「…………」
 5時間目の国語は、子どもたちに指摘されるミスがあった。
 教科書の読み間違いも多く、『先生どうしたの?』と言われることも多かった。
 ……どうした、か。
 ホント、何してんだろうな。俺は。
 教師としてというよりも、人として最低なことを繰り返してしまった。
 職員室に戻ってきた放課後の今も、ミスがないかといえば嘘。
 まったく仕事に身が入らず、子どもたちに書かせた夏休みの目標と予定を読み返してとっとと返さなきゃいけないのに、まだ1枚も読めていない。
 ……ただ、喉の痛みは午前中よりも少しひどくなっているように思えた。
「ちょっといい?」
「…………」
 ため息をついて椅子にもたれたとき、小枝ちゃんがすぐここまで来た。
 俺を見下ろし、無言でくるりと歩き出す。
 向かう先は、ドア。
 それは『付いてきなさいよ』という彼女ならではの素振りで、ドアから保健室方向へ向かったのを見て仕方なく立ち上がる。
 ……小枝ちゃんがこうするのは、ひとつしか理由なんてない。
 言うまでもなく、さっきの葉山のこと。
 俺が聞いてたのを彼女は知らないだろうが、それでもあんなふうに泣きつかれたら俺に言わずにはいられないんだろう。
 世話焼きで優しい、姉御肌。
 それが……俺の知ってる彼女だから。
「…………」
 保健室へ向かうとき、相談室を見るとドアが閉まっていた。
 ……誰かがいるんだろう。
 何を言ってるのかまではわからないが、ぼそぼそという話し声が聞こえる。
 それでも、ドアが閉まっていたとき少しだけほっとした自分に腹が立った。
 ヤなヤツ。
 ホント、どうしようもねぇな。
「どうぞ」
 一応のノックのあとでドアを開けると、こちらも見ずに小枝ちゃんが応えた。
 誰もいないベッドのカーテンを束ね、簡単にベッドを直してからこちらへ戻って来る。
 その顔は依然厳しく、本気のときの彼女が見せる表情そのものだった。
「葉山先生に何したの?」
 手近にあったパイプ椅子を引いたところで、小枝ちゃんが腕を組んで俺を見た。
「何って……それじゃまるで俺が何かしたって確信があるみたいな言い方だな」
「あるから言ってるんでしょ。……何したの? あの子に。今度は何?」
 ……今度、ね。
 そういや、前もこんなふうに小枝ちゃんに言われたことあったっけな。
 アレは飲み会でのことか。
 あんときは、こんなふうに呼ばれたものの、『なんとかする』つったんだったな。
 ……約束違反、か。
 だから小枝ちゃんがここまで怒ってるんだろう。
「言ったわよね、私。どっちつかずが1番嫌いって」
「ああ」
「あのときも言ったのに、また同じことしたのね。あなた」
 前回はまだ、許してくれる余地がある眼差しだった。
 ……だが、今は皆無。
 まったく入り込む余地がなく、すべて突っぱねられる状況。
 …………無理だな。
 アイツをあそこまで追い込んだんだ。
 それを、小枝ちゃんはわかってる。
 泣かせたってことを、目の当たりにしてる。
 悪いのは俺。100%。
 今回ばかりは、もう確実にアウトだ。
「…………」
 それでも、別に今さらどうにかしようとも思わないし、どうにかできるとも思っていない。
 ……もう、無理なんだ。
 アイツの場所に戻ることはできない。
 引き返さないと決めた。
 だからあのとき入ったホテルで、無理矢理にもどうにかできなかったんだから。
「アイツにとって、このほうがイイんだ」
「……何?」
「よかったんだよ、これで。……だいたい、アイツが決めることだし、決めたことだ」
 まっすぐ目を見て呟いた途端、彼女の表情が明らかに変わった。
 ギリ、と歯を噛み締めたのがわかったが、どうしようもなかった。
「ッ……いい加減にしなさいよ……!! だから年取ったって言うのよ! 昔だったら、欲しいものは自分で獲りに行ったじゃない! なのに何? アイツアイツ、って。全部彼女に任せるの? 全部押し付けるの!?」
「……別にそういうワケじゃない」
「そういうワケでしょ!! アイツが決めること? 違うじゃない! 彼女はもうとっくに答え出して、決めたんでしょ!? 好きだって言ったんでしょ? あなたに! っ……なのに、どうして答えてあげないのよ! どうしてほったらかしにしたのよ!!」
「……俺は……」
「好きだって言ったの? それとも、嫌い? そんなふうに見てない? たとえ彼女に応えてやるだけの気持ちがないにしても、ちゃんと言ってあげて彼女を解放してあげなきゃ苦しむのよ!? ずっとずっと、囚われたままなのよ!?」
「っ……」
 すべてが正論。
 ……彼女の言い分が正しい。
 そうにしか聞こえない、だから逃れられない。
 俺がしたことは、間違っていたし卑怯でしかなかった。
 それは十分に自覚している。
「……それとも何? 手を離してしまうのは惜しいから、言わないでおくつもりだったの?」
「そんなんじゃない」
「じゃあ何?」
「…………」
 小枝ちゃんはどこまで知ってるんだ。
 ……さっきのことで、アイツが自分から離れたことも知ってるはずだ。
 だが、それは本心じゃなかったことも当然知ってる。
 …………もっと、ほかの何かも知ってるのか?
 俺の知らない場所でされている、ふたりきりの会話の中で。
「……そんなふざけたことしてるなら、彼女。私が取りあげるわ」
「取りあげる?」
「ええ。あの子は、あなたのおもちゃじゃない。物じゃないのよ、彼女は。ひとりの人間なの。子どもなんかじゃない、立派に成人した社会人なんだから」
 す、と瞳を細めた彼女が、組んでいた腕を解いてこちらに背を向けた。
 机の上にあった書類を整理しながら、小さくため息をつく。
 ……取りあげる、ね。
 よっぽどその言葉のほうがモノ扱いだとは思うが、今ここでそれを言って喧嘩しても仕方ない。
 別に、小枝ちゃんとそんなことをするのが目的なんかじゃないんだから。
「男でも紹介するってことか?」
「……あのね」
 ふ、と頭に浮かんだ言葉をそのまま呟くと、呆れたというよりは怒気の混じった声でこちらを振り返った。
 無論、眼差しは一層厳しく冷ややか。
 ……まぁそうだろうなとは思った。
 馬鹿だ、俺も。
 そんなこと口走んなきゃいいのに。
「好きな男諦めたばっかの子にほかの男紹介したりしないわよ。馬鹿じゃないの?」
「っ……」
「そんなひどいこと、するワケないじゃない」
「………………」
「……何? 急に黙って」
「…………別に」
 言えるワケがない。口が裂けても。
 ――……馬鹿なことをした。やらかした。
 アイツが泣いてるのは、俺のせい。
 それを小枝ちゃんがどこまで知ってるかわからないが、彼女にぶっちゃけられ、改めてとんでもないことをしたんだと自覚する。
「あなたみたいな男だって、彼女にとっては何よりも最高の男だったの。私からしたら、すっごいズルくてヤなヤツだけど」
「……悪かったな」
「悪いわよ。最悪ね。だいたい、前言ったわよね私。煮え切らないのが1番嫌いだって。……それなのに、よくもやってくれたじゃない。彼女の気持ち一切無視して」
 ひらひら手を振ったかと思いきや、彼女が身体ごとこちらへ向き直った。
 その目は相変わらず冷静で、厳しくて。
 俺を批難しているんだと、明らかによくわかる。
「恩師失格。担任失格よ、鷹塚君。大事な教え子……しかも最初に持った教え子を目いっぱい傷つけてぐちゃぐちゃにして、どう責任取るつもり?」
「…………」
「だいたい、最初からわかってたんじゃないの? あの子の気持ち」
「……それは……」
「最低……ッ!」
 ぽつりと呟いてしまった途端、吐き捨てるかのように小枝ちゃんが言い切った。
 氷点下の言葉。
 だが、当然何も言い返すことはできない。
「お前とは付き合えない。悪いな、お前をそんなふうに見てない。……どうしてひとことそう言ってやらなかったのよ」
「…………そうだな」
「そうだな、じゃないわよ。……最低ね。男として、1番しちゃいけないことしたんだから」
 くるりとこちらに背を向けた彼女が、再び書類の整理を始めた。
 カサカサと響く紙の音に混じって聞こえる、大きなため息。
 ……そうだよな。
 もっと早く、わかった時点で言ってやればよかったんだ。
 なのに、それをしなかった。
 わかっていたのに、あえてそれをしなかったのは――……俺の弱さでありズルさ。
 アイツを自分だけのモノにしたいと思ってしまった、俺の中にある浅はかな男の部分。
「覚悟しなさい」
「……何?」
「彼女に、もう二度とあなたの手が届かないようにしてやるから」
 ため息をついてから立ち上がり、ドアへ向かったとき。
 小枝ちゃんがハッキリと言い切った。
 顔だけでそちらを見ると、同じように顔だけをこちらに向けている彼女。
 だが目が合った途端、口角を上げて小さく笑った。
「取りあげるって言ったでしょ? ……もう、確実ね。絶対に戻らないわよ。あの子」
 ……まるで、宣戦布告だな。
 正面きっての、彼女らしいモノ。
 だが、俺の答えなんてひとつ。
 これは変わりようがない。
「ああ、そうか。……わかった」
 まっすぐ見つめての、セリフ。
 それを言い切った途端、彼女がフンと鼻で笑ったような気がした。


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