「――から、それは……いや、違うって」
耳に入った瀬尋先生の声で、心臓が跳ねた。
そっと近づき、物陰からのぞ……って、すごい怪しいけどね。
ちらりと見えたうしろ姿は、彼に間違いない。
左手を耳に当ててるし、電話してるんじゃないかな。
「だから、そうじゃなくて……ッ……悪い、あとでかけ直す」
「……?」
ふいに目へ手を当てたかと思うと、彼が突然電話を切ってしまった。
少しだけうつむき、目をこするような仕草を見て、つい足が向く。
だって、あれ……私知ってる。
ああいう素振りする理由は、ひとつ。
泣いたときにする仕草、だもん。
「……先生?」
「っ……」
小さく声をかけると、弾かれるように肩を震わせた彼が……ゆっくり振り向いた。
――泣いているかのような、赤い瞳で。
「……羽織ちゃん……?」
「瀬尋先生……! どう、したんですか?」
近づいた足が、ぴたりと止まる。
眼鏡を外しているのを見るのは、初めて。
それもあって目が離せなかったけれど、少し……ううん、全然違う。
だって、目元が濡れてるんだもん。
赤い瞳からして、やっぱり……泣いて、いるんだ。
そうわかった途端、さぁっと血の気が引いた。
電話。
そして……涙した、事実。
「……っ」
「! 羽織ちゃん……!?」
合致した答えに、ぽろりと涙がこぼれて慌てて拭う。
もしかしたら、悔しかったのもあったのかもしれない。
と同時に、敵わないなと思った。
だって、彼の涙の理由が“彼女”だと思ったら、どうしようもない気持ちでいっぱいになった。
「……羽織ちゃん……? どうした?」
「っ……」
歩み寄ってきた彼に、ただただうつむいて首を振ることしかできない。
だけど、頬を伝う涙はいっこうに止まってはくれなかった。
「……とにかく、こっちへ」
そっと肩に手を当てられて、私たちの部屋じゃない方向へ促された。
ドアの前で止まった彼が、鍵を開ける。
ああ、先生の部屋ここだったんだ。
そうわかったからこそーー入るわけにいかない。
「瀬尋先生、どうして……? 大切な人なくしてもいいの?」
「……え?」
「だって……! だって、さっきの電話……! どうして途中で切っちゃったんですか? ちゃんと最後まで話しをしなくていいんですか?」
「どういうこと……?」
「大切な人なんですよね? なのに……っ」
私は何を言ってるんだろう。
大それたこと、どころの話じゃない。
でも、後悔してほしくなかった。
だってーー好きな人、なんだもん。
自然消滅と言っていたけれど、瀬尋先生にとって彼女は、そうじゃないってことでしょ?
いざ話をしてみたら、そうじゃなかったって気づいたんでしょ?
だから、泣いたんじゃないの?
だったら……ううん。
だからこそ、私が入るわけにいかない。
彼には、大切な人がいるんだから。
「行動しなきゃ、大事なものなくしちゃいますよ」
不相応なことを言っているのは、わかってる。
でも、すごく羨ましかったと同時に、悔しかった。
彼にそこまで想われている彼女のことが。
そして……見たこともない相手に嫉妬して、泣いて、ただただ彼を困らせるしかできない自分が。
「っ……」
言い終えると同時に、きびすを返す。
あんなこと、言うつもりじゃなかった。
『そんな彼女と別れちゃえばいいのに』なんて言えたら、どれだけよかっただろう。
……でも、彼の顔を見た途端、その言葉を飲み込んだ。
言えないよね。
涙するほど悩んでるんだよ?
なら、後悔しないように動いてほしいって思うじゃない。
だって……好きなんだもん。
自分たちの部屋まで戻り、オートロックじゃないこともあってドアノブを握ると、あっさり開いた。
「あ、おかえーー……羽織? どうしたの?」
ちょうど目の前に、絵里がいた。
歯を磨いているらしく、歯ブラシを持ったまま……だけど私の顔を見てすぐ気付いてくれる。
「ちょっと、どうしたの? 何かあった?」
「ふ……」
「っ……羽織?」
察してくれた彼女は、小さな声で対応してくれながら洗面所へ促す。
「私……どうすればよかったんだろ……」
「え?」
「だって……ふぇ……」
「ちょ、どうしたのよ……!」
本当に、どうすればよかったんだろう。
絵里に抱きついたまま泣くしかできず、ふるふると首を振る。
彼の中の彼女の存在の大きさに、まったくもって太刀打ちできなかった。
でも、当然だよね。
だって……彼が好きになった人なんだもん。
ああ、あのときと一緒だ。
好きな人には好きな人がいて、振り向いてもらえるはずないのに期待した。
先生を好きになって、期待して、馬鹿みたい。
だって、彼が優しいのは私が特別だからじゃない。
友達の妹で、自分のクラスの生徒だから、優しくされただけなのに。
それに気づけなかった私は、もしかしたらって勝手にひとりで盛り上がってただけ。
こうなるってわかってたのに……気づかないふりをしてた。
「なんでこうなっちゃったのかな……」
もっと早く気付けばよかったのかな。
でも……本当はわかってたのに、知らないふりしてただけかもしれない。
だって、楽しかったの。嬉しかったの。
久しぶりに誰かを好きになることができて、どきどきする時間がしあわせだった。
叶わなくてもよかったーーなんてまとめることはまだできないけれど、いつか、そう思えるようになるかな。
何も言わず、背中を叩いてくれている絵里に回した腕へ、力がこもった。
「それじゃあ、ここから自由参拝にするから、各自でしっかり見てきなさいね」
「はーい」
清水寺の大舞台。
そこで声を上げた日永先生は、ひらひらと手を振った。
よく晴れた本日。
参拝するにはもってこいの天気で、青い空を見ながら……笑顔ではなく、ついため息が漏れる。
「さ、行くわよ!」
「っわ!」
ぐいっと絵里が腕を引き、そっちへと引っ張られた。
……かと思いきや清水の舞台から下を眺め、きゃーきゃー言いながら笑う。
ああ、ありがとね。
心配かけてることがわかって、情けなくもあり……でも嬉しい。
「大丈夫だよ?」
「何が」
「え? えっと……私?」
歩きながらつぶやいたのに、絵里は怪訝そうな顔をした。
え、変なこと言ったかな。
でも、どうやら変なことだったらしい。
「何も聞いてないのに大丈夫って言い出したら、全然だいじょばない証拠でしょ?」
「そうなの?」
「そーよ、まったく」
……そっか。でも、そうかも。
なんて思ったら笑いが漏れて、その顔を見た絵里も同じように笑った。
「あ、そうだ。まずは水飲みに行きましょ」
「水?」
「ほら、願いが叶う水よ。あんたはとりあえず、ご利益あるように恋愛だけ吸収しなさい!」
「わっ!?」
きゅっと手を握った絵里が駆け出し、トントンと軽快に階段を下り始める。
――結局、昨日何があったのかはきちんと彼女に話した。
それを聞き終わったあと、絵里はどちらの肩を持つでもなく、ただただ頭を撫でてくれただけだった。
たったひとこと、『アンタ、がんばったわね』って笑いながら。
何も言わなくても、わかりあえる仲。
そんな関係を、今までずっと続けてきたけれど、それは彼女が私をわかってくれていたから成り立っていたんだなと思う。
「いい恋見つけるわよ!」
「……ん!」
水飲み場にたどり着いてすぐ、持った杓で恋愛の滝の水を注ぎ始める。
「いっぱい飲みなさーい!」
「あはは。イイ恋ができますようにー!」
「よーし、その意気!」
「あれ。絵里も飲むの?」
「当たり前でしょ。とりあえず飲んどくわよ」
「もぅ。ちゃんと優しい彼がいるじゃない」
「それはそれ。これはこれ」
割と真剣な顔で言われ、苦笑が漏れる。
予想より冷たくて、おいしい。
もしかしたら単純に喉が渇いてたのかもしれないけど、互いに2杯ほど飲み干し、それぞれ杓に3杯目を注ぐ。
――と。
「え?」
「あのねぇ……あんたたち」
その様子を見ていたらしい日永先生がにっこり笑って近づいてくると、うしろから私たちの肩を抱くようにつかんだ。
「飲みすぎると成就しないわよ?」
「え!?」
「やば!」
絵里と同時に彼女を見ると、ニヤリと笑ったのが見えた。
……ので、ふたりそろって杓を日永先生に手渡す。
「あっ!? ちょ、ちょっと! あんたたち!?」
「先生飲んどいて!」
「お願いします!」
もちろん、それで慌てたのは日永先生本人。
だけど、彼女が何か言おうとするよりも早く、絵里と逃げるべく駆け出す。
「あとは先生引き受けてー!」
「こらー! ダメでしょー!!」
「ごめんなさーい!」
杓を振りあげる彼女にきゃーきゃー言いながら逃げ出すと、清水の坂の手前まで走っていた。
そこでようやく顔を見合わせ、大きく深呼吸を繰り返す。
途端、どちらともなく笑いが起きた。
「はー、はー、あー疲れたぁー」
「あはは、もう走れないー」
笑いながら声をあげると、絵里はいつもみたいに笑った。
その顔を見ることができて、ようやく自分もほっとする。
「絵里、ありがと」
「なんにもしてないわよー」
あははと笑いながら歩き始めると、絵里は何も言わずに私の頭を撫でた。
「ふたりとも元気だなー」
「あら」
声をかけてきたのは、田代先生。
私とは逆順で、ぐるりと回ってきたらしい。
「若さアピールか、お前」
「あのね。喧嘩売ってないから、別に」
「もぅ、先生だって若いじゃないですか」
「あはは。ありがとう、羽織ちゃん」
はーとため息をついた絵里に、田代先生が苦笑した。
仲いいなぁ、ふたりとも。
やりとりは知っているけれど、今日はまた雰囲気が違う気もしてなんだか楽しかった。
「羽織ちゃん、ちょっとだけコイツ借りてもいい?」
「え? もちろん、いいですよ」
「は? いやいやいや、今日は私羽織と――」
「いいのっ。ほら、行っておいでよ」
「あ、ちょっ……!」
戸惑う絵里の背中をぎゅっと押して彼に預け、にっこり笑って手を振る。
きっと、こうして時間を作るために田代先生はいろんな調整をしたはず。
せっかく一緒にいられる時間ができたんだもん、自分が邪魔するなんてとんでもない。
「もぅ。私のことは気にしないで。近くでお土産見てるから、ゆっくり行ってきてくださいね」
「羽織……」
「ありがとう、羽織ちゃん」
少し困ったような顔を絵里がしたけれど、ひらひら手を振るのを見て観念したのか、田代先生と顔を合わせてから『ありがとう』と呟いた。
それを見て、こちらも笑みが漏れる。
「じゃあ、ちょっとだけ行ってくるから」
「ゆっくりでいいったらー」
ふたり仲良く本殿のほうへ歩いて行ったのを見ながら、自然と笑みが浮かんだ。
あっちだと……縁結びの神社とか、かな。
絵里ってば、田代先生にあれだけ大切に思われてるんだもん、お水飲んでる場合じゃないでしょ。
あのときの顔が目に浮かび、ちょっぴりおかしくて笑ってしまう。
「んー……何かあるかなぁ」
お土産屋さんが並ぶ坂をゆっくりと下りながら進む。
お母さんは漬物だったっけ。
お兄ちゃんは……えー、お兄ちゃんにも買ってかなきゃダメ?
京都へ行くことを話したとき、別に何が欲しいって言われなかったんだよね。
ちなみに、お母さんからはちゃんとお土産代をもらっているけれど、当然お兄ちゃんは皆無で。
……あー、そういえば限定のお菓子があるとかなんとか言ってた気もするけれど、正直よく覚えてない。
「木刀……」
お土産の定番とも言えるこれ。
買った人はどうやって持って帰るんだろうといつも不思議なんだけど、でも、うちにはもうすでに何本かあるんだよね。木刀。
あれは、お兄ちゃんが趣味で買ったーーわけではなく、おじいちゃんが居合道をやっていることもあって、あるっていうほうが正確。
でも、確か中学のときの修学旅行で、お兄ちゃん買ってきてた気がするんだけど……。
「…………」
もちろん買わない。
私が持ってたら、おかしな子でしょ……剣道もやってないし、護身用に持っていたって使いこなせないシロモノだもん。
いろんな八つ橋の試食が出ていたけれど、そういえばお兄ちゃんは、甘いものが好きなのに八つ橋は食べないんだよね。
なんでも、あの独特の香りが嫌だとかなんとか。
……うーん。
ていうか、そもそもお土産を買っていってあげなくていいよね、別に。
「……あ」
ふいに目に入ったのは、扇子だった。
こういうのってきっと、海外からのお客さんが買って帰るんだろうなぁ。
新撰組。魂。大和。
いろいろな文字が達筆で書かれていて、中には“富士”と書いてあるものもあった。
「……使わなさそう」
でも実は、この扇子も2本くらい見た気がするけれど、見なかったことにしよう。
それとも、無難に……ああ、七味のたっぷり付いたおせんべいなんかもいいかもしれない。
好き嫌いのない人だから、食べるんじゃないかな。多分。
さすがに好みまで把握してはいないので、いろいろ見ていたらだいぶ曖昧になってきた。
ああもう、どうしようかなぁ。
やっぱり扇子にしておくべき?
「っ……!」
などと考えながら、“魂”と書かれた扇子と睨めっこをしていた、そのとき。
突然肩を叩かれ、軽く数センチは飛び上がった。
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