「あ。今帰りまーす」
そう言って手を上げたのは、絵里ちゃんだった。
平然とした顔をして、いつも通りの声色と口調。
それが、今までここにあった物は現実だとそう告げていた。
「ほらー、羽織。早くしなさいよ」
「ちょ、ちょっと待って! まだ日誌が――」
「書き終えないあんたが悪い」
「えぇ!? 今まで書こうとするたびに邪魔してたの、絵里じゃない!」
「知りません。ほら、行くよー」
「あ、ちょっと!」
ぐいっと腕を引いて立ち上がらされ、こちらへ歩いて来ようとしている彼女。
こうして見ている限りは、いつもと同じ……俺が知ってる羽織ちゃんなのに。
口調も、声も、雰囲気も、態度も。
今ここにある彼女はすべてがいつもと変わらないというのは、なんとも意地の悪い話だ。
「それじゃ、お先にー」
「失礼しまーす」
笑みを浮かべてひらひらと手を振りながら出て行く、生徒たち。
だが、いつものような言葉は出てこなかった。
……たった一文字さえも声に出せない自分。
どうやら、相当参っているらしい。
「それじゃ、お疲れさまでした」
「……ああ」
電気の付いた教室から出る、よく知っている最後のふたり組。
だが、そんなふたりへ搾り出すように出た言葉で、羽織ちゃんが足を止めて眉を寄せた。
「……具合……悪いんですか?」
…………そんな顔をするな。
そう言いたい思いとともに、思わず顔が歪む。
苦痛。
反射的に拒絶の言葉が、すぐに浮かぶ。
「……いや、なんでもない」
「……でも……」
「…………いいから」
逸れた、視線。
普段ならば、まずありえないことだ。
彼女から、俺が先に視線を外すなんて。
……何もかも、ありえない。
ドアにもたれながら、崩れそうになる。
先の見えない闇。
まさに、一気に飲み込まれてしまったかのようだ。
「先生なら大丈夫よー。今日、何曜日だと思ってるの? 誰かさんと一緒なら、元気になるって」
「え、絵里っ!」
いたずらっぽい顔をした絵里ちゃんに、わずかに頬を染めて反論する彼女。
……そういえば、こういうやり取りもあったな。
ふたりを見ながら、まるで過去の物でも見ているような錯覚に陥る。
…………過去、か。
そうだな。
今、この状況からすれば……もう、『過去』と呼ぶしかないだろう。
「それじゃ、またねー」
「……じゃあ……お先です」
笑いながらその場をあとにするふたり。
その後ろ姿は、消えることなくいつまでも廊下に残っていた。
……俺にどうしろって言うんだよ。
「ッ……くそ……!!」
煌々と明かりのつく教室の壁に、思わず拳をぶつけていた。
びりびりと響く、振動。
……くそったれが。
誰にぶつけることもできないこの思いを、俺はどうすればいいというんだ。
……間単にあれこれもらえるような言葉なんて、生憎今は必要としていない。
「…………」
取り返しのつかない時間ならば。
……せめて、聞かないままでいたかった。
何も知らないまま、そのままならば……騙されていてもよかった。
……神なんて、ハナから人の味方じゃないんだな。
深いため息とともに、今まで見聞きしたことすべてが記憶から消えてくれればいいのに。
都合いいことだけ、残ってくれればいいのに。
それができたら――……俺はどれだけ救われるだろう。
「……ちくしょう」
このときになって初めて、自分の行動を心底恨みたくなった。
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