「うっし。それじゃ、頼んだぞ? みかりん」
「先生!! 先生までそんなふうに呼ばないでください!!」
「あっはっは。いやー、すまんすまん。でも、今流行ってるんだぞ? これ」
「流行ったりしません!」
 職員室で担任からプリントの束を受け取ると、彼が豪快に笑った。
 ……うあ。
 とうとう、たちの悪い中宮菌は教員連中にまで蔓延し始めたらしい。
 …………いけない。
 こんな中だからこそ、唯一の抗体ワクチンを持つ私がしっかりしなくては。
 楽しそうに『がんばれよ』とか言っている彼を見たら、ぐっとそんな思いが湧き上がった。
「失礼しました」
 両手で抱えなければ持ちきれないほどのプリントを手にしながらも、職員室を出るときはしっかりと頭を下げる。
 ……あー。
 私、こういうところはやっぱり律儀よね。
 これまでの習慣はどうしたって抜けないし、省略することもできない。
 きっとこんな性格だから、未だに学級委員っていうモノに推薦されるんだろう。
「……重い……」
 ふらふらっとしそうになる、プリントの量。
 ざっと見積もって、恐らく15cmくらいにはなるんじゃなかろうか。
 どんだけ量があるのって思うけれど、文句は当然言えない。
 内申のためとかっていうのもまぁないわけじゃないけど、教師にタテ付かないほうが身のためだとは思うしね。
 階段を上がって踊り場を曲がり、もう半分階段を上がる。
 ――……と。

 どんっ

「っわ!?」
 いきなり誰かがぶつかってきて、足が――……滑って段を踏み外した。
「いっ……!!」
 幸い、前に倒れたから手を付くことはできたけれど……プリントは見事にあちこちへと広がってしまった。
「……うわ……」
 ひらひらと舞う数十枚のプリントを眺めながら、しばし呆然と――……してる場合じゃなかった。
 慌ててそれらを掻き集め、トントンと揃えてから端に寄せる。
「っていうか、邪魔なんだけどー」
「え!? あっ、ごめんなさい!」
 ただでさえ人通りがあるこんな場所でぶちまけるなんて、迷惑この上ない。
 もしも私がここを通っているひとりだったら、やっぱり――……迷惑そうな顔をしてしまったかも。
 ――……だけど。
「え……?」
 今、私にそう言ったその子は、通り過ぎるのかと思いきや……目の前で立ち止まったのだ。
 ……しかも。
 聞こえてくる、かすかな笑い声。
 異変に、眉が寄ったまま視線が上がる。
「こんなトコで転ぶなんて、よっぽどトロいんじゃない?」
「この子、9組の子でしょ? ……あー、なんだっけ。みかりん?」
「あ、そうそう! そういえば、いたねー」

「そういう馬鹿っぽいヤツ」

「な……!!」
 吐き捨てるように嘲り、下品な笑い声を上げてこちらを指差す――……数人の生徒。
 そのせいか、まったく面識のない生徒数人も足を止めて私を見た。
「ッ……」
 恥ずかしい、なんてモンじゃない。
 ただでさえ、盛大にプリントをぶちまけたことで注目を浴びてるのに、さらなる注目を浴びるなんて。
 ……まっぴら御免だ。
 これだから、嫌だったんだ。
 だから私は、目立たないように生きてきたのに。
 ……こんな場所は、私がいるべきところなんかじゃないんだから。
「…………」
 無言でプリントを掻き集めながら、手元だけを見る。
 ……泣くな。
 泣くな、春日実花。
 こんな場所で泣いたりしたら、恥の上塗り。
 彼女らに、余計なエサを与えるだけ。
 溢れそうになる涙をまばたきして誤魔化し、唇を噛んで耐える。
 ……嫌だ。
 本当に、本当に嫌だ。
 本音を言えば、こんな場所から逃げ出してしまいたいのに。
 だけど、逃げるのは嫌だから。
 …………こんなときまで、馬鹿正直なんかじゃなくていいのに。
 そうは思うけれど、やっぱり逃げ出すなんてことはできなかった。

「これはこれは、9組の春日代表」

「っ…………な……」
「どーした? こんな場所で」
「だいじょぶかー? みかりん」
「……つーかさー、誰も手伝ってやらねーってどーよ?」
「こっえー! てか、アレだ。よっぽどみんな、余裕もゆとりもないカワイソウな子なんじゃん?」
 あははは、という大きな笑い声。
 いつもと同じ、軽そうな笑顔。
 ……そんな、見慣れたいつもの彼らが、そこにいた。
「ほいっ。だいじょぶ?」
「……あ……」
「これで全部?」
「……だと……思う」
 大きな声でまくしたてながら、彼らはプリントを拾って手渡してくれた。
 ……これまで、誰も手伝ってなんかくれなかったのに。
 それに――……。
「あー! あそこにまで飛んでんぜー」
「よーっし。んじゃ、肩車だ」
「バーカ! 誰が男なんか乗せんだよ!」
「あはは!! 言えてる!」
 正直、彼らが助けてくれるなんて思わなかった。
 いつも私のことを『みかりん』呼ばわりして楽しんでるだけだ、って。
 ……私はずっと、そう思っていたのに。
 なのに…………どうして。
「いよーっし。任務完了であります!」
「おっし、ご苦労! みなの者、引けー! 引けぇーい!」
 まるで時代劇のクライマックスみたいな口調で中宮君が声をあげると、彼らがばたばたと音を立てて階段を駆け上がっていくのが見えた。
 ……そのとき。
 あの、私を馬鹿にしていた女子たちが、どことなく悔しそうな顔をしているのも目に入った。
「だいじょぶか? みかりん」
「……中宮君……」
 目の前にしゃがんで、手のひらを差し出した彼。
 ……やっぱり、その顔にはいつもと同じ笑顔が浮かんでいて。
 …………なんなのよ……。
「……っ……」
「ん? みかりん?」
 彼を見た途端、急に瞳が潤むのがわかった。
 ……カッコ悪い。
 これまで泣くまいと我慢していたのに、ここにきて泣くなんて。
 目の前の彼なんかの前で、泣いたりしないってずっと気を張ってたのに。
 それなのに――……。
「泣くなってばー。な? もう大丈夫だからさぁ」
「っ……う……」
 授業の始まるチャイムが響くものの、身体が動かなかった。
 ……彼の優しさは、確かに嬉しい。
 嬉しいけれど、でも――……。
「ごめんな? アイツら、8組の連中でさ。どーやら俺に気があるらしいんだよねー」
「…………」
「そんで、俺がみかりんばっかり構ってるから、いわゆるヤキモチ? みたいな」
「…………」
「でもほら! アイツらにはちゃんと言っておくからさ。今度みかりんに手を出したら、タダじゃおかないぞーって」
「…………」
 俯いたままの私に、彼はずっと声をかけてくれていた。
 ……私が泣いてるのが、わかってるからだろう。
 そして……彼自身もきっと、困っているんだ。
 いつもみたいな私じゃないから、間が持たなくて。
「みかりん……? なぁ、泣くなよー」
 そっと頭に彼が手のひらを置いて、ゆっくりと……撫でてくれた。
 いつもだったら、『子ども扱いしないで』とか言っていたと思う。
 ……だけど、このときばかりは手も口も出なかった。
 ――……彼に対して、あるひとつの思いだけで頭がいっぱいだったから。
「……中宮君」
「んぁ? どした? みかりん」
「……あのね……」
「ほいさ?」

「アンタのせいよ、馬鹿ぁああー!!」

「わー!?」
 涙を拭わずに顔を上げ、真正面から彼に向かって大声が出た。
「みかりん、じゃないわよ馬鹿! だいたいねぇ、アンタのせいで私がこんな目に遭ったのよ!?」
「……み……みかりん?」
「黙って聞いてれば、何よ! えぇ!? どれもこれも、アンタのせいじゃない!! とんだとばっちりよ! いい迷惑よ!!」
 これまで溜まってた鬱憤が、ここに来て一気に爆発した。
 今はもう授業中だとか、ここは声が響く廊下だとか、そういうのはもう、どーでもいい!
 んもーー我慢できなかった!
 彼という人に対しての、これまでの鬱積を晴らすまでは!!
「ちょ、ちょっと待ってよ、みかりん!」
「えぇい、うるさい!! みかりん言うな!!」
「あ、ちょっ!? み、みかりん!?」
「うっさい、馬鹿ーーー!!!」
 ダンダン、と1段ずつ大きな足音を立てながら階段を上り、教室を目指す。
 そのとき、独り取り残された彼がこの期に及んで『みかりん』呼ばわりをしていたけれど、当然無視。
 もう、どーでもいい。
 そりゃあ確かに助けてくれたのは嬉しいけれど、どう考えたって彼が悪いんだから。

 ガラッ

「……か……春日?」
「なんですか!?」
 瞳を細めて歯を食いしばったまま荒く階段を上って教室に入ると、誰も何も文句を言う人は居なかった。
 当然よ、当然。
 今の私は、それこそ危ういんだから。
 相手が先生だろうと誰だろうと、まさに一触即発状態。
 ――……ちなみに、このとき。
 あとで莉子から聞いたんだけれど、私は相当ものすごくゴツくて怖い顔をしていたらしい。


ひとつ戻る  トップへ  次へ