「私っ……何もわかってなかったんです。ただ大人になればいいんだって思っていて。……いつまでも追いつけないのに、勝手にそう思い込んでたんです。……私が大人になれば、その分鷹塚先生もさらに大人になっていくのに……手の届かない人に変わりないのに……っ」
「…………」
「鷹塚先生と同じ時代に生まれたかった。……同僚になりたかった。そうしたら、私は……っ……先生に、チャンスを……貰えたのかもしれないのに」
 語尾が、すぅとしぼんだ。
 もしかしたら、口元に手を当てたのかもしれない。
 ……なんでだ。
 さっきからずっと、葉山は見えないのに泣いている顔しか想像できないのは。
 ――……あのときと、同じ。
 唇を噛み締めて小さな肩を震わせながら俺に精一杯の強がりを見せた、あの夜と。
「そうすれば鷹塚先生を……っ……先生を、苦しめないで済んだのかもしれないのに……! 私、も……っ……こんな、つらくな……っ……」
「葉山先生……」
「私……っ……全然ダメなんです。12年経ったら、自分が何してるか……浮かばない、んです。今までの12年、鷹塚先生とあったから。だから……っ」
 小さく聞こえ始める嗚咽。
 いつもと違うどころか、俺の前では決して見せなかった“弱さ”そのものだった。

「ひと回り先の未来にいる自分は……誰かのそばにいるでしょうか……っ」

 笑っているでしょうか。
 そんな痛切な言葉が聞こえ、思わず壁にもたれたまま目を閉じる。
 同時に喉が鳴り、鈍く痛みが走った。
 ……12年、か。
 アイツにとって、その時間はデカくて長かったんだろうか。
 俺にとっての12年は、振り返るだけで『早かった』と思ってしまえる時間でしかない。
 だから、12年先は――……正直、今と何も変わってないんじゃないかとすら思ってしまう。
 ……俺は進歩がないな。
 12年前と今、そして12年先。
 どの場所にいる俺も、全部同じ姿しか目に浮かばない。
「……いいわよ、泣いて」
「っ……」
「いっぱい泣きなさい」
 押し込められたような泣いている声のあとで、小枝ちゃんが強く言った。
 凛とした、張りのある声。
 彼女らしいモノで、思わず反射的に閉じていた目が開く。
「いいのよ。だって、あなたがんばったもの。ずっとずっと……がんばってたでしょ?」
「……え……?」
「泣かないようにって。ずっと我慢して、精一杯笑顔浮かべてたじゃない。心配されないように、気づかれないように……必死だったじゃない」
「っ……」
「だからいいのよ。泣きなさいよ、いっぱい! わかってるから! 私は、ちゃんと! 一生懸命だったの、知ってるから!」
「金谷せんせぇ……っ……」
「簡単に嫌いになれるワケないじゃない……! あんなヤツだって、ずっとずっと好きだったんでしょ? 誰よりも大切だったんでしょ? 自分よりも大好きで自分よりも大事な人だから、離れること選んだんでしょ?」
「ふ……っ……」
「もう!! どんだけいい子なのよあなたは! 自分だけが傷つけばイイって、そんなことばっかり思ってないで、ぶつければよかったのに! どうして私じゃダメなんですかって、聞いてやればよかったのに……!!」
「そんなことっ……! そんなのできません! だって……だってっ……先生、困るって……わかるから……! だから、そんなの――……」
「っ……もう!! だから、優しすぎるって言うのよ!! 自分だけつらい思いしてどうするの! そんなんじゃ……っ……そんなんじゃ何もならないじゃない……! こんなにがんばっても、誰も認めてくれないじゃない! ……わかってくれないじゃない……!!」
「いいんですっ……! それでもいいんです…………だって……っ……だって、好きだから……!」
「っ……!」
「……ずっとずっと、好きだから……っ!!」
 小枝ちゃんとは違う、涙声。
 ……俺に見せたことのない、顔。
 聞かせたことのない、声。
 ただただ聞こえてくる彼女の本音は、想像以上に素直でダイレクトだった。

 好きだから。

 だから、離れた。
 だから、引いた。
 俺が困ってると知っていたから。
 全部承知してたから。
 だから――……。
「ッ……」
 音として入ってくる、葉山が今、すぐそこでぼろぼろと泣いている事実。
 しゃくり声と、嗚咽と。
 ……そして、小枝ちゃんがあやす声。
 それらが絶え間なく聞こえてきて、たまらず口元へ手を当てる。
 最低だ、俺は。
 取り返しのつかないことをした。
 アイツは、俺のことしか考えてなかったのに、俺は真逆。
 俺は……自分のことしか何ひとつとして考えていなかった。
 自分の体裁を守るために。
 自分の過去の栄誉を守るために。
 ……アイツのことなんて、何ひとつ考えてなかったんだ。
 大事にしてなかった。
 傷つけるのが怖いとか、嫌われるのが怖いとか。
 したのは全部、言い訳ばかり。
 結局、自分が傷つくのが怖かっただけ。
 アイツの中にある昔の俺の姿すらも、守りたかっただけ。
 …………そうだよ。
 俺は、アイツじゃなくて自分をただ守りたかっただけなんだ。
 でも――……アイツは、違う。
 俺のために、自分を傷つけた。
 そこまでして、俺を護ってくれた。
 なのに――……。
「………………」
 ……最低だ。
 俺は何をした。
 アイツに、何をしたんだ。
 ……もう、戻れないとわかっているのに。
 なのに『もしもあのときに戻れたら』なんて考えてる俺がいる。
 “あのとき”は二度とやって来ない。
 永遠に。
 …………これは、絶対だ。

 結局、しばらくの間そこから離れることはできなかった。
 そのせいか、ずっと聞こえていた葉山の涙声が耳から離れなくなった。
 ……自業自得。
 いや、敢えてそうしたんだ。
 俺は何ひとつ傷つかなかった。
 なのに、アイツは全部ひとりで抱きしめて傷ついた。
 ……俺が傷つけたんだ。
 ほかでもない、俺が泣かせてるんだ。
 それらすべてを今さらながらに自覚させて、生涯忘れられなくするために。


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