「っはー……たまんねー」
 ピシャ、と後ろ手にふすまを閉め、そのままトイレ方面へと建前行動に出る。
 ……なんでこんな目に遭わなきゃなんねーんだ。
 肝心の葉山先生とはひとことどころか目も合わすことができず、早くも戦線離脱で逃げるしかねーし。
「………………」
 深いため息ひとつ。
 ……いや、ふたつ。
 重々しく息を吐いてから、店の入り口にある待合室を横切ってトイレへ。
「……あれ……?」
 ――……行こう、と思ったんだが。
 今の時間、すでにイイ頃合いだから店内はかなりの賑わいを見せている。
 ついでに、今日は金曜。
 絶好の飲み会日よりってヤツなんだが……一方で、今は誰も待っている客がいなかった。
 ……なのに、だぞ。
 今、いたんだよそこに。
 たったひとりの人物が。
「……葉山先生?」
「っ……あ……」
 恐る恐る見るほどでもなくすぐにわかった人。
 仕切りから中を覗きこむと、そこには間違いなく彼女が座っていた。
「どうしたんすか? こんなトコで」
「え……と、その……」
 そりゃ、自分にとっちゃ願ってもない機会だ。
 ……でも、なんでだろうな。
 こうも突然好機に恵まれると、途端に冷静になっちゃうっつーのは。
 …………もったいねぇな。
 俺、ずっと願ってたのに。
 今こそがチャンスなのに。
 だって、ふたりっきりだぜ? ふたりっきり!
 人目をはばからず、いろいろできちゃう絶対で絶好の機会なのに。
「………………」
 驚いたように俺を見上げている彼女を見たまま、ゆっくり隣へ腰を据える。
 ……とはいえ。
 もちろん、距離はだいーぶ開いてるんだけどな。
「……少し、酔っちゃったみたいで……」
「あー……なるほど」
 苦笑を浮かべた彼女は、確かに頬が赤くなっていた。
 ……う。かわいい。
 つーか、なんか……アレだな。
 見ちゃいけないっちゅーか。
 きらきらとなんの穢れも迷いもなく俺に見せてくれる表情に、くらくらする。
 ……うーわ。
 まっすぐ顔を見れない自分が、ちょっとだけウブな青少年みたいで情けなさ半分。
「…………」
「…………」
 いったい何を話せばイイのやら。
 そんなことをもしかしたら互いに思っていたのか、しばらく揃って黙ったままの切ない時間が続いた。
 ……のだが。
「あの、鷹塚先生っ」
「っはい……!」
 いきなり聞こえた、かわいい声。
 慌てて返事をすると同時にそちらを見ると、丸い瞳がばっちり俺を見つめていた。
「あの……」
「……うん」
 ごくり。
 彼女のさりげない動作についつい目が行き、ばくばくと心臓が高鳴る。
 ……うわ。すげー緊張する。
 なんだろ、この感じ。
 まるで恋焦がれてた憧れの人にでも会ったかのように、自分がひどく自分らしくないように思う。
 だって、すんげー繕ってるもん。俺。
 猫かぶってるとかってモンじゃない。
 めちゃめちゃ好青年ぶってるぜ、今。
 ……つーか、もしかしなくても多分初めてだと思う。
 年下の女の子相手に、ここまで緊張したのは。
「あのっ……」
「……う、ん?」
 どきどき。
 何かを思いつめているかのような表情を真正面から向けられ、ごくりと喉が鳴る。
 ……うわ。近いぞ。
 先ほど味わった笹井先生との感じよりも、もっとごく近く。
 そば、なんだよ。ホント。
 あと少しすれば、それこそ――……簡単にキスでもできてしまいそうなほどに。
 ……って、何考えてんだ俺。
 しっかりしろよ。
 まだ、ほんのちょこっとしか話してない相手なのに。
 ……不謹慎とかっつーより、むしろ軽薄って言葉のほうがしっくりきちゃうかもしんない。
「……………」
 目の前に居るのは、俺好みのかわいい子。
 形のイイふっくらつやつやな唇も、ぱっちりした瞳も。
 ……そんでもって、薄っすら紅を差したような桃色の頬も。
 ついついこんな近距離で見つめてたら、そりゃ、目が行かないはずはない。
 …………うっそ。
 マジで?
 もしかして、その……アレか?
 実は、葉山先生も俺のこと……気になってた、とか?
 そんでもってそんでもって、今のこの機会をお互いめちゃくちゃ意識して『今しかない』とか思ってるんじゃ……!
「葉山先生」
「……は……はいっ」
 そう思った途端、つい身体が先に動いた。
 思わず肩に片手で触れ、少しだけ力をこめる。
「…………」
「…………」
「…………」
「……っは!」
 まじまじまじまじと見詰め合ってしばらくして気付いた。
 ……うわ、俺何やっちゃってんの……!
「ご、ごめっ……! いや、その、こんなつもりなくて」
「え、あ、いえっ……! 別に、あの……っ」
 ぱっと両手を上げて『降参』状態。
 だが、彼女は慌てたように首を横に振ったものの、めちゃめちゃ頬が赤く染まっていた。
 ……う。かわいい……じゃなくて!
「ほんっとーに、ごめん!」
 ぱん、と音を立てて両手を合わせ、彼女に謝罪。
 ……だったらやるなよ、っつー話なんだけどさ。
 でも、ホントに咄嗟だったんだ。
 気付いたら、彼女に手を出していた。
 …………。
 ……しかし、だ。
「…………」
「…………」
 そんなことやらかしてしまったせいか、途端にめちゃめちゃ気まずくなってしまった。
 彼女も俯き、俺もまっすぐ見れずに視線を逸らし。
 ……うー。
 激しく自己嫌悪。
 そして、後悔。
 ……せっかくイイ雰囲気だったのに。
 俺の馬鹿。ホント馬鹿。
「……あの……鷹塚先生」
「っえ?」
 思わず自分の頬を平手打ちしそうになった瞬間、彼女が再び口を開いてくれた。
 ……今度は慌てるなよ。絶対に。
 そんな釘をめさめさ深く自分に突き刺してから、ゆっくりそちらを見る。
 相変わらず見せてくれる、かわいい顔。
 澄んだ瞳。
 ……今度こそ。
「何……?」
 ゆっくり息を整えてから伺い、彼女を見つめる。
 ――……と。
 まったく考えも予想もしてなかった言葉が、彼女の口からこぼれた。

「私のこと、覚えてませんか?」

「……え……?」
 真剣そのものの表情を見た瞬間、一瞬頭が真っ白になって何も言葉が出て来なかった。


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