「あ。おはようございます」
「おはよ」
「2組さん、朝の会始める前から元気でしたねー」
朝のあいさつを済ませてすぐ、なぜだかしらないがやたら楽しげに笑われた。
大方、ひょっこり教室を覗いてでも来たんだろう。
……暇なヤツめ。
俺なんか、今ここに来たばっかだっつーのに。
「花山。嫌味かそれは」
「えぇっ!? いやっ、ぼ、僕はそんなつもりじゃ……!」
「……悪かったな。ったく。どーせ担任が居なきゃウチは無法地帯だよ」
「そこまで言ってませんよ!」
いつもと同じ、朝の職員室。
……の、我が席。
そこも、背にある窓からさんさんと日が注いでいて、少し暑い位だった。
山積みになっている、教科書やらドリルやらテストの問題やら。
すべてが所狭しとひしめきあっていて、自宅で丸付けしてきたこの手にある算数ドリルを置く場所も見当たらない。
「ほい」
「おわ!? ちょっ……先輩! それはないですよ!」
「しょーがねーだろ。俺ンとこ、置く場所ねーし」
「いやいやいや、それは僕も同じというかなんというか……!」
仕方なく、通路を挟んだ右隣のきれいに片付いた机の主へと、間髪入れずにドリルを渡す。
ご丁寧にも、両手でしっかり持ってくれた彼。
やっぱりなんだかんだ言っても、性格はばっちり表れている。
彼は、俺と一緒にここへ赴任して来た教師。
当時は大卒したてだから理解できたんだが、今や3年目となるにもかかわらずスーツをばっちり着こんで登校してくる。
……輝かしいことで。
すでに、スーツの『ス』の字もなくなった俺にはもう、眩しすぎてマトモに見てらんない。
出張なんかでもない限りは、まず着ない服。
所詮、落ち着く所に落ち着くってことか。
「サンキュ」
「……もー。困りますよ、僕だって……」
「悪い」
「……悪そうに聞こえません」
「すまんな」
「……ったくもー……」
積んであった漢字ドリルを床に置いていたバッグへ入れ、空いた場所に算数ドリルを置く。
……うん。
なかなかコレはコレで、ある意味壮観だ。
「それから、花山」
「はい?」
「いい加減、俺を先輩って呼ぶのはよせ」
「えーー、なんでですかぁ!」
真正面を向いたまま、赤ペン片手にドリルを開く。
途端、まるでバケツでも引っ繰り返したような勢いで、彼が叫んだ。
「どうしてですか! だ、だって! ……だって、僕……あの、やっぱりその……た、鷹塚先生は実際先輩ですし……」
「でも、別に大学が同じってワケでもねーだろ」
「それは……! ……っですけど! やっぱり、僕にとって鷹塚先生は先輩なんですよ!」
そんな、机をどんどん叩きながら熱弁をふるわれたところで、正直鬱陶しい以外の何物でもないんだが。
……コイツは知らないのか?
『先輩』と呼んでいいのは、かわいらしいぴちぴち女子大生だけだということを。
つまりは、『実習生』ってヤツ。
……あー……。
ここ数年男の実習生ばかりで当たり年が来てないが、そろそろ……そうだな。
今年あたりは、なんかイイ子が来そうな気配。
そんな期待を抱いているので、やっぱり彼に先輩と甘えられるのだけはどーしても許せなかった。
「あ、そうそう。先輩、明日の飲み会行きますか?」
「……あのな。だから俺を先輩と――」
「いーじゃないですかぁ! 堅いこと言わなくてもっ」
1冊目の丸付けを終えたところで、鼻息荒く彼が身を乗り出してきた。
……あー。
若いねぇ、ホント。
当時の俺にこれだけのパワーがあったかどうかは、定かじゃない。
今はもう、遠い昔。
それこそ、両手を合わせても足りないほど昔の話だ。
「俺は行かない」
「うえぇええ!? ど、どうしてですか!」
やっぱり。
8割方予想は付いていたが、やっぱりコイツはものすごくデカい声とともに首を振った。
お陰でまた、なんだなんだと幾人モノ先生がこちらを気にし始める。
……あーもー。
ホント、ご勘弁願えんだろうか。
つーかそもそもコイツは3年の担任だろうに。
なのに、なぜ6年担任の俺の隣に座ってるのかが、謎だ。
……相変わらず、席の配置変だよな、この学校。
まぁ、もう慣れたけど。
「あのな。お前、この前の飲み会覚えてないのか?」
「へ?」
「……おめでてーヤツだな。あんだけ濃い飲み会なんて、そうそう忘れらんねーぞ」
しかも、あったのはまだ2週間前。
あんだけ強烈なことをきれいさっぱり忘れられるなんて、その頭の中をぜひとも一度拝見したい。
「……あれは飲み会じゃなくて、拷問だ」
「…………あっ。あれですか? あの、かわいい子が実は彼氏持ちだったーってヤツ」
「そーだよ」
我ら教師というモノは、当然のように出会いが少ない。
俺の周りの教師陣でも、大抵は同僚と結婚って話ばかり。
……そう。
驚くほど、出会いがない。
結局は、新しく赴任してきた先生だとか、元々同じ大学だったとか、あとはまぁ……そうだな。
ときには『実は保護者の方と』なんて不届きな輩がいなくもないが、それは稀に稀を重ねたもの。
基本的に朝から晩まで……どころか、夜遅くまで学校という場所に軟禁状態。
対するのは子どもばかり。
果たして、こんな状況でいったいいつ『結婚』というモノを意識できるだろうか。
だからこそ、たまに早く上がれたときとか、土曜日とかの飲み会が重要なのに。
……せっかく『教師』じゃない職業の人々と触れ合える機会なのに。
…………なのに……!
「……ったくよー」
彼氏が居るなら、飲み会に来るな。
そうは言っても、来るヤツは来る。
大抵が人数合わせのためだったり、頼まれて断りきれなくて……なんてのだったり。
だが、当然彼氏はいるからよほどのことがなければまず自分からアピールしてきたりしない。
……なのに。
「はー……。絶対イケるって思ったんだけどなー……」
頬杖を付いたまま、重苦しいため息が漏れた。
思い出すだけでも、切なくて涙がちょちょぎれる。
番号聞かれて、アドレスも交換して……で最後に。
『私、実は5月に結婚するんですけど……それでも、お友達でいてくれます?』なんて。
誰があんなセリフ言われるなんて思うよ。
ちょー俺好みの、なかなか気が利くかわいい子。
しかも、年下。
……いや、別に年上がダメとかってわけじゃねーけど、最近、自分がこの年になったせいか、どうもやたら甘えたさん系に弱いことが判明した。
30代、ぎりぎり前半と呼べる今。
だがしかし、誕生日が来ればいよいよ四捨五入で『4』の大台に突入してしまうワケで。
だからこそ、重要なんだよ。
年下であること。
これが今の俺の、相手に求める絶対条件。
…………。
……今、笑ったろ。
でもな、あながち馬鹿にできねーんだぜ? これ。
ここ重要。ここポイント。
やっぱ、なんだかんだ言っても、甘えられることで男は自信を持つ。
甘えられるということは、イコール頼りにされてる証拠。
……そのせいか。
ここ最近、誰かとメシを食いに行ってもついつい奢ってやりたくなるのは。
痛い思いをするのは、目に見えてるのに。
「……しかも、あのときのほかの面子ときたら……もー……俺らのことあからさまに下に見てたじゃねーか」
「あれは……でもほら、えっと、なんでしたっけ? ああ、そうそう。看護師さん! お相手が看護師さんだったから、きっと僕たちがみんながっついてるように見えたんですよ」
「意味わかんねー! つーか、だいたい俺らがいつがっついてたよ!! えぇ!?」
「ぎゃあ!? うーうー、た、鷹塚せんぱ……っ……ぐるし……っ」
「ったく、誰がお願いするかっつーの! そもそも、あンとき一度だって酌してもらったか!? えぇ!?」
「ぶぁ!? せんぱ……!?」
「いつだって寂しく手酌だったじゃねーかよ!! はァ!? ワケわかんねーし! マジで!!」
「のーのー!」
がたんっと音を立てて彼に椅子ごと向き直り、ぐいぐいと襟元を締め付けてやる。
俺と違って、しっかり皺の寄るワイシャツ姿。
片やどんな作業も『喜んで』と言えるコンバースのジャージだからこそ、遠慮はしない。手加減無用。
……っは。
男相手にンなことして、何になるよ。
幾ら年下とはいえ、立派な教師。立派な男児。
この程度の絞め技に、ぐぅとか言ってる場合じゃねーだろ。
だいたい、俺なんか今でもいきなり背後から平気でスリーパーホールド食らわされることがあるんだ。
……高学年の担任は、これだから油断できない。
ところがコイツは、3年生。
ぴっちぴちだぜ、ぴっちぴち。
今でも元気に声を揃えてごあいさつしてくれる純粋さを持ち合わせているからこそ、俺にはホントに羨ましくもあった。
……いや、もちろん『毎日ぼろぼろにならない』という意味でだが。
「鷹塚先生」
「……え?」
ぎりぎりと片手で絞め込んでいたら、不意に反対方向から声がした。
「なんすか?」
「ッ……ぶはー! ぶはー! ぜはー!! くっ……げほげほ、くるし……」
ぱっと手を離すと同時に振り返り、何もなかったかのような顔で訊ねてみる。
お相手は、無論特徴のある声だけで十分判別できる人。
彼と同じ3学年の担任に就いている、笹井先生だ。
「明日の飲み会、いらっしゃらないって本当ですか?」
クセのない、まっすぐすとんと落ちる髪。
その黒髪をかきあげるようにしてから耳を見せた彼女が、赤い口紅を引いた唇で囁いた。
…………うーん、残念。
きっと、彼女のような女性が好みの男なんてごまんといるだろうし、何より――……。
「うぅーっ! 笹井先生、聞いてくださいよ! ひどいんですよ、鷹塚先生ってば!!」
……ほらな?
ここにもちゃっかり、1名様ご案内。
だが、俺には正直初期のころから響いてくるものはなかった。
もっとなぁ……バッチリ化粧してます! って主張してるような口紅じゃなければ、ソソられるものもあっただろうが……。
赤すぎる、キツい唇。
それを見ていると、とてもじゃないが強引にでもキスしたいとは思わない。
もっとこう……ぷくっとしてて、見るからに『うわ、ちゅーしてー』と思えるようなヤツじゃなきゃいかんと思うのだがどうだろう。
ぷるぷるしてて、きらきらしてて、なんかもーすげーソソられる唇。
そんな女性が、まさにダイレクト。
残念ながら、年下という大きな点をクリアしているにもかかわらず、彼女だけは枠外だった。
「……あの、鷹塚先生?」
「…………はっ」
いろんな妄想に足がものすごく沢山付いたんじゃないかというくらいにまで、膨らんだソレ。
彼女のひと声がなければ、ここに戻って来れなかったと思う。
……危ない危ない。
イタイ独り言を囁く前でよかったと本気で思う。
「あー、すみません。……それで、なんでしたっけ?」
ハハハと乾いた笑いで場を切り抜けてから、改めて彼女に向き直る。
すると、何度かまばたきを見せながらも、こほんと咳払いをひとつした。
「明日の飲み会のことです」
「……あー……」
そういえば、そっしたね。
まったく乗り気のない返事が出てしまい、慌てて笑みで繕う。
……ま、こんなことしても無理だってのは重々承知なんだが。
お誘いをもらったその日に断りを入れたときの顔、まだ忘れらんねーもん。
あからさまに『え』ってな具合に表情が固まって、正直どーしようかと思った。
「……どうしても来れないんですか?」
しゅん、と少し眉尻を下げた姿を見て、隣の健康優良児がガタガタッと席を立った。
「大丈夫です! あのっ、僕、何人かまとめましたから!」
まるで、『俺を当てて!』と言わんばかりの手の挙げ方に、思わず口が開く。
……がっついてませんか?
先ほど彼に浴びせられた言葉が、ていねい口調で頭に浮かぶ。
「……ええと……」
「あのっ! 大山先生たちにも声かけたんです!」
「は……はぁ……」
おー、圧倒されてる。……見事なまでに。
両手でバインダーを抱いている彼女が、じりじりと後退して行くのがわかる。
だがしかし。
花山の若さ溢れる先走りは止められなかった。
「あのっ! 必ず行きますから!! はい!!」
少しだけ鼻息が荒いような……いや、全部において荒いんだが。
ぼーぜんと座ったままそんな彼を見つめていたら、いつの間にやら笹井先生が姿を消していたのに気付いた。
……そーいやさっき、『わ、わかりましたっ』なんて逃げてったっけな……?
あまりにも激しすぎる彼のせいで、周りの空気が2,3度上昇したような気がする。
…………。
……いや、多分気のせいじゃないと思うが。
恐るべし、花山直。
一直線という文字の如きその振る舞い、まさに名は体を表すの典型。
何にも物怖じせず、空気を読みすらしない勢い。
……ああ。
若さって怖くて強いな、と改めて思った。
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