「…好きだよ」
笑顔でそんな言葉を呟くようになるとは、思いもしなかった。
そして。
そう囁いた相手に、幸せな顔をして欲しいと願うようになるとは。
自分の気持ちを伝えて、それに相手がどんな顔をするか。
囁いた相手の顔が少しでも曇るのでは…と考えた時、無性に不安になる。
幸せな顔をして欲しい。
笑って欲しい。
…この気持ちを受け止めて欲しい。
「…私も…好き」
極上の笑顔でそう返されて、初めてほっとする。
…ああ。
恋愛っていうのは、こんなにも大変な物だったのか。
幸せになりたい。
……そう。
共に幸せになりたいと願う相手がいる今、俺はきっとこれまで生きてきた中で本当の時間を過ごしているんじゃないだろうか。
去年のクリスマスイヴ。
あの時は、臨時採用の教師として冬瀬高校への赴任一年目だった。
…と言っても、臨採は大抵1年の約束なんだけど。
その後、俺はまた大学へ戻るつもりだった。
というよりは、そう約束しての教師だったからと言った方が正しいかもしれないが。
まぁ、そんなわけで普通に仕事をしていた。
明日の終業式の為に書類整理をしたり、通知表の確認をしたり。
そんな中で、生徒達はやけに浮かれて過ごしていたのを思い出す。
それを見て『ああ、今日はイヴか』なんて思った自分は、世の喧騒からすっかり離れた場所に居るんだな…と、少し笑えた。
大学時代から別れを切り出していないカタチだけの彼女が居たにはいたが、今更一緒に過ごすつもりもないし、何より残業。
普段ならば早く帰りたい所だが、まぁ…用事ないしいいか。
「帰らなくていいのか?」
そんな時、コーヒーを差し出してくれながら声を掛けてくれた人物。
ふと顔を上げれば、苦笑を浮かべた――…瀬那雄介教諭だった。
コーヒーを受け取りながら、ついこっちも苦笑が漏れる。
「そういう先生こそ、いいんですか?家族サービスは」
「家族サービスねぇ…。まぁ、子供もそういう年齢じゃなくなったしな」
「…それもそうですね」
そりゃそうだ。
孝之なんて、もう俺と同い年なんだし。
……あ…?でも――…
「でも、先生…。確か、お嬢さんいらっしゃいましたよね?」
「ああ、今年高校2年になる」
「じゃあ、帰りを待ってるんじゃないですか?お父さんの」
悪戯っぽい笑みを向けると、くすくす笑いながら首を振る。
「どうだろうなぁ…。…むしろ、そろそろ年頃だし、家族と過ごすのはこれが最後にならんもんかと思うがね」
「そんな事言っていいんですか?実際そうなったら、寂しいと思いますよ。…むしろ、彼氏を連れて来いって言うんじゃないっすか?」
「ははは、どうだろうな。でもまぁ、いきなり相手の男を殴ったりしないさ」
「どうですかねー」
そんなやり取りを人少なくなった職員室でしていたのは――…あー、もう去年の話なのか。
去年……。
随分と、この一年の間に心構えも変わったもんだ。
……まさか、あの時話していた『お嬢さんの彼氏』に自分がなるとはなぁ…。
…殴られなくて済んだからいいけど。
今頃になって、そんな話をしていたのを思い出した。
しかも――…
「…ぅ…ん」
「……あ。ごめん、起こした?」
「……せんせ…?」
少し身体をずらしたら、腕の中にあった温もりが動く。
気だるそうで、ひどく眠そうで…。
だが、それが自分のせいだというのが、何とも言えなくて限りなく愛しい。
「…ん?」
「……もぉ…ちゃんと被らなきゃ……」
小さく笑ったかと思うと、出ていた肩に毛布を掛けてくれた。
…ああもぅ。
「それはこっちの台詞。羽織ちゃんこそ、ちゃんと被ってないと――」
「温かいから…平気」
そう呟くと同時に、吐息が胸に掛かる。
……珍しい事もあるもんだ。
いつもは、こっちが半強制的に抱き寄せるのに。
半分無意識らしく、すり寄るように彼女が胸元に身体を寄せた。
だが、その幸せそうな顔で…つい笑みが漏れる。
『愛しい彼女と過ごすイヴ』
そんなモン、きっと一生無いと思ってたんだけどなぁ。
二人きりで過ごす為に、仕事を溜めないように自分から残業を買って出て。
振り返れば、これまでの平日は殆ど残業だったような気がする。
だが、そんなモンを引き換えにして得た物は、こうしてずっと大事な時間。
師走っていう言葉通りの立場になったわけだが、それでも今日明日だけはのんびりしたい。
その為に、ずっとこれまでやってきたんだから。
『残業よろしく』
なんて言われたら、即答しそうだ。
『可愛いあの娘が待っていますから』
しかも、笑って。
……ああ、馬鹿だ俺。
ふと浮かんだそんな馬鹿な考えすらも、幸せそうな顔を見せてくれている羽織を見ているとやりかねないよなぁと思う辺り、相当のめり込んでる証拠。
…そう言えば、去年のイヴは雪降ったよな。
今年はどうなんだろ。
――…そう言えば…。
「雪になるみたいですよ」
風呂上りに天気予報を見ていた彼女が、やけに嬉しそうな顔を見せたのを思い出した。
「雪?」
「うんっ。今降ってる雨、夜半過ぎに雪って」
彼女の隣に腰掛けながらオウム返しにすると、綺麗な指でテレビを指した。
「…雪か…。ヘタに降ると、凍るからな…」
「もぅ。折角の雪なのに…」
「いや、そうなんだけどね。ほら、車だし」
「けどっ!」
「あはは。ごめん」
社会人になってからというもの、雪はあまり歓迎した記憶が無い。
すると、案の定彼女に渋い顔をされた。
…いつ頃までだっけなぁ。
俺が、彼女と同じように雪を楽しみにしていたのは。
「…先生、雪嫌いなんですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「じゃあ――」
ぱっと表情を明るくさせた彼女を、そのまま腕に収める。
ほっとするような温もりと、自分と同じ匂いが広がった。
「…先生…?」
「明日雪で学校行けなくなったら、こうしてるか」
「……もぉ…」
「とか言いながら、ちょっと喜んでるクセして」
「えへへ。だって、それはそれで…ちょっと嬉しいんだもん」
はにかみながらそう笑った彼女が、心底愛しくて。
…あの時だったなぁ。
今夜は抱いて眠ろうと思ったのは。
念願かなって、今現在はお陰さまで誰に邪魔される事無く、その願望を叶えている。
雪が降る時って、結構温かいんだよな。
彼女の髪を撫でていた手が、自然に肩へと滑る。
滑らかで、自分しか知らない肌。
…そして、俺だけを許してくれる彼女。
いよいよ明日は、例のパーティ。
彼女は結局、先日俺に作ってくれたマフィンを持って行く事にしたらしい。
なんでそれを選んだのか聞いたら…返ってきた答えで、つい彼女にキスをしていた。
たまらなく愛しくて、誰にも渡したくないと思ったから。
『先生が食べてくれたから』
自分と同じように、彼女の中にも『俺』という存在が深く根付いている事が分かって、心底幸せだと感じた。
「…愛してる」
安らかな寝息を立ててくれる彼女に、瞳を閉じて呟く。
どうか、これから先も彼女との幸せが続きますように。
どうか、これからもずっと…共に幸せを歩んでいけますように。
不思議なもんだよな、人間って。
クリスマスは、七夕みたいに願を掛ける日じゃないのに。
それは分かっているんだが、つい願う。
きっと、今日が他の日とは違う――…神聖な日だという事を無意識に自覚しているからだろう。
異教徒がどうのと言う人間も居るが、世界中がこの日を祝福し、共に幸せを願う人々と過ごす。
それは決して悪い事じゃないし、何より…神っていう存在が本当に居るのならば、有無を言わずに許すものだと思うのだが。
人々が、平等に幸せを求めるのだから。
明日も、きっといい日になるだろう。
クリスマスという、特別な日だから。
願わくはどうか…幸せを求める全ての人々に、神のご加護があらんことを。
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