「ただいまー・・・・・・」
ホテルを出た後は駅まで一緒に歩いたきりで、陸とはあっさりそこで別れてしまった。連絡先も、会う約束も何もしないまま。じゃあね、と笑顔で手を振ってはくれたけれど、昨日の女の人を突き放した時のようにそれきり振り返ってはくれなかった。

どんより曇ったままの頭を抱えて、どうにか辿り着いた家に入ると、見慣れた望の靴が先に並んでいた。昨日カラオケを黙って出てきてしまった手前、どんな顔をして望に会えばいいか正直よく分からなかった。

眠っているかもしれない望を起こさないように静かに寝室のドアを開けると、間仕切りの向こう側、彼女の部屋のスペースで出かける支度をしている望の姿があった。おかえり、と声をかけられて、思わず驚いてしまう。

「わっ・・・・・・望・・・・・・!びっくりした!」
「今帰ってきたの?」
「うん・・・・・・、昨日はほら、亜季の家に泊まらせてもらったの。望も今帰ってきたの?」
「私は、由利の家だよ。昨日はちょっと飲みすぎたから、良く覚えてないんだけど・・・・・・」
あまり覚えていないという望の言葉に、私は胸を撫で下ろした。私が出て行ったことも、覚えていないみたいだった。たぶんその場にいた友だちも、ただ先に帰ったくらいに思っているだろう。

「私今日2限目からだからもう出るけど、遥はどうする?」
「私は午後からだから・・・・・・少し寝てから行くね。飲みすぎて、頭痛いや」
支度を終えてそう尋ねてくれる望に曖昧に微笑んで、私はベッドに腰を降ろした。ドアを閉めて、望が階段を降りていく音がする。

ふと、さっきまですぐそこにあった、望の綺麗な髪や強い瞳を思い出す。
私も、望みたいに綺麗だったらよかったのにな。双子なのに全然似ていない容姿を比べて、ひとつため息を吐く。

子どもには手を出さないと言った陸の困ったような笑顔が浮かぶ。
ベッドに仰向けになって瞳を閉じると、私は無意識の内にあの身体の熱さを思い出していた。




望には午後から学校に行くといったものの、頭痛はひどくなるばかりで、とうとう大学には行かずじまいだった。それでもバイトは休むわけにはいかなくて、気だるい身体を引きずって、駅へと向かった。大学の最寄り駅から歩いて少しのところにあるカフェは、去年の春から始めたバイト先で、同じ大学に通う友だちもたくさんいて居心地がいい。月曜日の夜でも学生街にあるせいか店は混みあっていて、休む暇もなくテーブルの間を動き回っていた。

8時半閉店のそのバイトをどうにかこなして、同じ駅へと向かう友だちと店を出たのが9時過ぎだった。他愛のない話をしながら横断歩道を渡ろうとしたとき、向かいの通りを大学生らしき数人の団体がわいわい騒ぎながら歩いていくのが見えた。―――陸だ。目の端に映った人影に、一瞬で心臓が跳ねる。

「―――ごめん先に帰ってて!」
どうしてそんなことをしてしまったのか、私は呆然とした顔をして頷く友だちを1人取り残して、遠ざかっていく人を追いかけて、足を走らせた。

「あの・・・・・・っ」
息が切れているのも構わずに、私はようやく追いついた陸の服の裾を掴んだ。
「遥ちゃん。・・・・・・どうしたの?」
「あの、私・・・・・・」
「なんだよ陸、また女かよ」
「遥ちゃんっていうの?可愛いじゃん、一緒に合コン行かないー?」
言い掛けた私を遮って、一緒に居た男の子の一人が顔を覗き込んで話し掛けてくる。

「うるさいなあ、先行っとけ」
「何だよーまたお前だけいい目みるのかよー」
「ばっくれないで早く来いよ、お前がいなきゃ始まんないんだから」
面倒臭そうに周りにいた男の子達を追いやってから、陸は私のほうに向き直った。友だちの中にいるのに、陸は何故かつまらなそうな顔をしていて、それが昨日の印象と大分違っていた。

「で、どうしたの。びっくりしたよ、こんなとこで会うなんて」
「見かけたから、つい・・・・・・追いかけちゃって」
思わず会えたことが嬉しくて笑顔を向けて言うと、そう、とだけ陸は答えた。
「・・・・・・もうさ、こんな風に声かけるのやめなよ。俺と遥ちゃんは昨日クリーニング代の替わりに一緒に居てくれただけ、それでお終いでいいじゃん」
そう言う陸は何だかよそよそしくて、それが私たちは他人なんだと言っているようで、陸の服を掴んでいた指から無意識に力が抜けるのを感じた。
「・・・・・・どうして、急にそんなこと言うの?」
あまりに突然変わってしまったような陸が信じられなかった。会ったばかりなのは確かだけれど、何処か分かり合えたように感じたのは、私の気のせいだったんだろうか?
「急じゃないよ。昨日のことがもう終わっただけだよ」
視線を外して言う陸は、本当に私を拒絶しているように見えた。

「そんなの、やだよ・・・・・・」
するりと外れた指を握り締めて呟いた声は、陸に届いていたのだろうか?
「このへん危ないからさ。もう、帰りなよ」
歪んだ笑みを浮かべた陸は私に答えることも、昨日のように髪を撫でてくれることもなく、背中を向けて歩いていった。

追いすがることもできなくて。
私は彼の背中を、ただじっと見つめるしかなかった。






「おかえり、遅かったね」
「あ、うん、ちょっと残業」
玄関で出迎えてくれた望に、私はまたひとつ嘘を吐いた。こうやって、ひとつずつ胸の痛みが増えていく。それでも・・・・・・ただでさえ元気のないような望に心配をかけるのは嫌だった。お風呂場へ行く望を見送ってから、階段を上り部屋のベッドへと倒れこんだ。

私は一体何をやってるんだろう?会ったばかりの陸を追いかけて、困らせて・・・・・・。瞳の奥が熱くなって、でも零れてきそうな涙を必死でこらえた。
「ただ、一緒にいたいって思っただけなのにな・・・・・・」
ぽつりとそう呟くと、フラッシュバックのように見知った顔が目の前に浮かんだ。
『ただ、一緒にいたかっただけなんだ』
その一言を言った人のことを思って、私は呆然とした。私を好きでいてくれた、もうお別れした人。辛そうに顔を歪める彼と自分の顔が重なって、ああ、私は陸が好きなんだと、今さらのように胸の中に渦巻くどうしようもない気持ちの意味に気付いた。

「・・・・・・馬鹿みたい」
あれほど手にしたいと思っていた気持ちはただ切なくて苦しくて、どれほど人を傷つけてきたのか何も分かっていなかった私は、本当に陸の言うとおりただの子どものようだと思った。涙を流す資格さえないような気がして、私はただ両手で熱くなった瞳を覆い続けた。






それからしばらく、大学で陸の姿を見かけることはあったけれど、私はこの前のように声をかけることはしなかった。あの日のように、拒絶されるのはもう嫌だった。それでも、陸の視界に入っていないと思うだけで苦しくて、本当は目で追いたいはずのその姿から視線を外すこともしばしばだった。

「遥、八神 陸はやめなよー。あの男来るもの拒まずで、誰とでも寝るんだよ。しかも付き合った女はこの2年間でゼロ。一晩の相手しかしなくて、キスさえしないって有名なんだから」

それでも、見かけるたびに立ち止まってしまう私の視線の先はすぐに友だちにばれてしまって、そんな風に忠告されたりもした。彼女たちが言う陸の姿は私が知っている彼とはまるで違うようで、それでいてあの日の彼の行動を裏付けていて、私はただ、そんなんじゃないよ、と彼女たちに答えるしかなかった。きっと私の気持ちが面倒で、それが陸を遠ざけている―――そう思うと、苦しかった。

毎日が、ただ何もなく過ぎていく。思えば思うほど、陸の笑顔や声や―――熱さが蘇ってきて、どうしようもなかった。毎日、なかなか寝付けない日が続いた。

またいつものようにベッドの中で何度目かのため息を吐くと、かたんと物音がして、暗闇のなかで望が部屋を出て行くのが見えた。ずっと眠れなかったかのような望は気だるげで、髪を苛立たしげにかきあげている。最近気になっていた望の俯きがちな表情が気のせいではないような気がして、ふと不安になった。望は、強い。そういつもみんなに言われているけれど、本当はそうではないことを私は知っているから。

「望、眠れないの・・・・・・?」
部屋に戻ってきた望に、私はそっと声をかけた。
「ごめん遥、起こした?」
「ううん、私も眠れなかったから。ねえ、そっち行っていい?」
ベッドから身体を起こすと、いいよという彼女の声が聞こえた。

「昔はよくこうやって寝たよね」
「ね。遥なんて台風の日とかぶるぶる震えてたし」
「あ、それはお互い様!」
「私は震えてなかったわよ」
昔を思い出してそう言ってくすくす笑っていると、望がそんなふうに言い返した。台風の日、いつも望は怖がる私を抱きしめて慰めてくれたけど、本当はその手が微かに震えていることを私は知っていた。そして、それを彼女が必死で隠していることも。
ふいに私はどうしようもなく心配になって、昔のように望に抱きついた。
「ごめんね、望。私がいつも先に怖がるから、望は怖がれなかったんだよね。私が先に泣くから、泣けなかったんだよね」
「・・・・・・そんなことないよ」
「そうなの!でも、辛い時は泣いていいんだよ・・・・・・?望は誰にも涙を見せないから、私、心配だよ」
家族の前でも、強がりを崩さない望。弱っていてもそれを認めることがなくて、どんどん自分の中に溜め込んでしまう望。
「ありがとう・・・・・・。私、遥のそういうところ、好きだよ。そういう、一生懸命なところ」
「・・・・・・単純ってことでしょ」
「違うよ、遥はただ素直なの」
顔をしかめて呟いた私を笑って、望は私の髪を昔のように撫でてくれた。
「だから、悩んでないで真っ直ぐ進めばいいんだよ?迷いそうになったら、ここに帰ってきたらいいんだから」
「・・・・・・知ってたの?」
「双子でしょ」
そう言って顔を見合わせて、私たちはくすくすと笑った。望がいてくれる・・・・・・それだけで前に進める気がした。



1つ戻る  トップへ  次へ