「ホントはさ……夜が来るの、すごく怖いんだ」
 ドアへもたれながら呟いた言葉は、なんだかあまりにも儚く聞こえた。
 ……その、姿もそう。
 まるでこのまま――……消え入ってしまうような、弱さがある。
「…………」
 そんな彼を見ていたら、これまでの元気はかりそめのようで。
 少しだけ。
 ……ほんの少しだけ、不安を覚えた。

「俺は、一度尽きてるから」

「っ……」
「……だから……いつ、どうなっても……おかしくないから」
 なんで、そんなに儚く笑うんだろう。
 さっきまでの強気な態度はどこへ行ったのよ。
 ……カラ元気だとでも言うの?
 私とは違って笑顔を見せている彼に、眉が寄る。
「こんな姿になれたのはさ、きっと神様の気まぐれなんだと思うんだ。……偶然っていうか……だから、そう長くはないと思う」
「っ……なんで……なんでそんなこと言うのよ……!」
「ごめん、美空。でも……ホントのことだから」
 なんで……!
 どうして、そんなふうに笑うの?
 『さよなら』はないけれど、しっかりと別れを告げられてる。
 そう思ったら、悔しくなった。
 ……だって……相手は、ツカサ(猫)かもしれないんだよ?
 例え真実は違うとしても、彼はそのつもりで告げてる。
 それは、ツカサに言われてるのと同じだ。
 面と向かって、『長くない』だなんて……聞きたくもない言葉を。
「ミサンガが切れたから、なんていうのはさ……所詮こじつけでしかないんだよ。きっと、結局は……俺の思いが強かったっていうか……未練があった、っていうか。きっとさ、ミケ婆もそうだと思うんだ。……強く、ここに残りたいのにって……思ったと思う」
 ふっと遠くを見つめたその眼差しには、もしかしたら、私には見えない何かが見えていたのかもしれない。
 ……強い何か。
 未練。
 そう呟かれるたびに、『尽きたとき』の姿が目に浮かぶようで、自然と瞼を閉じていた。
「今日眠って、だけど明日ちゃんと目が開くかどうかは、俺にもわからない」
「……っ……」
「だから……夜は怖い。眠るのが、怖い。……だって、朝起きたらそのまま――」
「っ……やめて……!!」
 凛とした声が、部屋に響いた。
 言ってることはわかる。
 もしかしたら、今のこの姿こそが『かりそめ』だと言いたいのも。
 ……だけど、やめて。
 なんだかんだ言いながらも、彼の話を聞いていて、『嫌だ』と拒絶する自分が居る。
 彼は、猫なんかじゃなかったかもしれない。
 だけど、もしかしたらそうだったんじゃないかと思い始めてる自分も居るから。
「……もう……やめてよ」
 両手で頭を押さえながら瞳を開けると、大粒の涙がぼろぼろと零れた。
 嗚咽があがらないだけ、まだマシ。
 でも、彼は驚いたように目を見張り、身体を硬くした。
「…………ツカサ…」
 涙でぼやけたからだろうか。
 ふと、彼の名を口にしていた。
 その先にあるのは、昔、ツカサと一緒に遊んだ風景。
 子猫のころから、ずっと一緒だった。
 おじいちゃん猫になっても、なお。
 つい最近は、それこそ日なたでゴロゴロしてることが多くて。
 うつらうつらと、眠っている時間も長かった。
 ……でも、そんなときはすごくすごく幸せそうで。
 隣に座って頭を撫でてやると、嬉しそうに瞳を閉じたまま手のひらに擦り寄ってくれた。
「……え……?」
 ふと、膝に温かい感触があった。
 そのまま視線を落とし、涙を拭う。
「……泣かないで。美空」
「……っ……」
 ――……ああ、そうだ。
 そういえば、私がツカサの前で泣くと、いつもこうして心配そうな顔してた。
 まるで、今彼が言ったような言葉をかけてくれてるような眼差しで。

「……おいで」

 彼の髪を撫でると同時に、そんな言葉が漏れた。
 昔もよく、こうして呼んだっけ。
 言うとすぐ膝に乗って、丸くなって。
 ……でも今じゃ、それはできないけれど。
「美空……」
「……ツカサ……。……ありがとね」
 膝に置かれた手。
 その手を握ってから、きゅっと首へ腕を回して抱きしめる。
 ……ツカサ。
 確かに、どこかツカサみたいな匂いがするかな。
 シャンプーが嫌いで、だけどブラッシングは好きで。
 撫でてあげてると、そのまま寝ちゃうこともあった。
 ……もしかしたら、寝てるふりだったのかもしれない。
 でも、すごく嬉しそうな顔をしてくれた。
「ありがとう、ツカサ。……こうして、人の姿になってまで……私のそばに居てくれて……」
「……美空……」
「この姿になってまでしなきゃいけない何かがあったんだよね……? ……繋ぎ止める、何かが……」
 いつしか、涙声になっていた。
 でも、ツカサは黙って私に抱きしめられたまま。
 ……温かいな。
 懐かしさで、瞳が閉じる。
 …………なのに。
「ごめんね……っ」
「……え……?」
「ごめん……ひとりきりで……っ……つらい思い、させて……!」
 情景が、はっきりと目に浮かんだ。
 彼があそこに居たということは、そこで――……ツカサが。
 ……そう思うと、やっぱりつらかった。
 いつも、独りになるたびに誰かを呼んでいたツカサ。
 ひとりじゃいられなくて、いつもそばに誰かがいなきゃダメだったツカサ。
 人懐っこくて、お父さんのお店の看板猫とも言われてた。
 ……来るお客さんにも、沢山愛された。
 そんなツカサが――……。
「……ごめっ……ごめんね……寂しかったよね……っ……怖かったよね……!」
「美空……」
 いつしかしゃくりが上がり始め、たまらず顔に手を当てていた。
 涙がとめどなく溢れ、肩が震える。
 どれほど怖かっただろう。
 怖がりで、寂しがりやで、甘えん坊だったのに。
 ……それなのに、どうして最後の最後だけ、強がったりするの?
 普段と同じだったのに、決意を持って外に出たのかと思うと、やっぱりつらい。
 だって……。

 だって――……最後にドアを開けたのは、紛れもなく私だから。

「っ……つか……さ……」
「……泣かないで……」
 ひたり、と温かな手のひらが頬に当たった。
 驚いて瞳を開けると、すぐそこには……今にも泣きそうな、ツカサの顔。
「……美空……?」
 ……やだ……。
 やだなぁ、もぉ。
 なんでそんなに、猫のときと一緒なの?
 一緒になって泣きそうになんて、ならなくてもいいのに。
「っ……え……」
「…………」
 ふと、昔を思い出して笑みを浮かべた瞬間。
 ツカサがわずかに動いて……私の頬を少し舐めた。
「っ……」
「……ダメ?」
 どう答えたらいいの?
 おずおずと私の顔を覗き、また怒られるんじゃないかとおどおどしてる顔。
 ……やだ……。
 ホントに、ツカサなんだね。
 昔もよく、こうして慰めてくれたっけ。
「え……? ……美空……?」
 思い出したら、少しだけおかしかった。
 だって、ツカサと同じなのにツカサと同じじゃないんだもん。
 驚いた顔の彼に首を振り、もう一度頭を撫でてやる。
「……ザラザラしてないんだね、やっぱり」
 当然だけど、このツカサは人間なんだ。
 誰にされたこともなかったことを、まさかツカサにされるなんて。
 びっくりしたけど……でも、なんだか少しだけほっとしたような気もした。


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