昨夜、居酒屋を出ても盛り上がったままの私たちは、近くのカラオケで2次会をすることになった。2階の個室でみんなで大はしゃぎして、その頃には嫌なことなんか吹き飛びかけていた。マイクに叫ぶみたいに歌ってる友だちを笑いながら、私はフラフラする足で階下のドリンクバーへと向かった。飲みすぎたお酒が胃の中でぐるぐるして、喉が渇いて仕方なかったから。

相当に飲んでいた妹の望の分と、なみなみと水を注いだコップを二つ持って階段を上りかけた所だった。すぐ上の踊り場から現れた人影に驚いて、ぶつかってもいないのに足がよろけたのは、お酒のせい以外の何ものでもないと思う。危ないと思った瞬間には、手元が不安定に揺らめいて水をぶちまけていた。

「うわ、つめたー」
酔いとパニックで混乱状態だった私は、目の前にいる男の人を呆然と見上げた。飛び散った水のせいで手元の水は半分以上減っていて、男の人の白いシャツはぐっしょりと濡れてしまっている。

「ごっごめんなさい!クリーニング出さないと・・・!」
床に飛び散った水に泣きそうになりながら、慌ててハンカチを出して差し出すと、そんなに起こった風でもなく相手の男の人はそれを受け取ってくれる。
「あーいいよいきなり出てきた俺も悪いし。そっちは大丈夫だった?」
軽くシャツを拭いたハンカチを返されて彼の目線のほうを確かめると、自分のスカートにまで水が飛び散っていて、裾からはぽたぽたと水が滴っていた。
「だ、大丈夫ですこれくらい!歩いてれば乾くと思うし・・・!」
ああもう、どうしていつもこんなにとろいんだろう・・・・・・!
はずかしさに顔が熱くなるのを感じながら、慌ててスカートをハンカチで押さえた。おかしそうにくすくす笑っている彼の視線が痛い。

「あ、あの!クリーニング出させて下さい!それか、替えの服でも・・・・・・!!」
あっさりと許してくれてしまいそうな目の前の人を捕まえて、私はもう一度頭を下げた。外に出てしまえば冬の夜はまだまだ寒いし、せめて何か見繕ってきたほうがいいかもしれない。
「いいよ、水だからシミにはならないだろうし、それに歩いてれば乾くよ」
私の言葉を真似て、また彼は面白そうに笑った。笑われているのに、その笑顔は人を馬鹿にしたようではなくて、不思議と嫌味がなかった。屈託がなくて、人懐っこい犬みたいな人だと思った。

「ちょっと陸!!」
突然、階段の上からヒステリックな女の人の声が響いた。目の前の陸と呼ばれた人が、小さく、もうばれたか、とため息をつく。カンカン、とヒールの大きな音を響かせて降りてくる女の人は目を惹くような美人で、綺麗に巻いた髪が肩にかかっている。どうやらこっそり部屋を抜け出してきていたらしい彼は、心底嫌そうな顔で相手の女の人を見ていた。

「・・・・・・じゃあ、クリーニングはいいから、ちょっと頼まれて?」
二度目のため息とともにこそっと耳元でそういう声が聞こえたかと思うと、尋ねる暇もなくいきなりぐいっと肩を引き寄せられ、彼の胸の中に私の身体が収まっていた。

「ごめんね里香ちゃん、この子新しいお相手。ってことだから俺のことは忘れてね」
突然のことに硬直する私を抱きしめながら、陸は階段の女の人にへらっと笑ってそう告げた。陸の身体で隠されて相手の顔は見えないものの、その場の空気が零下まで下がったのが分かる。しばらくの沈黙の後、里香と呼ばれた女の人が近付いてきて、手を振り上げる気配がした。
「―――さいってー!!」
「ルール違反はそっちでしょ?俺のこと、どんな奴か知ってて近付いたくせに」
振り上げられた手を難なく受け止めて、陸は冷ややかな目をして言い放った。さっきまでの笑顔は跡形もなく消えていて、瞳には明らかに嫌悪の色が浮かんでいる。

「じゃあね、バイバイ」
立ちすくんでいる女の人を残して、陸は私の手を取って歩き出した。
「ごめん、もうちょっとだけ付き合って?」
前を向いたままそう言うと、陸は夜の街をどんどん先へ進んでいく。引っ張られるように着いて行ってホテルの入り口に入るとき、後ろからもう一度陸を呼ぶ声が聞こえた。振り向きもせずホテルに入って慣れた様子で部屋を選んでいる陸をぼんやり見ながら、何でこんなことになってるんだっけ、とどこか場違いな考えが頭に浮かんでいた。

「うわあ・・・・・・!」
エレベーターで3階に上って陸の後に付いて部屋に入ると、思わず声が漏れた。もっとそれらしい部屋を想像していたのに、そこは下手なホテルなんかよりよっぽど広くて、大きめのソファやテーブル、テレビや冷蔵庫まで用意されている。部屋の奥に見える大きなベッドだけが「それらしい」だけで、後は普通のホテルと変わらなかった。

「まあ、とりあえず着替えておいでよ風邪引くから」
室内を見渡してきょろきょろしていると、そんな私の様子に苦笑したらしい陸がガウンを手渡してくれた。彼のほうはいつの間にか着替えていて、濡れた服がハンガーにかけられている。
「あ、ありがとう」
素直に渡されたそれを受け取ると、次の瞬間、もう耐えられないといったように盛大に笑い出した。
「もうちょっと警戒しなよーここラブホテルで見知らぬ男と一緒なんだよー?素直に服脱いでどうするの!」
「え・・・・・・あ、そうなの?」
あーおかしい、とひとしきり笑うと、今さらパニックが吹き返してきた私の頭をぐしゃぐしゃと陸が撫でた。
「嘘だよ、お子様には手を出さないから安心しなサイ。着替えておいで、ええっと・・・」
「・・・・・・遥。お子様じゃないよ」
思わず憮然と言い返した私を見てもう一度笑って、陸は私をバスルームへと押し出した。
「はいはい遥ちゃん、分かったから行ってらっしゃい」

その仕草は、完全に子どもをあやすそれだった。






「大学生なの!?」
「ちょっと遥ちゃん、それはどういう反応・・・・・・」
「・・・・・・なんでもないです」
「・・・・・・そういう遥ちゃんも大学生には見えないんですけど」
どうやら私を高校生だと勘違いしていたらしい陸は、驚いたことに同じ大学の学生だった。学部こそ違うものの学年は同じで、これまでキャンパスですれ違っていたかもしれないと思うと不思議な気分になる。

2人してガウンに着替えた後は、寒いからとベッドに入ってなんだかんだと世間話をしていた。同じベッド、同じシーツにくるまっているのに陸の様子は何も変わらなくて、私も何も意識せずに隣で寝転んでいるのがおかしかった。

「・・・・・・ねえ、さっきのひと、彼女?」
ふと途切れた会話の合間に、思い出したことを尋ねてみる。ただの友だちだよ、と答える陸の顔は少しも嘘を吐いてないようで、あの叫んでいた女の人とはかなり違う種類の表情だった。
「・・・・・・でも、あの人はきっとすごく陸が好きだったんだね」
彼女の瞳に涙が滲んでいたのを、私は見てしまった。浮かんできたその表情に、よく見知った顔が重なる。私は、あの表情を知っている。どうしようもなく誰かに焦がれている、あの表情を。

「みんな誰か・・・・・・すごくすごく好きな人がいるのに・・・・・・なんで私にはできないんだろ」
そう言いかけたとき、何の前触れもなくぽろりと涙が零れた。ぽたりと落ちた雫に驚いて瞳に手をやってどうにか止めようと目をこすっても、後から後から出てくる涙に手が濡れるばかりだった。

泣きたいのは私じゃないはずなのに、泣いている自分が不自然だと思った。胸の中にぽっかり穴が空いたように感じるのも、どこか心許ないのも、私の気持ちのはずがないのに。それは―――私が傷つけた、あの人のものなのに。

「おかしいな」
そう言って笑おうとした私を、陸の腕がふわりと包んだ。
「・・・・・・あんまり慰めるの上手じゃないんだよね」
そう言って、子どもを抱えるようにシーツごと私を抱きしめる。何も言わず、ただあやす様に背中を撫でてくれる手がやけに優しくて、私は涙を止める努力を放棄した。

あの人と別れてから初めて流した涙は、恋人を慕うそれではなくて、やっぱり私は好きにはなれなかったんだと改めて自分のしたことを思い知った。
好きになってくれたのに。大事にしてくれたのに。
切なそうに顔を歪めてお別れを言わせてしまった彼を思い出して、私は今だけは自分勝手に泣こうと決めた。



とくん、とくんと、陸の心臓の音が聞こえてくる。シーツごしに伝わる温かい陸の熱は、今まで聞いたどんな慰めよりも誠実で、すとんと心に落ちてくる気がした。


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