「で、どうなの? 瀬尋先生は」
 壁にもたれていたとき、不意に自分の名前が出て身体が強張る。
 その口調からして、どうやら俺と彼女の関係を知っている子のようだ。
 ……動じないとはね。
 その事実を耳にして驚かないというのがものすごく不自然なのに、やけに普通に飲み下す。
 それができたのはきっと、彼女のいつもと違う姿がそこにあるからだろう。
「どうって……何が?」
「だからぁー。これまでの先生と比べて、ってこと」
 ……ようやく、わかった。

 『今度は、瀬尋先生なんだ』

 授業中に聞いたあの言葉。
 あれの意味が……今。
「んー……そうね。まぁ、悪くないけど」
「へぇ。羽織にしては珍しくいい評価じゃない。何? ねぇ、どう違うの?」
「そうだなぁ……これまでの先生と違って、やっぱり性格が違うっていうのがあるかな。見た目と違って、結構面白いよ?」
「面白い? ……って、どういう意味よ」
「だから、いろんな意味でね。ふたりきりのときの話とかもそうだけど、やっぱりセックスに関してもそうかな」
 普段の彼女とは、まったく別人。
 それが、ありありと今の言葉に表れていた。
 ……あの彼女が、あんなふうに直接的な言葉を口にするか?
 否。あり得ない。
 だからこそ、どうしてもそこにいるのがいつもの彼女だとは思えなかった。
「へぇ。何? 篠崎先生とは違う?」
 平然と、耳に届いた名前。
 それで、途端に瞳が丸くなった。
 ……俺の前のヤツが……彼……!?
 篠崎というのは、以前ウチの学校へ実習に来た大学生だ。
 事実、彼女に関していろいろと揉めたことがあったのだが……。
 ……ホントに?
 まさか。
「…………」
 …………そう。
 俺は先ほどからずっと、『まさか』という言葉しか浮かべていない。
 というよりも、アレだ。
 そうとしか思えなくて。
 信じたくなくて。
 ……それで、出ているんだと思う。
「やだー。全然違うよー。彼とは違って、祐恭先生にはあんまり感じてるフリすることないし」
「えぇー!? なによ、羽織ホントに感じてるの?」
「だから、篠崎先生に比べれば、ね?」
「でも、すごいじゃない! いいなぁー。瀬尋先生、うまいんだ」
「んー……まぁ、そうなんじゃないの? 割と、イイかも」
「えー? じゃあ、紹介してよぉー」
「だーめ。とりあえず、今のところはまだ私のモノなんだから」
 普段の彼女ならば、人を“物”扱いしたりしない。
 それは、これまでの付き合いだけでなく、彼女の性格を考えればすぐにわかること。
 ……悪い夢なんじゃないだろうか。
 まず、第一に俺はまだ彼女が喋っているという確証を得たワケじゃない。
 ……確かに、声も喋り方も……彼女だ。
 だけど。
 ……だけど、実際にこの目で見るまでは。
 それまでは信じるに信じられなかったし、やはり信じたくなかった。
「でも、瀬尋先生って彼女いたんでしょ? どうやってモノにしたの?」
「そんなの、簡単よ。ちょっと涙見せて気があるフリしたら、勝手に彼女と別れてくれたんだもん」
「ウソー。マジで?」
「うん。だから、そんな話聞いちゃえばあとはこっちのモノじゃない? 大人しくて、何も知らない子っていうのを前面に出せば……男なんて簡単に落ちるし」
 くす、と笑った声が……まるで耳元で言われたように響いて聞こえた。
「男って、単純でしょ? ちょっとペースに乗ってやれば、ほいほい尻尾振ってついて来るんだもん」
「うわぁー、怖い怖い。魔性の女だねぇ、羽織チャンは」
「えー? 私なんか、まだまだだよー」
 あはは、という彼女の嘲るような笑い声が耳に届いた。
 ……どうか。
 頼むからどうか、その声で話さないでくれ。
 その声で、そんなふうに笑わないでくれ。
「…………」
 壁にもたれると、頭が壁にぶつかった。
 ……じゃあ、何か?
 これまで俺が見ていた彼女が、偽者だとでも言うのか?
 壁にもたれたままで瞳を閉じると、ため息が漏れた。
「でもねぇ、馬鹿なオトコをだますのは簡単だけど……馬鹿な女を演じるのは大変なんだよ?」
「そぉ? 私には、カンタンそうに見えるけど」
「……まあね。なんて言うのかなぁ……ほら、女は少し馬鹿なほうがかわいいのよ。何も知らなければ、我が物顔で教えてくれるし」
「じゃあ、羽織チャンは何を教わったのかなー?」
「やだー! 何も教わってないって」
「こっわ!! 羽織、こわーい!」
 きゃあきゃあと続けられている、やりとり。
 ……テンションだけは、いつもと同じ会話のようにも思えるのに。
 この、えげつない会話はなんだ。
「オトコにとってさ、連れて歩く女こそステータスじゃない? 冴えないオトコも、不相応なくらいイイ女連れてたらそれだけで格が上がるし」
「……あー、それはあるね。その逆だと、ちょっとねー」
「そうそう。どんなにイイ男でも、馬鹿そうな女を連れてると人格疑っちゃう」
 高笑いが嫌というほど耳に届き、嫌な気分でいっぱいになった。
 ……ホントに、彼女が言ってるのか?
 そんなこと思ってたとは、微塵も感じられなかったのに。
 …………あの彼女が、そんなことを言うとはね。
 失望か、落胆か。
 どうしてかはわからないが、嘲るような笑いが出た。
「このまま、どうするの?」
「……そうね。あわよくば、丸め込もうかとは思ってるけど」
「へぇ。それじゃあ、このまま瀬尋先生だけと付き合うってこと?」
「んー……。とりあえず、あの人が教師であるまではね」
「何よ、卒業までじゃないの?」
「なぁに? 卒業したら、譲ってほしいの?」
「そりゃあ、欲しいよー。なんたって羽織のお墨付だもんね」
「あはは! 言えてるー!」
 生易しいものじゃない、出来事。
 こんな物に直面すると、人間どうしていいのかわからなくなる。
 何を信じればいい?
 これからどうすればいい?
 そんなことばかりが、ぐるぐると頭を巡る。
 ――……どうか。
 どうか、夢ならばすぐに覚めてくれ。
 この居心地悪い場所から、いつもの彼女が待つ場所へと救い出してくれ。
 ……どうかこれ以上、俺を惑わせないでほしい。
「……っ……」
 再び大きく息をついてから、顔を上げたとき。
 図書室のほうから、ひとりの教師が歩いてくるのが見えた。
 こんな場所にいれば、間違いなく声をかけられる。
 ならば……。
「…………」
 教室から少し離れ、渡り廊下へと曲がってから再び2組へ足を向ける。
 どうか、そこにありませんように。
 姿形の変わらない、俺の彼女の愛しい姿が。
「…………」
 深く息をつき、わざと足音を立てながらそちらへ向かう。
 これ以上、聞きたくない。
 ……頼むから、気付いて話を止めてくれ。
「……あ」
 そういった願いは、どうやら彼女らにも通じたようだ。
 お陰で、ドアに手をついたときには話し声だけはなくなっていた。

 ……無情にも、姿だけはハッキリとそこに残してくれたままだったが。



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