「…総帥?」
「………はぁ…」
漏れるのは、ただため息ばかり。
…一体、どうしてこんな事になったんだろうか。
頬杖を突いたままガラス張りの壁を見ると、景色が少し褪せて見えた。
…単純なヤツ。
たった1つ、これまでと違うだけなのに。
……それなのに、仕事にまで支障をきたして、普通じゃいられないなんて。
『 瀬那 羽織の入出を禁ず。瀬尋 祐恭 』
たった一行記した紙を、部屋のドアに貼り付けたあの日。
…そう。
あの日から、俺は彼女と寝室を共にする事はなかった。
それだけじゃない。
当然、キスもしていなければ、会話も…ロクに。
仕事が忙しいからと自分に言い訳をして、重い身体をベッドに沈める。
…そんな日が、あれから一体どれだけ続いている事だろう。
「…………」
指折り数えてみると、約一ヶ月。
…そうか。
もう、そんなに経っていたのか。
「……はぁ」
もうそれだけの数、彼女という存在に触れてすら居ない。
その事実を改めて実感し、深くため息が漏れる。
…まさか、あんな事言われるなんて思わなかった。
あんな澄んだ瞳で、『私のこと、嫌い?』なんて――…言われるとは。
……参った。
正直言って、本気で相当。
「……マジ――…っだ!?」
勘弁してくれ、なんて言葉を続けようと思ったその時。
そんな考えは、あっけなくへし折られるかのように無残に散った。
「人が話し掛けてんだから、きっちりこっち向けよ」
ぐきっと音が聞こえた。
何のって、勿論…首の。
「っ…てぇ…!」
人が落ち込んで居たと言うのに、容赦と言う二文字すら与えてくれない人間。
……そんなのは、知り合いに一人しか居ないに決まってる。
「稔!!」
「ご名答」
首をさすりながら向けた視線。
その先に居たのは、やっぱり機嫌の良さそうでない若社長だった。
「何を『はぁ』だの『ふぅ』だの言ってるんだよ。…仕事中に、なってませんね。総帥?」
「……いつから居たんだ」
「…ん?そうだな。……何やらエロい事考えてそうな辺りから」
「してない」
顎に手を当てていかにも真面目そうな顔をしたくせに、出てきたのはやっぱり彼らしい言葉。
それは大方予想出来ていたので、当然きっぱりと否定してやる。
「ま、それは冗談にしても、割と前から居たけど?」
「…………」
ぱさり、と幾枚かの書類を机に広げた彼を見ると、軽く肩をすくめてから小さく笑った。
…この顔。
これは、絶対に何か企んでる時の顔だ。
……いや、むしろ何か要らぬ事を言われるんじゃ――…
「『自分、恋してます』って顔してるぜ?」
……ほらやっぱり。
「…なんだそれ」
「何って、俺は思った事を言ったまで。別に否定も肯定も求めちゃいない」
眉を寄せて彼を見るも、ひらひらと手を振って机にもたれるだけ。
…やっぱり、敵わないのだろうか。
昔から、どうも彼は付き合いがある割りに苦手だ。
「でも、珍しいな。祐恭が女の事で悩むなんて」
「…別に」
「ほぅ?否定しないのか」
「っ…それは…」
にやっと見せられた笑みで、思わず我に返る。
が。
当然そんなモノは遅過ぎて。
「…………」
「そんな嫌そうな顔すんなって」
「……別に」
「おー恐い怖い」
…しっかりと、彼の術中にハマったようだ。
「そういや、珍しいな」
「…何が?」
「それ」
ぴ、っと指されたモノ。
それ――……
「………別に」
「別に、ね。さっきからそれしか返ってこねぇな」
「…うるさいな」
彼から視線を外して、眼鏡を直す。
…相変わらず、鋭い。
普段俺がデスクワーク中は眼鏡を外すクセがある事を、しっかりと把握していたらしい。
「何か『隠し事してます』って主張してるんだって、分からないか?」
「っ…」
「まるで、『直接目を見られたら困る』、みたいに俺には見えるけどね」
いきなり目の前で呟かれ、情けなくも瞳が丸くなった。
…バレてた、んだろうか。
いや、しかしそんな事は。
「……………」
「…ん?今度は『別に』じゃないんだな」
「……別に」
「はは」
腕を組んだ彼にそっぽを向いて呟くと、それはそれは可笑しそうに笑い声を上げた。
…参った。
どこまで知られてるとかって言う、問題じゃない。
これはもう、きっと――…彼には全てバレてるんだろう。
ああ、そうだよ。
どうせ、くだらない事で悩んでるよ。
『色恋沙汰なんかを仕事に持ち込むのは、規則違反以下』
いつもはさらりと言っているクセに、自分の事になったらてんで違う。
「…駄目なトップだな」
「分かってるじゃないか」
「……フォローなしかよ…」
「当たり前だろ?仕事は仕事、プライベートはプライベート」
確認をしながらサインした書類を彼に渡すと、それを見たままで冷たく言い放たれた。
…別に期待なんてしてないが、せめてもう少し――…
「ま、とにかく。きちっとカタを付けて下さいね?総帥」
「…何を…?」
「……言うまでもないだろ。仕事に持ち込む程大切な、誰かチャンの事」
「っ…」
ぴく、と反応してからようやくこちらに向けられた視線は、どこか呆れたようなモノだった。
……分かってるよ。
俺だって、それ位。
…そう思って、彼を見てみる。
――…が。
「………了解」
軽く手を挙げて出たのは、情けない位の笑顔でしかなかった。
「ん。それでは、失礼します」
「ご苦労様」
軽く頭を下げてから部屋を後にした彼を見送り、椅子ごと再び景色へと向かう。
…広い空だな。
良く晴れた、一面に広がる青い空。
今頃――…彼女も、この空を見ているのだろうか。
「…………」
そう、彼女の事を思った時。
なぜか、それまで感じなかった眼鏡が、やけに邪魔だと思えた。
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