れられるワケがない。
 土日だからといってのんびり休んでもいられないし、深夜に自宅まで保護者から電話がかかってきたこともあった。
 『もっときちんとしてください』
 『そんなんじゃ困ります』
 『先生なんだから、ちゃんとしてくれなきゃ』
 沢山沢山、それこそもうこれでもかってくらい鞭打たれて、そのたびに何度『俺だって必死でがんばってる』と言ってやりたかったか。
 お陰で、噛み締めた奥歯が多少欠けてるなんて、歯医者に行ったとき眉をしかめられた。
「……はー……」
 朝早く、夜遅く。
 ここ最近で1番早く家に帰ったのは、先月のこと。
 ……つっても、20時台の帰宅。
 同じ教育学部に居たにもかかわらず普通企業に就職した友人なんかとは、生活のリズムがまるで違った。
 教師になりたいと思ったのは、彼らと同じ小学5年生のとき。
 当時、ほかの学校から赴任して来た先生が担任になったんだが、この先生がまためちゃめちゃ面白い人だった。
 子どもを1番に考えてくれる。
 楽しませようとしてくれる。
 わかろうとしてくれる。
 そんな気持ちが滲み出ている人だから、クラスの連中は当然彼を好きになった。
 ……今でもそうだ。
 二十歳の同窓会では、無理を承知で招待状を送ったにもかかわらず、嫌な顔ひとつしないで来てくれて。
 当時と何ひとつ変わらない扱い。
 それは、成人を迎えて大人ぶってる人間にすれば腹が立つことなのかもしれないが、俺たちはあのころと同じ顔して笑顔で先生に頭を撫でられていた。
 『先生』
 俺にとっての先生は、いつまで経っても先生。
 たとえ自分が彼と同じ道を歩み始めたとしても、何ひとつ変わらない。
 先生は、先生だから。
 決して同じラインに立てるワケもなければ、越せるモノでもなく。
 ……俺は俺の道を作る。
 そう決めて、教育実習を終えたあとすぐに教師への道を確かなモノにした。
「……はー……」
 でも、現実はまた違う。
 子どもと沢山話して、遊んで……なんて、そんなのは夢のまた夢。
 職員室に帰れる時間なんて昼休みか放課後のみだから、あそこに積んだままの仕事は放置と一緒。
 一向に減る気配もない。
 ……先生って忙しいよな。
 なんて、わかっていたはずなのに毎日そんなことを思う日々が続いていた。
 出るのはため息ばかり。
 そして、初任だからとあれこれ諸先輩方から受ける、納得のいかない雑務。
 やらなきゃいけないのはわかってる。
 でも、『そんなことまで俺の仕事じゃない』と、飲みこめないものもあるから。
「…………やるか」
 それでもやる気になるのは、なんと言ってもやっぱり、俺は『先生』だから。
 我ながらヘタクソだと実感するような授業でさえも、文句ひとつ言わずに笑って聞いてくれる子たちばっかりのクラスを持っているから。
 怒ったって何したって、やらなきゃいけないことはやらなきゃいけない。
 減ってくれるワケじゃないから、文句は言わない。
 手にした日報と朝集めた漢字の宿題ノートを持ったまま、教室へ戻って机に置く。
 途端、当然のように雪崩が起きた。
「…………はー……」
 わかってる。
 誰が悪いでもない、俺が悪いんだと。
 ……いや、むしろ俺もやっぱ悪くないんじゃ……。
「…………」
 思いきりよく椅子へ座り、背もたれに身体を預けたとき。
 窓からは、相変わらず元気な子どもたちの声が聞こえてきていた。
 ……いいよな。
 俺もあのころに戻りたいよ、ホント。
 でも、昔は違った。
 あのくらいのとき、俺は逆に早く大人になりたいと思っていた。
 子どもだから毎日勉強勉強で、なんか理不尽に怒られるんだ、って。
 ……でも、違ったのかもな。
 いや、それとも子どもは子どもなりに大変なことがあって、大人は大人なりの大変なことを抱えてて。
 …………。
 ……結論出ねぇ。
「…………はー……」
 軽く頭を掻いてからボールペンを取りだし、日報を書くべくページを開く。
 我ながら、よくもまぁこんだけ細かく書いたなと思うよ。
 拍手モンだぜ。
「せーんーせー」
「……お?」
 あれこれ考えてからようやく1行目を書き始めたとき。
 パタパタという音とともに、ひとりの子が教室へ入って来た。
 飾り気のないシャツに、細身のジーパン。
 一見するとまるで男子みたいなこの子は、名前がめちゃくちゃかわいいれっきとした女の子。
 さらさらした、癖のないショートカット。
 いつだって天使の輪を冠っていて、女の子みんなから羨ましがられていた。
 ……でも、2年間受け持った中で、一度たりとも彼女が髪を伸ばしたことはない。
 いつだって、少し伸びては短くなりを繰り返し、そのたびに俺へ自慢しに来ていた。
 『きれいなんだから伸ばせばいいのに』
 そんなことを軽はずみに言ったような気もするが、そのとき、彼女は困ったように笑っていた……ような気がする。
 ……もしかしたら、違う子かもしれない。
 だが、恐らくは……彼女だったと思う。
「なんだ、はやみー。どした?」
「先生、まだ仕事なの? 一緒にサッカーやるって約束したのに」
「……あー。そういや、昨日言ったんだっけな……悪い」
 はやま みずほ。
 だから、はやみー。
 クラスの女子だけでなく、男子もしっかりそう呼んでいるせいか、俺もいつしか彼女をそう呼ぶようになっていた。
「……先生って、そんなに忙しいの?」
「んー……そうだな。結構忙しいらしい」
「らしい、って。……先生、なんでそんな他人事……」
「いやー。なってみて初めてわかったからさー」
 両手を頭の後ろで組み、ぎしぎしと椅子を鳴らしながら彼女を見ると、呆れたようにため息をついて持っていたボールを上に投げた。
 この子だけは、あきらかにほかの子たちと違う。
 ……ほかの子っつーか、まぁ、女の子とはってことだけど。
 男女問わず好かれているのは間違いないが、女の子特有のグループには所属していなかったし、好きな芸能人の話で盛り上がることもなければ、流行の小物や服を着て来ることもなかった。
 服に関しては、これまで彼女がスカートを穿いて来たところを見たことがない。
 本人曰く、『嫌い』なんだそうだ。
 長い髪も嫌い。
 かわいいモノも嫌い。
 ……なんて、ちょっとした徹底っぷり。
 そのせいか、どっちかというと彼女の周りにはいつも男子の輪があって。
 サッカーなりバスケなり、ドッジボールなり。
 ……そういや、野球もやってるトコ見たな。
 とにかく、万能な子。
 彼女が入っているチームが勝つ、みたいな。
 そんな、ある意味クラスのリーダー的存在でもあった。
 いつだってパワフルに遊びまくってて、誰よりも目立ってて。
 とにかく、本当に明るい元気な子という印象があった。
 文武両道、まさにソレ。
 ほかの女の子に比べて当時背が高かったこともあってか、いつでも彼女は頼りにされてて。
 男子が苛めたりしたら……もー、大変。
 喧嘩だって強かったし、もちろん、口だって達者だった。
 ……いつだったか、理科室で実験してる最中に喧嘩したことがあったっけな。
 でも、そのときもやっぱり当然彼女が勝ってたし。
 泣かせた女の子に謝れって、一生懸命言ってたもんな。
 でも、それだけじゃない。
 彼女に対する思いがほかの子と少しだけ違うのには、ワケがある。
「先生、ウチのお母さんがいつでも夕飯食べにおいでって言ってたよ」
「あー。いや、ホント助かるよ。はやみーのお母さんのメシ、ホントうまいもんなぁ」
「でしょ? 今日はメンチカツだって」
「メンチ!? ……うわ、食いてー」
「あはは」
 そう。
 実は、彼女だけでなくご両親にもお世話になりっぱなしだったりする。
 ただでさえ、新任であれもこれもと行事やら役員やらの取り決めなんかもしなきゃいけないってのに、段取りがよくわからなくて。
 なおかつ、『お宅がやれば……』なんて周りからは声が出て。
 学年当初の懇談会で、すんげー困ってたんだよなぁ……俺。
 高学年になればなるほど役員を引き受けたがらなくなるから、と他の先生から聞いてはいたんだが、まさかアレ程誰とも目も合わずに沈黙の長い時間が訪れるとは思いもしなかったから。
 でも、そんなとき彼女のご両親が快く自分から引き受けてくれて。
 『先生も、大変だね』
 なんて言ってくれて、ホントに泣きそうになった。
 ……あんときは、すげー助かったもん。
 まさに、恩人。
 そんなことがあってから、たびたび一緒に飲んだり、ときにはご自宅で夕飯をご馳走になったりした。
 ……ま、それも当時だからできたようなモノ。
 今じゃ、ンなことすれば即処分だろうけどな。
「先生、ちゃんとごはん食べてるの? お母さん心配してたよ?」
「あー……。まぁ、ちゃんと……コンビニ弁当を食っちゃいる」
「えー?」
 なんで不服そうなんだ。
 まるで非難を浴びせるがごとき眼差しで見られ、苦笑が浮かんだ。
 ……まぁ、わからないでもない。
 俺がしょっちゅう『ちゃんと野菜も食え』とか言ってるのに、実はコンビニ弁当しか食ってないとあっちゃ、立場もへったくれもないから。
「……しょうがないなぁ。じゃあ、もし私が今の先生と同じ年になったとき、先生がまだコンビニのお弁当食べてるようだったら……ごはん、作ってあげてもいいよ」
「うわ。マジで? すげー助かる。そんときは、じゃあ電話してくれよ」
「あはは」
 冗談以外の何物でもない会話。
 ……だった。少なくとも、俺にとっては。
 だから、そのときフツーに返事したし、フツーに笑って『嫁に来るか』なんて言えもした。
 それは、相手がはやみーだったから。
 俺を心底好きで本気で悩んでる子じゃない、さらっとした彼女だったからだ。
「……あ、昼休み終わっちゃう。ねー、先生。今度は絶対サッカーやろうね」
「おー。もちろん! はやみー、ホントうまいもんなー。何でも器用にこなすし」
「……そかな」
「そーだろー。もっと自信持てって!」
 ボーイッシュ、と言えばいいだろうか。
 かわいい男の子みたいな感じの彼女ではあったものの、ときおり見せる眩しい笑顔はやっぱり女の子のモノで。
 特有の女の子意識を持っていない彼女は、俺にとって、もしかしたら1番接しやすい子だったのかもしれない。


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