テンポのいいリズムで刻まれる包丁の音。
この部屋にそんな音が響くとは思ってもなかった。
それだけじゃない。
リビングに漂う、米の炊ける匂いもそうだ。
すべてにおいて、懐かしさがこみあげてくる。
――……と言っても、実家にいたころの話なので、もうずいぶんと前になるが。
まさか、自分が一緒に住みたいと思う子が現れるとは思ってもいなかった。
ひとり暮らしの気ままさを十分に理解していたからこそ、誰かに制約されたり、気にしたり……と、気を遣うのが嫌だった。
だから、今まで付き合った彼女も部屋にはあげなかったし、実家にも連れていった覚えはない。
友人が泊まりにくることも、そういえばほとんどなかったと思う。
ひとり暮らしは自由である代わりに、すべてにおいて自己責任がつきまとうのだが、それでも、自分にとっては気楽であることに変わりなかった。
朝起きるのも、夜寝るのも、休みの日の過ごし方も、食事も、酒も。
何もかも、自分の思うようにできる。
だが、誰かと一緒に住むとなると、そうはいかない。
あれこれ口を出されるだろうし、何よりも相手に気を遣うことになるだろう。
自分の思い通りにならない点。
それが嫌だというのはやはり我侭である証拠だとは思うが、だったらひとりで住む。
それを今まで突き通してきた。
……それが……。
「…………」
ふとキッチンに目を向けると、シンクの前に立ってなにやら一生懸命に作業している彼女が見えた。
そんな彼女を、微笑んで見ている自分がいる。
大学時代は、人……というよりは、女性を引き付けるタイプでなかった。
男子校を出たということもあって男同士でつるんでいるほうが気楽だったし、別に自分から求めようとも思わなかった。
女性に対して、愛想を振りまくなど持っての外。
どちらかというと不器用だし、先日別れを切り出した彼女と付き合っているときもこんな風に笑ったりしなかった。
……それが、どうだ。
決して惹かれることはないと思っていた、年下の――……しかも自分の教え子に、心底惚れてしまった。
自分が丸くなったのは、恐らく彼女に会ってからだろう。
年下だからこそ優しくできるといえばそうかもしれないが、何よりも彼女がかわいくて仕方がない。
高校時代の自分を知っている友人に会ったら、さぞかし驚かれるだろうな。
そして、えらく笑われるだろう。
孝之とつるんであれこれ悪いことばかりしてきた自分が、今ではすっかり好青年を装えている。
喧嘩もせず、煙草も吸わず、女遊びなど、もっての外。
ましてや、かわいい彼女ひとりを大事にして、優しく笑っているのだから。
「…………」
……そういえば、まだ怒ったことなかったな。
ふとパソコンの論文を読みながら、顎に手をやる。
高校時代、大学時代、どちらかというと口よりも手が先に出ていたせいか、ふとそんなことを感じる。
今でも、男には容赦ないと思うが、それでも昔ほどではなかった。
数学の山本に対しても、胸倉を掴んだだけで済ませるとは。
……昔の俺だったら、何も言わずに殴ってたかもしれない。
いや、あれはむしろ孝之の悪い影響あってか。
……などと、いろいろなことを考えながら、キーボードを打ち始める。
昔から怒鳴り散らすタイプではなかったものの、顔にはすぐに出る。
今でも、孝之に対して出ることはあったが、それでも昔の自分に比べればおとなしいものだ。
……羽織ちゃんは、俺を怒らせるようなことしないからな。
別に、何かとんでもない失敗をしても、恐らく今の自分ならば怒らないだろうし。
……浮気……。
そもそも、彼女がそんなことをするとは思えないが、まぁ、キツく問い詰めることもしないだろう。
もしかして、俺は……随分と甘いのか?
ふとそんなことが浮かび、手が止まる。
「……」
ちらりと彼女を見ると、やはり相変わらず真面目な顔つきでせかせかと動いていた。
……でも、あの子見てたら甘くもなるよな。
そんなことを考えていたら、ふっと視線が合ってしまった。
「なんですか?」
「あぁ、いや。なんでもない」
「……? もぅ、気になるじゃないですか」
「ごめん」
苦笑を浮かべて顔を逸らすと、また心地いいリズムが刻まれ始めた。
……なんというか。
彼女は、今まで自分が会った中でもっとも純粋なのではないかと思う。
そして、いらぬことを知らない。
だからこそ、ある意味俗世間にまみれていないというか……。
先日の旅行でスワッピングの意味を聞かれたときはさすがに焦ったが、知っているよりはずっとマシ。
彼女には、そういうことを知らないままでいてもらいたい。
って、少し父親っぽいな、俺は。
ふと手を止めて苦笑を浮かべてから、またキーボードに向かう。
ともかく、自分は彼女にずいぶんと惚れてしまっている。
もちろん、身体もまた然り。
自分にとって、何もかもが今までにないほどの最高の女性。
そんな相手を見つけることができた自分は、本当に幸せだと思う。
先ほどの母との電話でも言われたが、そのうち彼女を実家に連れて行こうかと思う。
それは前から思っていたのだが、ずいぶんと母も気になっているようだったし。
……まぁそうだろうな。
彼女に、飯作ってもらってるなんて言ったら。
もし彼女が、俺と同じ七ヶ瀬大学に受かったとしたら、それこそ紗那と涼にも会わせておかなければならないし。
……しかし、まさかあのふたりより年下の子を彼女に選ぶとは。
いつも頼りにしてきて、自分でやろうとしなかった紗那。
何かと自分と比べては文句を言いながら、羨ましがる涼。
だからこそ、年下はあり得ないと思っていたのだが……。
「…………」
まぁ、あの子はふたりのどちらとも似てないからいいんだけど。
紗那と似ているといっても、雰囲気だけだし。
むしろ、羽織ちゃんは紗那と違って、自分でなんでもやりたがる。
そして、自分のことよりも周りに気を遣う。
どちらかというと、彼女には甘えてほしいし、もっと頼りにしてもらいたいのだが……。
……これも、今までの自分とは違うところだな。
頼らずに、自分のことは自分で。
そんなふうに言っていたころが、懐かしい。
大学時代、女性に対しても同じような姿勢だった。
それが根底にあるからか、羽織ちゃんに対しては結構厳しく責める節がある。
責めると言っても責任を追及するほうではなく……あちらのほうで、だが。
どうしても、一度彼女に触れるとなかなか離せなくなっていた。
むしろ、あれこれしてみて反応がみたいという気持ちがあったりして。
これまで付き合ってきた彼女にはなかったが、羽織ちゃんに対してはその気持ちが強くある。
つまり、彼女にだけ出るS気質。
……ずいぶん、都合のいい性質だ。
なんてことを考えながらパソコンに向かっていると、電子的なメロディーが響いた。
キッチンに目をやると、彼女が嬉しそうにしゃもじで炊飯器の米を混ぜているのが目に入る。
しかし、つくづく主婦っぽく見えてくるな。
買い物もそうだし、料理もそうだし。
彼女のことだから、掃除や洗濯もそうだろう。
……いいね、幼な妻みたいで。
などと考えていたら、自然に顔がにやけた。
そうなると、妄想というものは結構膨らむもので、あれこれ考えてしまう。
……。
……うん。悪くない。
いや、むしろ願ったり叶ったりというか……だったら、いっその事――……。
「うわっ!?」
しばらくキーボードから手を離して椅子にもたれていたら、ひょっこりと目の前に彼女が顔を出した。
「もぅ。何考えてたんですか?」
何も知らない彼女が、くすっと笑った。
……い、いきなり何かと思った。
あらぬ方向へ思考をはせていたなどと言えるはずもなく、小さく咳払いしてから肩をすくめる。
「まぁ……ちょっとね」
「っ……なんだか、先生の『ちょっと』は……えっちなことですか?」
「まさか。それとも、そういうこと考えてて欲しかった?」
「っ……! 違いますっ」
にやり、と瞳を細めて彼女を見ると、頬を赤らめながらふるふると首を横に振った。
相変わらず、かわいい子だ。
反応がかわいいからこそ、ついつい色んなことを言ってみたくなる。
「……で。俺が考えそうなえっちなことって、たとえば?」
「え」
「ん? 何?」
ふと思ったこと口にすると、瞳を丸くしてから喉を鳴らした。
こうなってしまえば、こっちのもの。
一気に形勢逆転といきたいところ。
「……な……なんでもないです」
「そう? いいんだよ、別に。言いたいことはハッキリと」
「っ……い、いいのっ! なんでもないんですってば! ごはんにしましょっ」
「はいはい」
慌てたようにキッチンへ逃げ込んだ彼女の姿に小さく笑ってから、パソコンの電源を落とす。
やっぱり、彼女にだけ出るな。
意地の悪い部分が見え隠れするものの、彼女のかわいい反応はやっぱりイイわけで。
立ち上がって彼女のあとを追い、微力ながらも手伝うことにした。
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