あの日。
俺が相談室のそばにいることを知らない葉山が、しばらくして泣き止んだとき、小さく笑った。
笑った、んじゃない。
……アレは恐らく、自嘲。
いけないのに。ダメなのに。
そんな、彼女らしくもない言い訳が多くて、苦しくなる。
アレを言わせてるのは、俺。
アイツにとった態度の結末だ。
「……本当は、髪……切ろうかと思ったんです」
「髪を? どうして。せっかくきれいなのに、もったいないじゃない!」
「ありがとうございます。でも、中学まではずっとショートだったので」
「あら、そうなの?」
「……はい」
中学まで、か。
……なるほど。
俺にとって、葉山の印象はくりくりした瞳にさらさらのショートヘア。
だから、今の彼女と再会してしばらくの間もイコールで結ばれなかった。
昔の葉山瑞穂と、今の葉山瑞穂は別人。
頭では同じだとわかっているのに、もしかしたらそんなふうに区別されて存在していたのかもしれない。
「……でも、切れなかったんです。どうしても……髪、は」
声がワントーン落ちた。
呟くような声に変わり、思わずこちらも反応してしまう。
……アイツの本音が出る。
直感的に、そう思ったから。
「好きな人に、褒めてもらえたから……触って、もらえたから。だから、どうしてもそれをまだ忘れたくなくて、切れないんです」
ぽつりぽつりと聞こえた言葉は、ひどく愛しげに囁かれているようで、思わず喉が鳴る。
――……好きな人。
何度か彼女の口から零れる単語が指しているのは、俺。
自惚れじゃない、彼女が告げてくれた事実。
それを目の当たりにするたび、申し訳なさばかりが大きくなる。
「でも、本当はいけないんですけれどね」
「いけない? 何が?」
「……約束と違うからです。諦めるって言ったのに、特別扱いしてもらいたい、ってまだ思ってる自分がいて……なかなか踏ん切りがつかないんです。……ずるいですよね、私」
「何言ってるのよ! そんなこと――……」
「……ううん。……ずるいです。とても」
慌てたように否定してくれた小枝ちゃんの言葉を、葉山が静かに遮った。
ずるい、か。
お前がずるかったら、俺はどうなる。
……俺のほうが、何倍も何十倍もズルい。
狡くて、酷くて、どうしようもないヤツだ。
なのに――……。
「……なんで……」
目の前の彼女を見て、思わずぽつりと言葉が漏れた。
切れない、と言った髪。
俺が褒めた、髪。
長くて、キレイで、艶やかな……色っぽい、髪。
風に揺れるたび、違った表情を見せて。
それに触れるたび、笑みがあって。
……なのに。
「……変……ですか?」
「っ……え?」
「変ですよね、やっぱり。……自分でもまだ慣れなくて……鏡を見たとき、中学生みたいだなって思いました」
まじまじと見すぎていたせいか、少しばかり恥ずかしそうに葉山が笑った。
「いや、そうじゃなくて……今日、って……」
「あ、今日はケース会議があるのと、保護者の方との面談が入っているので出勤なんです。明日は子どもたちの対応がありますので」
「……そっか」
――……違う。
本当は、全然違うことを聞こうとした。
だが、言えるはずない。
『どうして切ったんだ』
そんなこと、俺に聞ける権利はない。
「…………」
肩下まであった髪は今はなく、肩どころか耳もしっかりと出ている状態。
昔と同じ……本当に、ダブる髪型だ。
それでも、当時よりかは若干長く、ショートというよりはボブに近い。
……だが、衝撃は衝撃。
髪が、失せた。
バッサリとあの長さを切られた。
俺にとって、その行為はまさに『断つ』そのものに見えて。
…………だよな。
納得しようと頭は動くのに、気持ちにまったく余裕がない。
俺から離れると言ったのは彼女。
彼女を離したのは、俺。
これでよかったしこれが当然の結果なのに……なんでこんなに焦ってるんだ。
「……鷹塚先生、体調悪いんですか?」
「え?」
「あまり……顔色がよくない気がするので」
それに、声も。
眉を寄せて見られ、思わず視線が逸れた。
弱いな、俺は。
今、コイツにまっすぐ見られたら、動揺を隠せない。
「……大丈夫ですか?」
「ああ。大丈夫だ」
大丈夫じゃない、とは言わない。
まだ余裕がある。
いや、むしろ目の前の葉山に対して『大丈夫じゃない』なんて言ったら、当然心配されるとわかっているから。
「っ……」
うなずくと、喉のいがらっぽさから小さく咳き込む。
それで声をかけてくれようとしたのがわかったので、手を振ってなんでもないとアピール。
なんでもない。大丈夫。平気だ。
安っぽい言葉でしかないが、今の俺にできるのはそんな言葉を羅列するだけ。
「……お前は」
「はい?」
「お前は……大丈夫なのか?」
ガラガラと調子の悪い声を小さく咳払いして整えてから、彼女を見る。
大丈夫なのか。
それは何に対してなのかはっきりと告げなかったものの、彼女には恐らく意味が伝わったんだろう。
……大丈夫か、か。
相変わらず、俺は曖昧でしかないな。
「…………大丈夫です」
一瞬目を丸くした彼女が、ふっと表情を和らげてから笑ってうなずいた。
優しい顔。
何度も見たことのある、笑み。
のはずなのに、髪型のせいかまるで初めて見るかのようで。
……しっかりしろよ、俺は。
頭が回っていかない。
「あぁっ!? 葉山先生、どうしたんですかその髪はぁあ!?」
入れ違いに廊下へ出ようとしたら、デカい声が背後から聞こえた。
……相変わらずでけー声だな。
もう少し静かにできねぇのかお前は。
そんな思いを込めて振り返ってから軽く睨むものの、花山の目にもう俺は映っていなかった。
「どうしたんですかっ! も、もももっ、もしかして、アレですか! ……し……つれん……っ!?」
あわあわと慌てながら寄ってきた花山が、口元に手を当てながらおずおずと訊ねた。
だが、葉山はそんな彼に苦笑を浮かべて首を振る。
「違うんです。ただ……新しい居場所が、見つかったので」
「えっ?」
「そばにいられる人が見つかったので、それで……けじめ、かもしれません」
「っ……!」
ドアを半分ほど閉めたところで聞こえた葉山の言葉に、予想以上に反応した。
頭も、身体も、気持ちも、全部。
……新しい居場所。
そばにいられる、人。
いつもと同じ口調で聞こえたそれらの言葉に、正直、焦った自分がいる。
戸惑っている自分が……いる。
「…………」
ふと脳裏をよぎる光景。
それは、先日のバッティングセンターでのひとコマ。
……アイツか。
葉山に言われた訳でもないのに『男』の後ろ姿が浮かび、気づかれない程度の舌打ちをし――……たところで、ため息が漏れた。
なんでだよ。
コレでよかったんだろ。
コレを望んだんだろ。
こうすれば、アイツの中の昔の俺は傷つかない。
アイツの中にある俺の印象も何も変わらない。
憧れの、先生。
そのままで終わるのに。
一生、ずっと変わることなく護られるんだから。
「………………」
それを望んだんじゃないのか?
違わないよな?
お前が自分でしたことだぞ。
ドアを閉めながら葉山を見ると、話を続けながら、何やら照れたように笑みを浮かべていた。
……まるで、じゃない。
新しい恋を見つけた。
そんな顔にしか見えなくて、今度は振り返ることなく保健室へ向かう。
また出た咳が、広くひと気のない廊下に大げさに響く。
手離した彼女。
その首元には、やはり俺があげたモノとは違うネックレスがかかっていた。
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