家に着くなり、とっとと風呂へ入れてやることに成功。
いや、ほら。
酔っ払ってる人間を、ひとりで入れるのは危ないだろ?
……ま、そういう名目で。
ソファにもたれてしばらくニュースを見ていると、グラスを持った彼女が隣へ座った。
座るやいなや、目を通すのはあのカタログギフト。
だが、その顔はすごく楽しそうで、まるで大好きな本でも読んでいるかのように見えた。
「んー……あ、先生これは?」
「どれ?」
覗き込むようにして見ると、雑貨のページ。
……って。
「却下」
「えぇ!? だ、だって、なんでもいいって言ったじゃないですかっ」
「そんなスリッパ、俺は履かないからな」
「えー? 似合うと思うのになぁ……」
ぽつりと呟いた言葉で顔を覗きこむと、そこには楽しそうな笑みがあった。
ったく。
「……本気で言ってる?」
「うん」
「顔が笑ってるけど、ね!」
「ご、ごめんなさ……あはは、くすぐったいっ!」
ぎゅっと両脇腹を掴むと、くすぐったそうに身をよじって首を振った。
彼女が指したのは、うさぎのぬいぐるみでも付いてるんじゃないかという、もこもこのスリッパ。
たしかに冬はあたたかいかもしれないが、俺は嫌だ。
彼女が履く分には文句は言わないけど。
……むしろ、似合うかも。
などと考えながら一緒にカタログを見ていると、どれもこれも普通の物ばかりだった。
「……どうせなら面白い物貰えば?」
「じゃあ、さっきのが……」
「あれは面白くない」
「……そうかなぁ。かわいいのに……」
どうしても欲しいのか、スリッパから離れようとしなかった。
……ったく。
「いいけど。別に」
「え?」
「スリッパでも」
視線を外して呟いたのを見て、驚いたように顔を向けて手を伸ばした。
何を確かめるつもりかわからないが、いい度胸だな。
「……こら」
「先生、本気……?」
「欲しいんだろ? いいよ、別に。……俺は履かないけど」
むに、と頬をつまんできた手を握ってジト目た俺を、眉を寄せた彼女が真正面から見つめた。
どういう状況だこれは。
「でも……」
「随分さっきまでと違うな。欲しくないの?」
「……そう言われると……」
「葉書、出しといて」
迷っている彼女の髪を撫でると、小さくうなずいてからカタログをテーブルに置いた。
その表情は悪くないが、どうせならもっと自信もって『ありがとう』なんて言ってくれればそれだけでいいんだが。
「……先生、いいの?」
「何が?」
「うさぎのスリッパで……」
「いいよ」
ニュースから視線を外して笑ったのがよほど意外だったのか、苦笑を浮べた彼女がもたれてきた。
と同時に、さらりと髪が頬に当たる。
髪へ自然と手が伸びるのは、自然の摂理とでも言うべきか。
「ありがとう」
「どういたしまして」
満足。
視線をテレビに戻しながら髪をすくうと、さらりと指の間を抜けて気持ちいい。
もともと彼女に選ばせるつもりだったし、気に入った物があったならそれでいいんだよ。別に。
……うさぎ、ね。
まぁいいさ。俺は履かないから。
って、しつこいか。
「そういえば、親父さんがものすごく泣いてたんだけど……」
「え? ……お父さんが?」
「うん。気付いてた?」
「知らないです。でも、なんで……?」
案の定、彼女は不思議そうに首をかしげる。
……やっぱり。
「……さぁ。なんでだろうな」
だから、あえて知らんふりをしてやる。
変なことを言って気にしだしたら困るし。
「でも、まさかあの曲歌うとは思わなかったな……」
「そうですか?」
「うん。……セリフも言っちゃうし」
「だって、あれが1番しっくりきたんですもん」
いたずらっぽい笑みを見せると、彼女が苦笑を見せた。
しっくり、ね。
まぁ、確かに――……。
「冬瀬女子高等学校に勤めてる、瀬尋祐恭さん」
「っ……」
じぃっと視線を合わせたままで、突然彼女がぽつりと呟いた。
「背も高くて、意地悪だけど優しい人」
「……そういうマイナスなことを言わない」
「いいんですよっ」
くすくす笑って首を振った彼女の頬に、手を当てる。
すると、少し照れたように笑ってから続けた。
「お父さんと一緒で、弓道が趣味なの。だって、お父さんが『弓道好きの人に悪い人はいない』って言ってたし」
「……悪い人いるかもよ? 精神的に強くなりすぎちゃって、彼女をいじめてるヤツとか」
「先生のこと?」
「ふぅん。俺のこと、そんなふうに思ってるのか」
「だ、だって……」
「へぇー」
瞳を細めて呟くと、困ったように首を振った。
まぁ、自覚がないわけじゃないからいいけどさ。
……さて。
ふいっと彼女から視線を逸らしてテレビを消し、コンポの電源を入れて曲をかける。
すると、彼女が不思議そうな顔を見せた。
「……何か聞くんですか?」
「まぁ、ちょっとね」
どうしても、彼女に聞かせたい曲がある。
……もちろん、彼女もよく知ってる曲だけどな。
「っ……これ……」
イントロが流れると、やはりすぐに反応を見せた。
そりゃそうだ。
彼女が知らないわけはない。
『裸足の女神』なんだから。
出だしとともに小さく歌ってやると、うっすら唇を開いてこちらを見つめた。
……さすがに正視しながら歌ってやれるほど人間ができてないので、視線は逸れたが。
――……この曲は、今の彼女によく合う歌詞だと思う。
恋に傷つき、それでも笑みを浮かべる。
今までだって、俺が知らないだけで、たくさんのつらい恋をしてきただろう。
自分の気持ちを押し殺して、幸せになるカップルを見送って。
……そして、今。
俺の隣で何もなかったように微笑んでくれている彼女は、まさに俺にとっての女神だと思う。
一見、すごく弱そうで、儚くて、打ちひしがれてしまうような……そんな印象がある彼女。
しかし、実際は人に頼らず、甘えず、自分よりも他人の幸せを願い、どんなにつらい状況でも周りに心配をかけまいと笑顔を振りまく……そういう、芯の強い子だ。
だからこそ、自分としてはもっと甘えて、頼って、困らせてほしいとすら思う。
いつまでも萎れることなく、笑みを向けていてほしい。
誰よりもどんなものよりも明るく、俺だけを照らしてほしい。
……我侭ゆえに、そう願う。
本来は、自分が彼女を導く存在でなければならないだろうに、な。
彼女が迷いそうになったとき、そばにいて道を示してやるのが筋だと思う。
だが、逆に支えられ、行くべき道を示してくれるのが彼女で。
……俺のほうがよっぽど頼って、甘えてる。
「…………ね」
最後のフレーズを歌いきると、彼女が照れた笑みを見せてくれた。
まさに、『はにかんだ』という表現がぴったりの微笑み。
……かわいいな、ホント。
つられて笑みを見せると、『ありがとうございます』と小さく小さく囁いた。
「どうしてあの曲だったんですか?」
「え?」
ベッドに入って布団をかけてやると、こちらを向いた彼女が小さく笑った。
「……なんとなく」
「…………そっかぁ」
それ以上は何も聞こうとせずに、珍しく彼女が抱きついてきた。
……全部バレてるのか、それとも――……アレか?
「約束、覚えてるの?」
「……約束?」
「ほら、二次会で聞いただろ?」
「……? 何をですか?」
「今夜、抱いてほしいかどうか」
「なっ……!?」
にやっと笑ってみせると、瞳を丸くしてぶんぶんと首を振った。
やっぱり、覚えてないようだ。
これは、いろいろと都合がい――……じゃないだろ、自分。
「そ、そんな話知らないですよ!?」
「えー? ちゃんとあのとき、抱いてほしいって言ったくせに」
「うそっ! わ、私そんなこと言わないですっ」
「俺が嘘つくワケないだろ。なんなら、アキにでも聞いてみれば?」
「……えぇ……?」
頬を染めて眉をしかめた彼女が、考え込む。
……まぁ、いいか。
話も逸れたことだし、寝るとしよう。
――……それでも。
小さくうなずいてから苦笑まじりに彼女の髪を撫でてやると、ぽつりと彼女が呟いた。
「先生……知ってたんですか?」
「…………アキに聞いた」
「……そっか」
髪を撫でたままだったのに、いつの間に彼女には伝わったんだろうな。
ぎゅっと、彼女は抱きついた腕に力を込め、何も言わなかった。
だから、俺も何も言わない。
……正直言って、もしかしたらあの曲で泣いてしまうかもしれないと思った。
だが、彼女が見せたのは、微笑み。
その反応は予想外だっただけに、少し面食らった。
「……あの曲を歌ってくれるなんて思いませんでした」
「そう? 俺は話聞いて歌うつもりだったけど」
「だって、もう3年も前のことだし……それに、今はすごく幸せだもん」
「っ……」
嬉しそうに笑った彼女を見ると、目が合ってしばらくしてから少し照れたように笑った。
「当時はすごくツラかったけど……でも、お陰で先生といられる今の自分があるんだし。きっと、神様が武人さんじゃないって教えてくれたんですね」
「……そうだな」
どうして彼女はこんなにも俺が喜ぶ言葉を選んでくれるのか。
髪を撫でて微笑むと、彼女が小さくうなずく。
……やっぱり、そういうふうに考えられる彼女は人として大きいんだな。
俺にとっての存在価値は――……はかりしれない。
「……ねぇ先生」
「ん?」
「私と大学生のときに会ったことあるの、知ってますか?」
「……え……?」
いきなり聞かされた、まったく身に覚えのない話。
そのせいか、つい瞳が丸くなる。
「俺が……?」
「うん。ちょうど3年前……武人さんとお姉ちゃんのキューピッドをやろうってがんばっていたとき。お兄ちゃんの忘れ物を届けに、大学へ行ったことがあるんです」
その顔はとても懐かしそうだった。
当時の自分を思い浮かべるかのように穏やかな表情で、改めて俺を見つめる。
「中庭にいるっていうお兄ちゃんのことを探してたら、武人さんと一緒にキャッチボールしてる先生がいて。そのとき、取り損ねたボールを拾ってあげたら、すごく優しい顔で『ありがとう』って言ってくれたんですよ」
「っ……」
その顔は、あまりにもかわいくて。
あまりにも純粋だと思った。
「お兄ちゃん、そんなふうに笑ったりしないから、すごく印象深くって。……だって、あんなに優しく笑ってもらったのなんて、初めてだったんですもん」
「……そんな顔してた? 俺が」
「してましたよー! ……えへへ。だから、そのあとも会えるといいなぁって思ったから、お兄ちゃんから電話があるたびに、内心喜んで行ったんですけど……そういう機会はなかったんです」
苦笑を浮かべて『残念』と呟いた彼女に、自然と口角が上がった。
「それって、ひとめ惚れ?」
「……かも」
意外にもあっさりとうなずかれ、冗談のつもりだっただけに少し面食らう。
……まさかの言葉だ。
まったく自覚がないだけに、かなり残念というか、なんだかとてももったいない気がするのはどうしてか。
「学校に赴任してきたときは、まさかそうだって思わなくて。付き合うようになってから、気付いたんです」
「……まぁ、そのころは眼鏡もしてなかったしな……」
「うん。印象変わりますよね」
微笑んだ彼女を抱き寄せ、そのまま髪に顔をうずめる。
広がる、自分と同じ匂い。
それが、いつにも増して嬉しい。
「……そっか」
たったひとこと。それだけしか返すことができず、ゆっくり目を閉じる。
抱きしめた腕に彼女が触れ、小さく笑ったのが聞こえた。
「歌ってくれて、ありがとう」
「……いいえ」
ありがとう、なんて言われるとはな。
あれは自己満足でしかなく、彼女のためというよりも、自分のためのようなところが大きい。
なのに、感謝されるなんて……予想外だ。
相変わらず、彼女は俺の考えつかない行動をとる。
……参ったな。
これじゃどっちが元気付けようとしているのか、わからないじゃないか。
「…………」
よかった。
たったひとこと、それだけ小さく呟いて彼女を抱きしめる腕に力を込める。
どうしようもなく愛しさがこみあげるが、それをどう表現すれば彼女にめいっぱい伝わるのかわからない。
……俺は彼女に救われてばかりだな。
髪をすくうと、さらりときれいに広がる。
髪を纏めている彼女も嫌いじゃないが、こうして指を通せないのは少し寂しい。
そのせいか、髪を下ろしているときはつい無意識のうちに手が伸びていた。
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