「あのねぇ! 今はバイト中だって言ってんでしょ!? 客だったら客らしく、注文しなさいよ!」
「注文? んー……そうだなー」
 イライラしながらメニューを叩くと、そこで初めて気が付いたかのように彼がそれに目を落とした。
 ……どうやら、ようやく本気で注文してくれるつもりになったらしい。
 ったく。
 もっと早くやれっつーの。
 落ちてきた髪を撫で付けてレジへ手を置き、彼の注文を待つ。
 ……待つ。
 ……待つ……。
 っ……遅い……!!
「ちょっと、中宮く――」

「じゃ、スマイルひとつ」

「……は……ぁ?」
 がばっと顔を上げて笑顔を見せた彼に、眉が寄って情けない声が出た。
「だからぁ、スマイルだって。スマイルー」
「そ……ンなもの、扱って――」
「あるじゃん、ここに。『スマイル ¥0』って」
 怒りを通り越して呆れてしまい、身体から力が抜ける。
 ……マジ……?
 ていうか、今どきスマイル』なんて頼むほうも頼むほうだけど、メニューに載せておくほうも載せておくほうよ……。
 ここでバイトを始めてから一度たりとも受けたことのなかった注文に、口が開いた。
「ほらー。スマイルひとつちょーだい」
「……今忙しいんだけど」
「えー? ダメだよ? 委員長ー。お客様は神様じゃん?」
 携帯を開けては顎で閉め、開けては閉め……を繰り返している彼に、怒りで拳ができた。
 ……もうだめ。
 っていうか、ホントもう無理。
 …………ごめんね、店長。
 さすがの今回ばかりは、私の堪忍袋の緒も切れた。
 っていうか、糸数本でしか繋がってない!
「……っるさい……」
「ん?」
「うっるさいわよ、馬鹿!!」
「……ほへー」
「こっちはねぇ、バイトしてんの! 忙しいの! わかる!? アンタの茶番に付き合ってる暇なんて、これっぽっちも――」
 ばしばしとメニューを叩きながらまくしたてた、そのとき。
 おもむろに、彼が目の前へ手のひらをつき出した。
「な……によ……」
「じゃ、ホントの注文ね」
 そのときの彼は、それまでのへらへらしたような笑顔じゃなかった。
 やけに高圧的で、やけに偉そうで。
 ……だけど、その表情で、何も言葉が出てこない。

「携帯の番号、教えてくれたらどいてあげる」

「な……! ちょっと待ってよ! だって、今、ちゃんと注文って――」
「これ以上ここで邪魔されてもいいワケ?」
「っ……」
 まるで、弱みすべてを握ったかのような彼に、眉が寄った。
 ……ハメられた。
 そんな、なんとも感じの悪い気分でいっぱい。
 …………これまで、絶対にしなかったのに。
 危ない橋なんて渡らなくて済むように、いくつも道を用意していたのに。

「……っく……」

 ――……18年目になって、いきなり歯車が狂い始めるのを感じた。

「おはよー」
「………………おはよ」
「あっれー? どしたの? 実花。そんな顔して」
 校門に入ると同時に肩を叩かれ、思わずよろけて転ぶところだった。
「……あふ……」
「珍しいね。寝不足ー?」
「……眠い」
 朝、家を出る時からずっとこの調子。
 あくびが止まらなくて、涙が浮かぶ。
 まぶたも重くて、身体も疲れてて。
 ……それもこれも、ぜーーんぶアイツのせいだ。
 あの、中宮未継(なかみや みつぐ)その人の。
「ミッチー、おっはー」
「ぉいーっす」
 ぴく。
 軽薄そうな声に、耳が反応してしまった。
「あはは。相変わらずだねー。ミッチーって」
「ぶは!? ちょ、ちょっと! なんで、莉子(りこ)までンな呼び方なわけ?」
「えー? だって、言いやすいんだもん」
「そんな理由!?」
 突然、第一の親友までもが彼のことをそんな愛称で呼び始めた。
 ……ちょっと待ってよ。
 っていうか、中宮!!
 アイツは人の友人まで丸め込む気!?
 彼は悪くないとか言われそうだけど、でも、やっぱり許せなかった。
 ……っくぅ……!
 何がミッチーよ、何が!
 アンタは何気取りだっつーの!!
「……あっれーぇ?」
「っ……!」
 遠くで聞こえる馬鹿笑いに振り返りもせず、莉子の手を引いて昇降口へ向かっている、途中。
いきなりあがった大きな声に……嫌な予感が背中を走った。
「みかりん、おっはよーん」
「は!?」
「……みかりん……?」
 満面の笑みを伴っていそうなさらに大きな声。
 それが聞こえた途端、血の気が引く。
 ……ちょ、ちょっと待ってよ莉子。
 そんな目で私を見るのはやめて!!
 私は全然関係ないんだからね!?
 アイツが、今、いきなり言い出しただけなんだから!!
 そういう意味を込めて首を振るものの、私と彼とを見比べながら、口元に手を当てるだけだった。
「!!」
 ……はた。
 そこで、周りの異変にようやく気付いた。

 その場にいたほとんどの人間が、奇異の眼差しで私を見ていたことに。

「……へー。何? ミッチー、春日さんと仲良かったんだ?」
「そりゃあもー。なんせ、昨日はひと晩中ベッドで愛を語ってたんだから」
「こらぁーーー!!!!」
 さらりととんでもないことを言い出した彼に、反射的に振り返りながら声があがった。
「ちょっと、中宮君!! そんな嘘を言いふらさないでよ!」
「なんでー? 嘘じゃないもん」
「嘘でしょうが!! 誰が愛を語ってたのよ、誰が!!」
「えー? だってほら、ひと晩中電話で喋ってたじゃん?」
「ただ、電話してただけでしょ! それに、中宮君が一方的に喋ってただけじゃない!!」
 ……そ、そりゃあ確かに事実は事実だよ?
 さぁ寝るかってときにいきなり電話がかかってきて、夜中までずーーっとくだらない話に付き合わされたことは。
 だけど!
 だからって、何もこんなところで言わなくてもいいと思わない!?
「だいたいっ! 声が大きいのよ、声が!!」
 ずかずかとそちらへ大またで近寄り、顔面へびしっと指をさしてやる。
 だけど、彼はいけしゃあしゃあと平然な顔で鞄を小脇に抱えた。
「間違ってないじゃん?」
「間違いだらけじゃない!!」
 しれっと答えた彼に思い切り首を振り、キッと睨んでやる。
「……ね、ねぇ、ちょっと実花ぁ……」
 ――……と、莉子が腕を引っ張った。
「何!? ……あ」
 ついつい彼に対していた勢いそのままで振り返ってしまったので、当然彼女は驚いて瞳を丸くする。
 ……しまった。
 こんな顔、莉子に見せるつもりなんてなかったんだけど……。
 慌てて『ごめん』を言ってから胸の前で両手を合わせると、くすくす笑いながら『周りを見ろ』とばかりに顎で――……。
「んが!?」
 そこには、まるで円を描くかのごとく……沢山の人山ができあがっていた。
 ……うわ。
 っていうか、ホント勘弁してよ……。
「ミッチー、朝からやるじゃん」
「元気いいよなー、相変わらず」
「はっはっは。これもまぁ、日ごろの行いってヤツ?」
「だーー!!!」
 遠くのほうで、拍手と指笛で盛り上がっている彼らに、がっくりと首が折れると同時に深いため息が漏れた。
 ……もう嫌だ。
 これまでどれだけ叩いても崩れることがなかった私の『安寧な高校生活』という石橋が、音を立てて崩れ落ちるような……。
 そんな光景を、このとき私はしっかりと見た気がした。


  ひとつ戻る  トップへ  次へ