刹那、彼女が表情を変えたのがわかった。
「っ……」
何か言いたげな顔のままこちらへ一歩踏み出したのを見て、煙草を消し、車の鍵を開ける。
逃げる、ワケじゃない。
そんなつもりじゃなかった。
ただ――……嫌だったんだ。
アイツから、その隣のヤツの話を聞くのが。
紹介なんて、まっぴら。
俺が欲しいのは、そんな言葉じゃない。
「……っ……」
エンジンをかけてギアを入れ、勢いのいい荒いバックをしたせいで石が弾ける音がした。
バックミラーに映る、彼女。
男の制止を振り切るかのように手を振り、こちらへ駆けてくる様子が見えた。
……ヤバい。
何をしたワケでもないんだが、先日のあの無理矢理な件があるからこそ、気まずさが強い。
アイツと俺とは、離れていたはずなのに。
なのに、いつしかその距離は近づき、だからこそ――……。
「…………はー……」
何してんだよ、俺は。
トップにギアを入れたところで、ブレーキを踏んでいた。
今、アクセルを踏み込めば簡単にここから離れられる。
……でも、な。
アイツが近づいてくるのが見えたから、動けなかった。
高いヒールの靴にも関わらず、懸命に駆けて来るのを見たら。
…………ほかの誰でもなく、この俺のために。
「……鷹塚、先生……!」
「…………何してんだ、お前は」
「はぁ……よかった……。……待ってて、くださったんですね」
こちら側の窓を開けて腕を乗せたら、すぐに葉山がそこへ辿り着いた。
両手を縁に当てて大きく息をつき、肩を上下させる。
……どんだけ必死に来てんだよ。
まっすぐさが、少しだけ胸を疼かせる。
「……葉山」
「はい……?」
息を切らせながらも、髪を整えながら見せたのは……笑みで。
さっきの泣き顔とまったく違うモノに、一瞬くらりと眩暈がした。
「…………お前、かわいすぎ」
「……え……?」
「なんでそんな一生懸命なんだよ。こないだ泣かされたばっかなんだぞ? この俺に。……つーか、あンとき言ったろ? 拒め、って。……なのに、なんで俺ンとこ来るんだよ」
馬鹿なのかお前は。
だいたい、ツレの男ほったらかしといて、よその男ンとこ来るなんて。
……どんだけお前は俺贔屓なんだよ。
勘違いすんだろ。履き違える。
「いいのか? ほっといて。困ってんじゃねーの?」
「……あ……。いいんです。姉がいますから」
「姉?」
「はい。姉の旦那様なんです。……えっと、あのエボを譲ってくれた……」
「…………マジ?」
「はい」
くす、と笑った彼女にうなずかれ、目が丸くなった。
だが、どうやらそれは本当のことらしい。
顔を覗かせて後ろを見ると、後部座席からもうひとり女性が降りて来たのが見えた。
「…………」
「信じてもらえましたか?」
「信じるも何も……ハナから疑ってねーよ」
なんつー嘘つきだ。
散々疑ってたクセに。
内心ほっとしてるクセに。
……もしかしたら、今のは嘘だって葉山に見抜かれたかもしれない。
なんと言っても、彼女をまっすぐに見つめることができなかったから。
「…………なんで、来た?」
「だって……鷹塚先生が見えたから……」
「だってじゃねーだろ、お前は。……勘弁してくれ」
「いけなかったですか?」
「…………あのな、葉山」
「はい」
「そーゆー顔すんな」
「っ……!」
「……手が出ンだろ」
「せ、んせ……」
車内を覗き込むようにかがんだ彼女へ手を伸ばし、そのまま首を引き寄せる。
途端、香る甘い匂い。
桃のような、うまそうな香り。
……コレだよ。俺が欲しかったのは。
小枝ちゃんになくてコイツだけが持つ、あの日衝動に駆られた原因は。
「……泣くな」
「っ……」
「泣くなら、俺の前で泣け」
そうしたら、この間みたいに謝れるだろ?
悪かった、って。
……俺が原因なら、幾らでも弁解出来る。
だから、手が届かないところだと困るんだよ。
俺じゃない誰かがお前を慰めるから。
「……思い出しちゃったんです」
「何を?」
「鷹塚先生、いつも……頭撫でてくれたから」
腕の力を緩めると、この距離でまっすぐ見つめられた。
優しい眼差し。
……どころか、思いきり彼女の想いが伝わってくるようで、小さく喉が鳴る。
「最近、あんなふうに頭撫でてもらうことがなかったので、ちょっと……すみません」
ふふ、と苦笑した彼女に対し、俺は何も言えなかった。
その、顔。
かわいく笑われて、何も……言葉なんて、出ない。
こんなはず、なかった。
「……あ……」
頬に手を滑らせ、撫でるようにしてから耳元へ触れる。
……そんな顔すんな。
このまま連れて帰ンぞ。
「…………」
こちらからは、手を出さないと決めた。
もう、俺でさえ自身を止められなくなるから。
……だから、お前が欲しがれ。
俺を。
そのためになら、いくらでも頭を使う。
「…………またな」
「……はい……」
はぁ、と大きくため息をついてから囁くと、相変わらずかわいく微笑んでからうなずかれた。
……だけじゃない。
おずおずと伸ばされた両手が、俺の腕に触れた。
温かくて、優しくて、小さな……柔かい手。
「…………」
離すのが惜しいが、だと言ってこのままで居るワケにもいかない。
指先を残しながら手を離し、代わりに冷たくて硬いギアへ当てる。
そのギャップが余計に、葉山の感触を俺の中で大きくさせて。
「……はー」
車から彼女が離れたのを見て、また深い深いため息が漏れた。
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