「は!?」
ヴァイオリンをしまいかけていた彼が手を止めて、私を見つめた。
「だから、綜のはちまきちょうだいって言ったの」
そう言いながら両手を差し出す私。
その様子を見つめながら―――彼は少し眉を寄せて、冷たく言い放った。
「んなこと出来るわけねぇだろ」
「なんでよっ」
「マラソン大会あるの忘れたのかよ」
「知ってるわよ。だから、私は大会が終わってからちょーだいって言ってるの」
「ワケわかんねぇ。…なんではちまきなんか欲しがるんだよ」
「だって、欲しいんだもん」
「だから、なんで」
「なんででもっ!綜のはちまきがどーしても欲しいのっ!!…それとももう他に欲しいって言ってる人がいるの?あげるって約束しちゃったの…?」
綜の部屋。
いつものように綜のヴァイオリンを聴いて、そしていつものように最後に私が大好きな『星に願いを』を彼にねだって。
そしてそれを弾いてもらってすっかり満足した私は、ずっと心に秘めていたことを彼にお願いしたのだ。
「綜の、はちまきが欲しい」って―――。
綜は、私より三つ年上だから現在小学六年生。
今年小学校卒業の年だ。
ウチの小学校は春の陸上競技大会とか、年明けてすぐに行われる新春マラソン大会とかそういったものは全てクラス対抗になっていた。
だからクラスごとに色分けされていて、みんなはそれぞれのクラスの色のはちまきをしてそういう対抗戦に出る。
そしてマラソン大会が終わると、もうその年度はそういう競技大会とかはないから女子は好きな人のはちまきを貰おうと、この時期になると毎年必死になっている。
今まで綜が誰かにはちまきをあげたっていう話は聞かないけど…。
でも、今年でもう卒業だから…だから、他の女子が欲しがるかもしれない。
性格はアレだけどさ、顔はちょっとかっこいいと幼馴染の私でも思うし、それにヴァイオリンなんかやっているから実は結構彼のことが好きな子っているらしい。
これは綜のお姉さんの彩ちゃん情報だけど、ね。
…だから、だから他の人が欲しいって言う前に、私が一番最初に彼にはちまきが欲しいって言いたかった。
バカみたいだと思われるかもしれないけど、はちまきだけじゃなくて彼の心まで盗られちゃいそうな気がして―――。
そんなのはイヤだった。
どうしてそう思うのか、その時は深く考えたこともなかったけど、とにかく絶対にイヤだった。
けどさ、ほんっとうに綜ってそういうオトメゴゴロが分からないんだもの。
すんごく不思議そうな顔しちゃってさー。
「…なんか色々言ってくるヤツはいるが、話を聞いたことないんでよく分からん。…今考えるとお前と同じこと言っていたような気はする」
…やっぱり。
でもよかったー。綜がこーゆー性格で。
人の話聞かないもんねー。
「そっか、誰かにあげるとかいうことはないんだねっ。じゃぁ私にちょーだいっ!!」
今から考えてもほんとに現金だったなーと思うけど、とにかく綜が誰かにあげるって約束をしたわけじゃないって聞いたらすんごく気分がよくなって。
満面の笑みで私は綜へ再び両手を差し出した。
――が。
――ペチッ――
「いった〜いっ!!」
事もあろうに、彼は私の手を叩いたのだ。
「なっ…なにすんのよぅ!」
それほど強く叩かれたわけじゃないけど、思わず私は手を押さえて綜を睨みつけた。
それにも動じず、ニヤリと彼は意地悪な笑みを浮かべた。
「誰がタダでやるか。俺の血と汗が染み込んだ貴重なモンだぞ」
「なによ、それっ!?」
汗なら分かるけど、血って何よ!?おおげさなっ。
それに…し…信じらんない。お、お金取る気!?
しかも年下の幼馴染にっ!?
ぶーっとむくれて再び綜を睨んだら、彼はちょっと面白そうに私を見た。
…バカにしてっ!
そう思ってプイっとそっぽを向いたら、綜の顔がいきなり前に現われた。
「!!」
びっくりして尻餅をつきそうになった私を、綜は転ばないように手で支えてくれながら言った。
「働かざるもの、食うべからずっていう言葉、しらねぇのか?」
「?」
首を傾げる私。
「タダで手に入れようなんて、考えが甘いな。そんなんじゃ将来苦労するぞ」
「なっ…な…!」
ひどいっ!
綜ったら自分のモノ売っておこずかいにするつもりなんだっ!
お医者さんの息子のくせしてっ!ウチよりお金持ちのくせにっ!!
…でも欲しいんだけどな、綜のはちまき。
い…いくらで売ってくれるつもりなんだろ。
思い切って金額を聞こうと口を開きかけた時―――。
「完走してみろ」
「は!?」
思いがけない事を綜が言い出して、私は思わず聞き返した。
「だから、今度のマラソン大会。完走してみろ。…それが条件だ」
「かんそー?じょーけん?」
「…マラソン、最後まで走ってちゃんとゴールしたら俺のはちまきやる」
「…ほんとっ!?」
「…ああ」
「ほんとにほんとだねっ!?ゴールしたら綜、はちまきくれるんだねっ!?」
「…しつこい」
「じゃぁ頑張って走るっ。だから綜、約束守ってよね」
「男に二言はねぇよ」
「なに?にごんって」
「…約束は必ず守るってことだ」
「うんっ!!」
そんなわけで、私はいつになくルンルンワクワクウキウキ気分でマラソン大会を迎えた。
…でもさぁ、すっかり忘れてたけど私、そ…そんなに運動神経いい方じゃないんだよね。
三年生は男女とも2キロの距離を走るワケだけど…、これがまた結構つらいし、長い。
先生も「無理して走らなくてもいいから、つらかったら歩きなさい」って言ってくれてるけど。
確か綜は「最後まで走ったら」って言ってたから…歩いちゃダメってことだよね?
2キロずぅぅぅっと走り続けなきゃダメなんだ。
…うう〜。
で、でもでも!頑張るもん!!
そいで、綜のはちまきずぇったいもらうんだからっ!
おーっ!!
マラソンは、上の学年から順番にスタートしていく。
当然六年生が一番長い距離を走る。
けど、遅れると…あとからスタートした下級生に抜かれるってこともあるわけで…。
それがすんごくかっこ悪いから、上級生は先にスタートすることを嫌がっているって宗ちゃんが言ってたけど。
宗ちゃんは足速いからそんなこと心配しなくてもよさそうだけどね。
綜は…宗ちゃんと双子なんだし、運動神経悪そうじゃないからやっぱり下級生に抜かれるなんてことなさそうだし。
そんなことより、自分のこと。
ヘタすると…二年生の子とかに追い抜かれるかもしれない…。
…ま、まぁいいか。
綜は、順位のことはなーんにも言っていなかったし。
つまり走ればいいわけだし。
そう自分に言い聞かせながらスタートしたんだけど…。
…つらい。
すんごくつらくてくるしーよぉ!
い、いまどのくらい走ったんだろう。
体育の時間に同じコース走らせられたけど、こんなに苦しかったっけ?
半分はもう走ったと思うけど…。
―――ああ、あの上り坂をこえて真っ直ぐ走って、道路を渡れば学校だ。
後は、グラウンドを一周すればゴールだっけ。
もうちょっとじゃない。
…頑張ったぞ、優菜。
綜はもうゴールしているかなぁ。
宗ちゃんとどっちが先だったんだろう。
もう苦しくて仕方なくて、私はただもうずぅっと綜のことばかり考えながら走っていた。
…といっても、きっと早歩きといっていいほどの速度だったと思う。
けれど、そんなことはどうでもよかった。
「最後まで走ってちゃんとゴールしたら俺のはちまきやる」
あの時の綜の言葉しか、頭にはなかったから。
とにかく、走りぬくんだ。
そいで綜にはちまきもらうんだ。
苦しさを忘れるために、私は必死にそう心の中でつぶやいていた―――。
「いったーい」
上り坂の途中、足がもつれてちょっと突き出ている石につまづいて思いっきり転んでしまった。
うー…痛いよぉ…。
泥だらけになった体操着をはたきながら、身体の様子を見てみる。
…よかった、ちょっとひじをすりむいているくらいだ。
あ、でもひざも痛い。
…思いっきり打ったからなぁ。
どーしよう…ってもうここを上りきったらすぐに学校だし。
こんなところで立ち止まっていても、仕方ない。
ゴールする方が先だ。
学校へ戻ったら手当もしてもらえるし。
…なによりも綜に会いたかった。
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