「お疲れさまでした」
「あ、お疲れさまです!」
 その日の夕方。
 定刻どおりに、荷物を纏めた葉山が立ち上がった。
 いつもなら、もう少し職員室に残ってもおかしくはない時間。
 だが、今日はまさに定時での勤務終了。
 本来ならこうであるべきだし、何もおかしくはない。
 なのに、今までこうだったからとか、ああだったからとかいってナンクセ付けてる自分が、やっぱり1番気に入らないんだけどな。実際。
 ……気に入らない、か。
 俺はどこまでそれを貫き通すのか。
 気に入らないも何も、俺がコイツを束縛できる対象なんかじゃないのに。
 俺のモノでもなんでもない、ただの過去の関係者であるというだけの俺が、何を偉そうに。
 ふざけんなよ、とそのうちどこかから怒鳴られるかもな。
「…………」
 今日1日、葉山がとても楽しそうに携帯を見ていたことと小枝ちゃんの話から、確実にコイツに男ができたというのはわかった。
 放課後、教室から職員室へ向かっているときに相談室から小川先生と一緒に出てきたのだが、そのときに彼が『最近キレイになりましたね』なんて普通の同僚に決して吐いちゃいけないような意味深なセリフを口にしていて、それを彼女もまた『ある人のお陰ですね』なんて意味ありげに笑っていたのも見た。
 だから、なんだろうな。
 今、余計に自分がイライラしてるってのは。
 ……あー。
 見るんじゃなかった。
 携帯といい、指輪といい、そして小川先生との会話といい。
 どれもこれもタイミングよすぎだ、俺は。
 ……くそ。
「………………」
 本当は、違った。
 違うことをしようと思ったし、やるべきこともあった。
 なのに、彼女が職員室のドアを閉めたのを見てつい立ち上がったとき、行動の矛先がぐるりと変わってしまった。
 あとを追うようにそちらへ向かい、職員玄関へ。
 すると、ちょうど葉山がそこをあとにしたばかりで、ドアのガラスの向こうに彼女の後ろ姿が見えた。
 まだ、自分は荷物を纏めちゃいない。
 だから、今あとを追ったところで一緒に帰るとかそういうのができるワケじゃないし、無論それをするつもりじゃなかった。
 ……なのに、だ。
 それなのに、あとを追い始めたのは、無意識半分――……と言えたらどれだけイイか。
 がっつり意識して、それどころかアイツを呼び戻したいと思っての行動なんだから、やっぱり俺はタチが悪いんだなと改めて思った。
「…………」
 靴を履き、職員玄関から外へ。
 日中はまだ天気がよかったが、今は日が傾き始めたからか、あまりはっきりとしない空に変わっていた。
 彼女の後ろ姿を追うように早足でそちらへ向かう。
 だが、俺よりも先に外へ出た彼女は、まるで急ぐかのようにいつもより歩調が早かった。
 そして――……その、先。
 なんでそんな駆けるように行くんだと思ったら、通用門のすぐ隣に、ハザードを焚いて止まっている1台の車が目に入った。
 青の、インプレッサ。
 チカチカと規則的に点滅するハザードに吸い寄せられるように、葉山がその車へと躊躇なく近付いた。
 ……いや、むしろ求めていたのかもしれない。
 駆け寄ってすぐ助手席のドアを開けた彼女の、嬉しそうな声がここにいる俺にも聞こえたから。
「っ……」
 途端、先ほどまでとは違って足が止まった。
 車に乗り込んだのを見て、ため息にも似た重たい息を吐く。
 ……あー。
 俺、あの青色結構好きなんだけど。
「……………」
 でも、今日からは街中でアレみたら煽りそうだな。
 ……いや、しねーけど。
 そんな気分ってだけで。
 対象物は、もうない。
 ハザードを焚いていたインプも、彼女を乗せたらあとはここに用なんてモノあるはずなく、エンジン音を響かせてこの場をあとにした。
「…………」
 結局、何もできず何もせずに戻るだけ、か。
 ……なんか、すげーだっせぇ。
 何してんだ、俺。
 何がしたかったんだよ。
「……はー。っ……!」
 仕方なく引き返そうと、職員玄関へきびすを返したとき。
 今見ていた空とは比べものにならない、今にも土砂降りの雨が降ってきそうなものすごい色の空が目に入った。
 ちょうど、俺の頭上半分から色が異なっている空。
 片や雲こそあれど、光ある晴れた空。
 だが、これから向かうべき校舎の上にあるのは、重たい、圧迫感のあるモノ。
 だが――……それだけじゃない。
 そこには、あるはずのないモノがあった。

 目の前に、虹がかかっていた。

 いつから出ていたのかわからないが、もう、じきに消えてしまいそうな薄さ。
 そこに漂う、儚さ。
 だが、こんな虹でさえもレアな感じがする上に、自分にはこれすらも眩しすぎて戸惑った。
 あるはずのないモノ。
 俺にとっては、そう認知されていたからかもしれない。
「………………」
 手を伸ばし、消えかかっている脚の部分にかざす。
 ……手に入れる。
 いや、そうする。
 そう決めたから、今俺は動き始めたのにな。
 虹を眺めたまま小さく笑い、足早に職員玄関へ向かう。
 もう引き返さない。戻らない。
 俺には前への道しか見えてないから。
 そう決めて動くべきなのに、今の俺は――……どうだ。
 中途半端すぎて、笑えるな。
 情けない。みっともない。
 どっちつかずで、最低。
 ……何がしたいんだ。どうしたいんだ。
 それがハッキリしていないのに動き始めた俺は、ものすごくダサくてカッコ悪いと自覚した。


ひとつ戻る  目次へ 次へ