平野先生って、ぎっくり腰でこの前入院したおじーちゃん先生の代理なんだって。
へぇー、なんか、カワイイよねー。あのセンセ。
でもさぁ、やっぱ、っていうか……そうらしいよ?
うっそ、マジで?
え? なになに?
だからさぁ、デキてるらしいってこと。
うっそ! マジで?
そそ。だって、見たって子いたもん。
準備室で、誰かが平野先生を抱きしめてたんだって。
瀬尋先生かなー。
あ、でも、田代先生かもよ?
意外なところで、実はほかの科の先生とか!
あー、ありえるー! ほらほら、なんかさぁ、あの先生ってカワイイし目立つし……気になって押しかけて……きゃー!
ヤバイー! それ、ヤバイよー!
ねぇねぇどうする? うちらもソレ見に行く?
えー、マジで!? ヤバイって、それー!
でも、学校でそんなことしてるほうがヤバくない? だって、あの人先生なんだよ?
うーん、まぁ……それもそうなんだけどねー。
「ありがとうございましたー」
ようやく終わった、HR。
がたがたと椅子から立ち上がり、それぞれは思い思いの方向へ足を向ける。
あれから、まだ1日しか経ってない。
なのに、噂だけはどんどんどんどん膨らんで。
今では、教わっていない学年やクラスの生徒までもが、彼女のことを口にしていた。
彼女の名前を聞かない時間は、体育とか、ほかの子のお喋りが聞こえないときくらいしかない。
「絵里? どうしたの?」
「ん? んーん。なんか……タイクツな感じ」
「……そう?」
「ん」
ぷらぷらと鞄を振りながら教室を出ると、小走りで羽織が隣に並んだ。
今日は、なんとか日課って言って、午後の授業がない日。
お陰で、まだまだ後半遊べるぞー! ってくらいの高さに、太陽が鎮座ましましていた。
お昼食べてないから、お腹は空いてる。
だけど――……。
「……帰らないの?」
「当たり前じゃない。あんだけの喧嘩したのよ? 絶対イヤ」
少しだけ心配そうな顔をした羽織には悪いけれど、でも、やっぱり嫌なものは嫌。
必要最低限の荷物はちゃんとまとめてきたから、別に不自由はないし。
……それに、何よりも。
やっぱり私を理解してくれて、私を受け入れてくれる人がいる場所は、温かくて心地いいから。
それが激しく迷惑かけてるってことはわかってるから、申し訳ないんだけれどね。
「帰りましょ、羽織」
ちらりと視界の端に白衣が見えた気がして、とっとときびすを返す。
あのとき以来、純也とは話はおろか目も合わせてはいない。
わざわざこっちから連絡を取るようなこともなければ、あっちからくることもないし。
……あーあー、そーですか。
結局最後は、放置なのよね。私っていっつも。
ここで、『私が悪かったわ。本当にごめんなさい。アナタのことが好きなの。大好きなの』とか言ったら、いろいろ違ってくるんだろうけど。
でも、それができないのが私という人間。
嘘はつきたくないし、必要以上にへりくだって人に媚びるのも好きじゃない。
それは、純也だってわかってる……だろうと思う。
だけど――……。
「行くわよ!」
「あっ、待ってよ絵里!」
遠く遠く、踊り場のほうから純也の声が聞こえた気がして、すぐここにいるのに、わざわざ羽織を呼んでいた。
紛らわせるように。
自身を、すべてを、騙すように。
聞こえなくていい。聞きたくない。
押し付けるばかりで求めてくれない、あんなヤツの声なんて。
「ただいまー」
「羽織、おかえり」
「ただいま、葉月ちゃん」
「おかえりなさい」
玄関を開けるとすぐそこに、癖のないまっすぐの髪を下ろしている女の子が立っていた。
ハッキリ言って、スタイルは抜群。
そつのない身のこなしでかつ、気の遣い方も素晴らしい。
まさに、パーフェクトと呼ぶべき人。
大和撫子っていうのは、この子のためにあるんだろう。
そう思わされるだけの説得力を全身から発している彼女とは、最近知り合って仲良くなった。
「お腹空いたでしょ? ごはんできてるよ」
ローファーを脱ぎ、揃えてから彼女のあとへ続く。
羽織の家はご両親が共働きなので、日中家にいるのは葉月ちゃんだけ。
きちっきちっと、細かい所まで乱れてる箇所は見当たらず、こういうところからも彼女の性格が伺える。
「ねぇ、なになに? 今日のお昼はなぁに?」
「ふふ。中華風ナポリタン」
「中華風……?」
「……なんだろ……」
はた、と足を止め、できる限りの知識を総動員して、料理を連想してみる。
もやもやーんと浮かんだのは、なぜか、エビチリがかかってるパスタ料理。
……いやいやいや、それは違うだろう。
…………だけど、もしかしたら……。
「うーん……?」
「どんなの?」
顎に手を当てたまま、考え込むものの答えが出ない時間。
脳にとっては、とても素晴らしいもやもやに、そろそろ皺が増えすぎたとき。
「そう言ったら――……なんだか豪華でしょ?」
こちらを振り返ってくすっと笑った彼女のセンスに、羽織と顔を見合わせてから思わず笑っていた。
「今日ねー、祐恭先生ってばねぇ」
「あっ!? やだやだっ! 絵里、それは話さない約束――」
「いーのいーの! 私たちの間に、縛りはないのよ」
「えぇえ!?」
ちっちと指を振って、慌てた羽織をやんわりとなだめる。
赤い顔をして眉を寄せる姿は、やっぱしかわいくて。
……いじめられっ子が、だいぶ板についてきたわね。
ふと彼女の背後で顎に手を当てて笑う某教師が見えた気がして、吹き出しそうになる。
「瀬尋先生も、羽織にはかたなしね」
「……うー……葉月まで……」
ふふっと口元に手を当てて笑った葉月ちゃんに同意して、しっかりとうなずく。
そんな私たちふたりの視線を受けて、困った顔の羽織。
ベッドに両足を乗せたまま枕を抱える格好って、やっぱり『可愛い』の定番だけど――……できる子は限られるわよね。
「…………」
胡坐をかいたままクッションを抱きこみ、ぽんぽんと叩いてそこに顎を乗せる。
私にできるのは、やっぱこれが精一杯。
羽織みたいに、ちょっと照れた顔して顔をうずめるなんてことは、やっぱ無理だわ。
……いいわねぇ。
何をしても画になる、華になるっていうのは、何物よりも強い。
「……絵里?」
「ん?」
「どうしたの?」
名前を呼ばれて、やっと気づく。
ほんの少し前と違って、ふたりの笑い声がまったくなくなっていたことに。
「……んー……んーん?」
一瞬考え込みそうになってから、普通の顔で首を横に振る。
そりゃまぁ、考えごとしてたのは事実。
だけど、今考えてたことを口にするのは、なんか違う気がした。
私らしくないとか、今の雰囲気のそぐわないとか、そういうんじゃなくて。
……なんとなく、よ。
本当に。
「あの……さぁ」
「うん?」
「なぁに?」
ぽつり、と呟いた自分の声が、なんだかとても大きく聞こえた。
別に、コレは比喩じゃない。
実際、家全体が静かだというのもある。
もちろん、すでに羽織のご両親もお兄さんである孝之さんも帰宅していて、数時間前一緒に夕食を摂ったんだけどね?
でも、孝之さんは自室にいるのか声もまったく聞こえないし……おじさまたちの話し声も、聞こえてはこなかった。
物音は階下から伝わってくるからわかるけれど、でも、それ以外は音なんてなくて。
この場所が住宅街のど真ん中だって言うのも要因としてはあるんだろうけど、静かなのよね。本当に。
……いつもの――……あの、純也と住んでいるあの家では、まず考えられないこと。
見ていなくてもテレビは点けっぱなしだから、話さなくても音は溢れている。
……今とは、違う。
今このときみたいに、誰かが話さなければ、夜って本当は静かなんだなって実感できるようなときとは。
「好き、って……どういうこと?」
ベッドに腰かけている葉月ちゃんと、その隣で枕を抱えている羽織。
ふたりの、まさに『かわいい』という言葉が頭に浮かぶような顔をそれぞれ見つめてから、ゆっくりと唇を動かす。
問う。
答えを、求めるために。
「…………」
少しだけ驚いたように何度かまばたきをしてからお互いを見つめたふたりに見せていた表情は、これっぽっちも笑ってなかった。
……変なの。
1番、私らしくない態度見せてるじゃない。
そう自分自身で思ったからか、ちょっとだけおかしくなって……顔が若干ほころんだ。
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