「……ん?」
 1度家に帰って荷物を取ってから訪れたのは、ほかでもなく彼の家。
 彼は大学に用事があるからという理由で出かけていったから、今ここにいるのは私ひとりだ。
 ……そんなとき。
 とっても珍しい人からスマフォへ着信があって、名前を見た瞬間、おもわず2度見。
 ……夢じゃないよね? なんて考えながら通話ボタンを押して耳に当てると、向こうからは賑やかな音が聞こえてきた。
「もしもし?」
『あ、羽織? 久しぶりだね』
「ホントだよー。どうしたの? 電話なんて珍しいね」
 この前聞いたときとほとんど変わらない声。
 そう。
 従姉妹の、葉月(はるな)だ。
 彼女は、これまで幼いころからずっとオーストラリアに住んでいた。
 それが、先月突然この日本へと帰ってきたのだ。
 理由は“大学受験”のため。
 ……らしいんだけれど、どうやら彼女はまた気を遣ったらしい。
 彼女の父であり私の叔父である恭介さんが、会わせたい人がいると言ったことで、妙な気遣いを見せたんだってお兄ちゃんは言ってたっけ。
 昔から、人一倍気を遣いすぎなんだよね。葉月は。
 でも、どうしたんだろう? こんな時間に。
『あのね。今、玄関にいるんだけど……』
「玄関?」
『うん。お家の玄関』
 ……おうち。
 葉月がそう呼ぶ場所は、きっとウチのことだろう。
 …………。
 ……え。
「え!? 何、え、今、日本にいるの!?」
『うん。えっと、伯母さんから聞かなかった?』
「何も聞いてないよ!」
 突然身に覚えのないことを聞かされ、電話だというのも忘れて首を横に振っていた。
 だって、今朝だってお母さんは何も言ってない。
 というより、ここ数日の間にそんな話すら聞いたこともないのに!
『23日からお父さんがしばらく留守にするからって話したら、伯父さんと伯母さんが「うちにいらっしゃい」って言ってくれたの。それで、おうちまで来てみたんだけど……誰もいないよね?』
「ええ!? 聞いてないよ!」
『んー……じゃあ、どうしたらいいかな?』
「え」
 う。どうしよう。
 ……と焦りつつもどうにもできない、自分。
 ここに来てもらっても構わないけれど、葉月は場所を知らないし……あ。
「ね、お兄ちゃんに電話した?」
『うん、してはみたんだけどね。出ないの。たーくん』
「えー!?」
『お仕事中だからかな?』
 や、あの、それはそうだと思うんだけど……でも何してるの、お兄ちゃん!!
 ていうか、出ないなんてなんのためのもの!?
 いつでもどこでもスマフォを持っていた彼を知っているだけに、つい眉が寄る。
 もぅ! 肝心なときに役に立たないんだから!
 今朝だって、私のプリン勝手に食べちゃうし!!
「えーと……じゃあ……えー……? どうしようかなぁ……」
 うろうろと部屋を歩き回りながらも、いい案なんて出てこない。
 ……どうしよう。
 ここから家まで歩いたら、結構時間かかるし……。
 …………あ。
「そうだ! 葉月、あのね。大学までバスが出てるの。あそこに行けばお兄ちゃんがいるんだけど……」
『大学? あ、そうだね』
「うん。……でも、バスの乗り方……わかる?」
 つい、そんな不安が口から漏れたとき。
 電話口が一瞬静かになったと思いきや、次の瞬間にはおかしそうな笑い声が聞こえてきた。
『もう。羽織ったら、私を幾つだと思ってるの? バスくらい乗れるから大丈夫』
「け、けど! だって、日本でバスに乗るなんてずっとしてないでしょ?」
『それでも、文字は読めるんだから。心配しすぎだよ?』
 ……そっか。
 それは確かに、まぁ、そうだけど。
 でも、何もそんなに笑わなくてもいいじゃないー。
 すごく心配なんだから! ……とは思いながらも、笑いが移ったのか自分もくすくす笑い出していた。
『じゃあ、大学まで行ってみるね』
「あ、うん。気をつけてね? 変な人についてっちゃダメだよ?」
『ん。大丈夫だよ』
 でも、つい、出ちゃうんだよね。
 これじゃあまるで、葉月の保護者みたいだ。
 ……まぁ、同じようなものだけど。
 なんて言ったら、葉月に笑われるかも。
「……うーん……」
 いきなりの展開にあんなことしか言えず、とっても心配……だけど今の私にできることは少ない。
 ……うー……。
 でも、ひとりじゃやっぱり心配だなぁ。
 あ。
 そういえば、先生は大学に行くって言ってたんだよね。
 とりあえず、電話だけでもしてみよう。
 そう思うと同時に、履歴を表示させていた。
 どうか、まだ先生が大学にいますように。
 ……もーー!
 それにしてもお兄ちゃんてば、本当に肝心なときダメなんだからっ!
 呼び出し音が響いたとき、やっぱり自然と眉が寄った。

「……うー……」
 ダメ。
 もう、ダメ。
 わかんない。
 っていうか、ギブアップです。
 彼に渡された、分厚い問題集。
 それを前に、思わずテーブルへと突っ伏す。
 だってもう、頭が痛い。
 きっと、これはもうこれ以上悩みすぎたらオーバーヒートするっていう前兆。
 時計を見ると、すでに窓の外は暗くなっていた。
 時間は、17時を過ぎたところ。
 このときになってようやく、自分がまだ明かりもつけていなかったのに気付いた。
 ……あ。
 そういえば、葉月はお兄ちゃんと会えたのかな。
 あの電話以来連絡がないので、それは少し心配。
 だけど、先生から電話で『葉月ちゃんと大学で会ったよ』っていう報告は受けたから、多分大丈夫だと思うけれど。
「…………」
 今日はまだ、彼はもちろん仕事がある。
 今日だけでなく、これからしばらくは。
 イヴの今日で休みに入るのなんて、学生か大きな企業くらいだろうなぁ。
 ひょっとしたら、浩介さんはもう休みに入っているのかもしれない。
「……大変だなぁ」
 テーブルに両肘を付くと、ため息が漏れた。
「あ。電気つけよ」
 部屋の中に光がほとんどない現実を目の当たりにし、やっと腰が上がる。
 勉強は、一応ひと段落というわけで。
 ……わからないところは、彼に教えてもらおう。
 …………きっとまた、いろいろ言われるだろうけれど。
「あ、っと……」
 苦笑しながらパソコンラックの横を通ったら、手で何かを払ってしまった。
 音と感触からして、多分紙か何かだろう。
 電気をつけてから慌ててそちらに目を向けると、床に散らばったいくつもの白い紙が見えた。
「……うわぁ。怒られちゃう」
 しゃがんで拾い集めると、それが彼の論文であるのに気付いた。
 正しい順序は、正直わからない。
 ……うぅ。
 帰ってきたらすぐに謝らなくちゃ。
 落ちた紙をすべて拾ってから、テーブルでとんとんと揃える。
 ――……と、そのとき。
 印字されている文字に、目が行った。
 …………。……わかんない。
 文の繋がりを見れば順序がわかるかなぁと思ったんだけれど、甘かった。
 内容は、はっきり言ってちんぷんかんぷん。
 英文だからこそ、余計にわからない。
 こんなふうに、さらさらと英語で文が書けるなんて、やっぱりすごい。
「…………」
 まとめた束を持って立ち上がると、不意に足が止まった。
 ……彼は、やっぱり自分とは違うんだよね。
 いまさらながらに、そんなことを改めて強く感じる。
 自分はまだまだ学生で……女子高生で。
 だけど、彼は社会人で……先生で。
 私は彼と付き合っていて、彼にとっての彼女。
 だけど、彼より6歳も年下で、子どもっぽくて。
 ……本当に、釣り合ってるのかな。
 ちゃんと……彼にふさわしい彼女なのかな。
 彼はきっと、高校時代に私みたいな成績を取ったことなんてないだろう。
 トップクラスの成績で大学に進み、そして大学でも立派な成績を残した。
 教師になった今でも、私が知っている以上の仕事を彼はしているんだと思う。
 大学にたびたび出向いては、論文などの提出を欠かさない。
 出張という名の会議への出席も、結構多い。
 先生っていう職業柄そうなのかとも思ったけれど、でも、田代先生よりも回数が多いことを最近知った。
 だからこそ、彼がすごいことをしているんだというのがわかる。
 そして…………。
「…………」
 事実をひとつずつ知るたびに、自分は彼に不相応なんだなと実感する。
 ……それが、すごく悔しくて……つらい。
 そして、すごくすごく彼に対して申し訳なくて。
 勉強もできない。
 何かこれといった取り得があるわけでもない。
 容姿が引き立っているわけでも、何かが優れているわけでもない。
 ――でも。
 逆に、絵里は自分とは違っていた。
 小さいころから、ずっと1番だった。
 勉強も、スポーツも。
 容姿だって、小さなころから誰よりもきれいで目立っていた。
 彼女がいるだけでその場が華やぐし、リーダー的な存在だった。
 彼女の周りに、輪ができる。
 私は……そんな輪のうちのひとりでしかない。
 ……今も、昔も。
 そのせいか、ときどき絵里と彼がダブって見える。
 勉強ができて、容姿もよくて、そして育ちだって悪くない。
 ……でも、私は?
 私は、どうだろうか。
 成績が上がった、下がったで一喜一憂して。
 いつも自信がなくて、なんとなく不安で。
 ……私、自分に自信持ててないなぁ。
 いつもハツラツとして輝いている、絵里や彼とは違う。
 自信がある人って、男女問わずすごくカッコよくて魅力的なんだよね。
 とっても、きれい。
 だから――いつも思うの。

 じゃあ、私は? って。

 ……私は、彼に似合わない……んじゃないかな。
 これまでだって、そう考えなかったわけじゃない。
 これまではただ、これほど強く現れなかっただけ。
「…………」
 どうして、今日に限ってこんなに強く思っちゃうんだろう。
 自分の自信のなさをまざまざと思い知るんだろう。
 ……やだな。
 私、今日はすごくやな子だ。
 誰かのせいにしてしまいそうな自分を見つけてしまい、そうしてしまわないように唇を噛む。
 だめ。逃げちゃダメ。
 できないのは、私。
 かなえられないのも、私なんだから。
「………………」
 いつだって願ってばかりだった。
 願って、頼って、それで――……努力しなかったのは、私。
 神様にお願いしたって、ただ願うだけじゃ何に繋がることもないって知ってたはずなのに。
 ……それで終わりにしちゃってたのは、私なのに。
 情けなくて、悔しくて、どうしようもなくて。
 彼の論文を握り締めたまま、視線が床へと落ちた。


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