「それでは、お先に失礼します」
「あ、お疲れさまでしたー」
「お疲れさまです」
 17時半少し前に職員室へ戻って来た葉山は、荷物を整理してから鞄に手をかけた。
 そのままあいさつされ、俺よりもまず花山と彼女の隣に居た先生が頭を下げた。
「……お疲れさま」
「失礼します」
 目が合うような気がしていたら、ふ、と音もなくそうなった。
 彼女を見たまま軽く頭を下げ、口にする。
 すると、葉山もまた同じように小さく頭を下げた。
 ……ただし、小さな笑みを浮かべてくれながら。
「………………」
 机の上にあったプリントを揃え、丸付けの途中だがまとめて鞄へ入れる。
 今日は、これで終了。
 約束があるから。
「あれ? 先輩も上がりですか?」
「ああ。ちょっとな、教え子の就職祝い」
「へー。相変わらずマメですね、先輩は」
「お前もそういう年になりゃ、わかる」
 鞄へ書類やノートなどをしまい込むと、ずっしりと重たくなった。
 だが、この程度でどうのというワケじゃない。
 俺にとっては、重たいと実感するまでもないこと。
「お先に失礼します」
 立ち上がってから声をかけると同時に、職員室のドアへ向かう。
 途中途中から声をかけてもらえるのは、正直ほっとするモノで。
 だがまぁ、仕事の最中にいちいち手を止めさせて声をかけてもらってるってのは、若干申し訳なさもあるが。
「…………」
 ひと気のない薄暗い廊下を足早に職員玄関へと抜け、靴を履き替えて表に出る。
 すると、通用門のそばに葉山の姿があった。
「葉山!」
「っ……」
 小走りで近付きながら声をかけ、気づいて立ち止まってくれた彼女を見たまま歩を進める。
 だが、どちらかというと振り返った顔は驚いているようにも見えた。
 ……まぁ、そうだろう。
 こんなふうに、こんな場所で俺から声をかけたんだから。
「このあと、暇か?」
「え? ……あ、特に用事はありませんけれど」
「そっか。んじゃ、メシ食いに行こうぜ」
「っ……いい、んですか?」
「ああ」
「……ありがとうございます……っ」
 驚いたように目を丸くして口元に手を当てた彼女を誘うと、ふたつ返事で笑みを浮かべた。
 間近で見る、久しぶりの笑みってワケでもない。
 だが、プライベートな彼女に触れるのは本当に久しぶりで。
 嬉しそうに、ほっとしたように微笑んだ顔は、相変わらずかわいかった。
「それじゃ、俺の車でいいよな? 一緒に行こうぜ」
「あ、はいっ……! お願いします」
 声をかけながら促し、駐車場まで一緒に戻る。
 まだまだほとんどの車が残っている、現在。
 当然小枝ちゃんの車もある。
「……きれいですね」
「ん?」
 運転席のドアを開けて荷物を後部座席へ置き、ドアに手を当てて彼女を見たとき。
 両手で鞄を持ちながらシルビアを見つめた葉山が、心底嬉しそうに笑った。
「……あー……。コレか」
 降りてから隣へ立つと、よくわかる。
 シルビアのフロントガラスには、ピンクと水色の雲が広がっていた。
 もう、6月も終わる。
 ……夏が来るんだ。
 何よりも、俺が好きな季節。
 夏の夕空特有のキレイな色合いを直接見上げると、ほんのわずかに瞳が細くなった。
「…………」
「…………」
 ――……あの日がなければ、こんなふうに一緒に居て特に何かを抱くようなこともなかっただろうに。
 ……それでも、もう戻れない。
 肩が触れそうな距離であろうと、そこから先、手を出すことは許されない。
 俺には……権利がないから。
「それじゃ、行くか」
「あ、はい」
 彼女を見下ろすと、俺を見上げてから小さく笑った。
 その笑みは、あの日海で見たのと同じような柔らかさで。
 つい、何も言えずに口を結ぶしかできなかった。

 国道沿いにある、ファミレス。
 この時間のせいか、平日だというのに車はかなり停まっていた。
「……あ。ありがとうございます」
「いや?」
 エンジンを切ってから降りようとしたとき、葉山が小さく頭を下げた。
 相変わらず、人がいいな。お前は。
 わずかに肩をすくめてから降り、小さく伸びをひとつ。
 今日の目的は、メシを食うことじゃない。
 ……なんて言ったら、コイツはどんな顔するだろうか。
 細かいところまで予測を立てずにきてしまい、不安半分てところか。
「鷹塚先生、このお店よく来るんですか?」
「あー……学生のころはよく来たな。安いし、まぁ食えるし」
 デカいっちゃデカいファミレス。
 だが、どっちかというと独りでこの手の店のメシを食うことは少ない。
 むしろ、独りで食うのがメインで作られてるような店のほうが足を運ぶ回数は圧倒的に多い。
 安くて、早くて、そこそこ。
 そんな、俺にとっては台所代わりのような店のほうが。
「あ。鷹塚先生!」
 店にある数段の階段を上りドアノブに手をかけたとき、不意に背中へ声がかかった。
 時間ぴったりだな、お前は。
 相変わらず、きちっとした性格なのは変わらないようだ。
「っ……杉原、君……」
 後ろを振り返って、驚いたように目を丸くした彼女。
 対する杉原も、同じように少しだけ緊張しているかのような面持ちだった。
「俺が呼んだんだ」
「……え……」
「相変わらず時間厳守だな、お前は」
「あざっす」
 スーツ姿のまま、小走りでこちらへ来た彼。
 にこにこというよりは、照れ隠しのようなそんな顔だ。
「……久しぶり」
「…………久しぶり……」
 葉山よりもずっと背の高い彼が、俺の隣へ並び、頭をかいてから彼女を見下ろした。
 初々しいというよりは、なんだか微妙な空気が漂う。
 ……でも、葉山にはコイツが杉原だってすぐにわかったんだな。
「…………」
 久しぶり、か。
 俺にはない時間を共有している、ふたり。
 そんなふたりが目の前で揃ったことに、なんともいえない気持ちになった。


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