「……ごほ、ん。……あー……」
 帰りの会を終え、子どもたちを送り出したあと。
 階段を下りながら、ふと喉に異変を感じた。
 ……痛い気がする。
 やたら午後の授業で咳払いが多かったのは、そのせい。
 声がかれてるのも、そのせいだろう。
 そんな話を学年主任に話したら、ご丁寧にのど飴をくれた。
 いつも大声出してるからそのせいだろうなんて言われて、まぁ、それは確かにとついうなずいていた。
 今日のエンカウンターでも、声出したし。かなり。
 予想以上に盛り上がったのはいいんだが、ざわざわと雑談も予想以上に多くて、つい大声で制す場面が何度か。……しばしば。
 そんな俺を見て葉山は小さく笑っていたが、彼女もまた同じように子どもたちに訊ねられることに対して忙しそうに答えていた。
「…………」
 あんまり無理をして、明日の朝起きたらまったく声が出なかったなんてことになったら、シャレにならない。
 この職業は、喉をヤる人が多い。
 職業病だとも思うが、だからといって『しょうがない』では済まされないこと。
 朝から晩まで声を張りあげなきゃ仕事にならないからこそ、おちおち喉をツブすワケにはもちろんいかなくて。
 …………小枝ちゃんにトローチでも貰うか。
 職員室前の廊下に下りたとき、そう思うが早いか左側奥にある保健室のプレートへ目が行った。
 時期柄、日が沈むのが遅くなったからかまだ電気は付いていないが、主はそこに居るだろう。
 恐らく、また菓子でもこっそりつまみながら。
「ありがとうございましたっ」
「……ん?」
 保健室へ向かってすぐ、背中にある職員室から聞き慣れない声が聞こえた。
 腹から出されているような、そんなデカい声。
 まるで新卒の先生が出しそうな張りのあるモノで、つい足が止まった。
 ウチの学校に来た新卒は、あんな声じゃない。
 第一、男じゃねーし。
 なんてことを考えながらそちらを見ると、パリっとしたスーツを着込んだ男が反射的にか俺を見た。
 顔は見えたが、見知らぬ相手。
 だが、一応ここは職場で。
 どんな相手かわからない手前、軽く会釈だけはしておく。
 最低限の、社会人のたしなみとして。
「……え……。……鷹塚先生、ですか?」
「え?」
 会釈を返されたのを見てから保健室へ行こうとしたら、名前を呼ばれた。
 だが、顔を見たのに見覚えのない相手。
 だからこそ、正直驚いたというよりは、もしかして俺が覚えていないだけでどこかで会った相手なのかと一瞬焦りが先走った。
「っ……」
「うわ! やっぱり! やっぱり、鷹塚先生じゃないですか!!」
「……っと……どこかで会ったこと……?」
 パタパタとスリッパで走って来た彼に驚くも、俺の正面まで来てすぐ、俺を指差しながら『ああっ!』とデカい声をあげた。
 しかも、ものすごく嬉しそうに笑われ、思わず眉を寄せる。
「やだなー、忘れたんですか? 思い出してください! 杉原です。杉原俊平!」
「杉原……っあ! あー!! ペータか、ペータ!!」
「うっわ、すっげぇ懐かしい! そのあだ名!! あはは! 先生、すげー!」
 眉を寄せたまま名前を呟いたら、ぽん、と閃いたモノがあって。
 あだ名。
 葉山のときもそうだが、どうやらそのほうが俺にとっては深い場所にインプットされているのかもしれない。
 ようやく誰か理解できて、安堵から自分の顔も綻んだ。
「うわ、すげーな。どうした? こんなトコに」
「どうしたじゃないっすよ。……ごほん。実は俺、4月から茅ヶ崎の小学校で先生やってるんす」
「……え。マジ?」
「マジっす」
「うっわ!! すげーじゃん! おめでとう!!」
「あはは! あざーっす!」
 予想だにしなかった発言で、思わず彼の腕を強く叩く。
 一瞬、ぞくりと鳥肌も立った。
 嬉しくて、驚いて。
 だが、何よりも自分の教え子がこうしてまた俺と同じ道を歩み始めたというのに、正直感動していた。
「お前……そうか。先生かー。で? 学担か?」
「はい。2年生っす。……いやー……ヤバいっすね。子どもたち、ハンパなくかわいいっす」
「わかる! わかるぞ、それ。すっげーわかる。かわいいよな! ヤバいよな!」
「はい!」
 始終笑顔の彼を見ていたら、まるで在りし日の自分を見ているように思えて、こっちも笑顔が浮かびっぱなしだった。
 まさか、葉山に続いて2人目の教職関係者が現れるとは。
「それにしても、先生相変わらずデカいっすね」
「いやいやいや、ちげーだろ。デカくなったのはお前だって」
「いや、そーなんすけど。でもなんか、デカいっす。……あー、なんか……やっぱさすがっすね。先生には、いつまで経っても追いつけない感じが」
「これからは越される一方だぞ?」
「ンなことないっすよ!」
 背のことを言っているのだろうが、その差はわずか。
 だから、恐らく色んなモノ全部含めて言ってくれてるんだろう。
 デカい、か。
 ……どうかな。
 俺がそこまでできちゃいないのを、お前は知らないから言ってくれてるだけだ。
「俺、鷹塚先生みたいな先生になりたくて、大学行ったんす」
「っ……マジで?」
「マジっすよ。マジ! すっげぇマジっす!」
 まっすぐ目を見て言われた言葉に、目が丸くなった。
 俺と同じ職に就いたということだけでもものすごく嬉しいのに、まさか俺を目指してと言ってくれる奇特なヤツがまた現れるとは。
 ……こんな日が来るんだな、本当に。
 当時の、悩んで悩んで辞めてしまおうかとも思った自分に、胸張ってがんばれば報われるんだぞと言ってやりたい。
「……そっか……お前もか。うわー……どーしよ。泣きそう」
「っ……マジすか?」
「マジもマジ。大マジ。だってお前、考えてもみろ。今、笑顔で『先生おはよーございます』とか言ってくれてる教え子が、大人になってから教師になって戻ってきてみ? 絶対感動するから」
「いや、それは……確かに、あると思いますけど。……うわ。そうっすね。ヤバいっすね」
「だろ? ヤバいどころじゃねーぞ、お前。すっげぇ嬉しい。……あーもー、たまんねぇ」
「あはは。あざっす」
 笑みは浮かびっぱなし。
 だが、本当に泣きそうにもなる。
 嬉しくて。驚いて。実感して。
 ……ああ、コイツももう立派な大人なんだな。
 俺と同じ、先生って呼ばれてるのか。
 そう思うと、不思議な気もするが、嬉しいほうがずっと大きい。
「お前が2人目だ。俺と同じような先生になりたかった、なんて言ってくれた教え子は」
「え、そうなんすか? 俺が2人目って……じゃあ、最初は?」
「葉山だよ。覚えてないか? 葉山瑞穂」
「っ……葉山、すか?」
 すぐそこにある、相談室。
 そこのドアは開きっぱなしで中から光も漏れているから、まだあそこに彼女は居る。
 彼と同じように、俺に対して先生になりたいと言ってくれた教え子。
 ………そして、彼女が抱いてくれていた俺に対する思いを、俺の我侭で捻り潰してしまった相手。
「覚えてるだろ?」
「や、その……覚えてるも何も……。俺、アイツと同じ高校だったんすよ」
「そうなのか?」
「そんでまぁ……実は、ぶっちゃけ高校ンときアイツに告ったことあって。まぁ……フラれたんすけど」
「っ……何?」
「いやー、なんつーか……甘酸っぱいというよりは、ちょっと切ない思い出なんすけど」
 ははは、と苦笑いした杉原を見ながら、思わず喉が鳴った。
 同じ高校だった、まではよく聞く話だ。
 ……が、そのあと。
 告白した、のか。お前、アイツに。
 しかも、フラれたって……。
「……マジ?」
「マジっす」
 苦笑を浮かべたままうなずいた杉原は、嘘や冗談を言ってるようには決して見えなかった。
 痛いところを指摘された、まるでそんな顔をしていたから。
「え、もしかして葉山も先生に会いに来ました?」
「ああ。つーか……一緒に仕事してる」
「マジすか!? え、ちょっ……あの、言わないでくださいよ? 俺がこんなこと言ったって!」
「大丈夫だ。言わないから安心しろ」
 慌てふためいた杉原に大きくうなずき、約束する。
 そうしてやると、昔の面影があるほっとしたような笑みを浮かべて、ため息をついた。
「………………」
 だが、それを聞いた瞬間、反射的にひとつの考えが頭の中で練り上がっていた。
 月日が経ってからの、再会。
 大人になった今だからこその、変化がある。
 時間がある。
 ……意味が、ある。
「…………杉原」
「はい?」

「今夜、暇か?」

 昔から、ずっとそうだった。
 大人になった今も――……いや、大人だと呼ばれる年になってからかなり経った今でも、尚、変わらないこと。
 思い立ったら、即行動。
 時に危うく、時に幸いにもなる、俺の短所であり長所だと自負する面。
 それが、こんなときに限って『いい案』だと信じて口から言葉が漏れた。
 ――……まだ中途半端にしか纏まっておらず、最後どうなるかまで計算しきれていなかったのに。


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