「…………は」
 やべぇ、読んでた。
 今何時だ。
 ふと我に返った瞬間、あたりが静まり返ったような気がした。
 ……うわ、フツーに読みこんでた。
 うっかり、昔々のまだ手を出していない本に巡り会ったせいで、恐らく今はかなりの時間が経っていると思われる。
 生憎、腕時計なんてモンは持ち合わせていない。
 理由は、スマフォで時間がわかることと、図書館は各所に時計が設置されていることと……あともうひとつは、単にぶっ壊したから。
 とはいえ、今日はそのスマフォが手元にない。
 そして、この書庫にも時計なんてもんはなく。
「………………」
 やべ。
 ぜってー、野上さんテンパってる。
 カウンターで貸し出し業務をあわあわしながらやっている彼女の姿が目に浮かび、『それも勉強だな』と一瞬思う反面、戻ったほうが俺の仕事が増えなくていいような気もする。
「…………」
 仕方なく、読みかけの本を元に戻しがてら、カウンターに戻ることにした。
 ……続きは午後だな。
 重たいドアに鍵をかけ、駆け下りるように何段か飛ばして階段を下る。
 やっぱ、朝が慌しいと1日せわしねーな。
 4階からエレベーターに乗り込みながらそんなことが浮かび、ため息が漏れた。
「あ」
 エレベーターを降りてすぐ、ずらりとカウンター前に列ができてるのを見つけた。
 あーあ。
 こっから見てると楽しいモンだが、中にいる本人にとっちゃ地獄かもしれない。
 まるで漫画か何かのようにくるくる動いている野上さんを見ながら、ふとそんなことが浮かんだ。
「どうぞ」
「あ!」
 彼女の隣に立ち、次の学生に手を出す。
 こういうのは、ひとり並ぶとどんどん並ぶんだよな。不思議なモンで。
「返却は、2週間後です」
 ようやく最後の学生に本とカードを返すと、目の前の雑誌コーナーにかかっている時計はちょうど12時半を示していた。
 途端、野上さんがため息を漏らす。
「んもー、瀬那さん! もっと早く帰ってきてくださいよ!」
「いや、ほら。なんつーか……やっぱあそこはヤバい。魔力だな」
「そんな呑気なこと言ってる場合じゃないですよ! んもー。そりゃ確かに? 気持ちはわかりますけどね。でも、何もお昼休み削らなくてもいいじゃないですか」
「別に、ハナから削るつもりはなかったんだけど」
 唇を尖らせた彼女に苦笑を浮かべ、椅子に座る。
 ……あー、やっぱこの椅子イイな。
 俺専用とばかりに執務室からパクってきて、大正解。
 普段、雑用と称してカウンター業務ばかりを押し付けられているせいか、このことに関しては誰も何も言わなかった。
 ……ただひとり、彼女を除いて。
「野上さん、メシ食ったの?」
「とっくですよ、とっく。しっかり、ドルチェまで食べました」
「……あ、そ」
 ドルチェの『ル』の部分をなぜか巻き舌調で喋った彼女に、肩をすくめてそのままカウンターを出る。
 正直、蔵書庫にいたときは特にメシを食いたいと思わなかった。
 それほど集中していたのは事実だし、むしろそうなると食っちゃダメなタチで。
 時間を空けると、そこで途切れる。
 ぷつん、とそれはもう、見事に。
 だが、そうは言っても今はすでにメシモード。
 今日の日替わり定食が気になり始め、そういやうっかり予約しておくのを忘れたのに気付いた。
 いつもは、朝大学に来てまず立ち寄るのが学食。
 仕込みを始めてるおばちゃんたちに挨拶を済ませ、その日のランチを押さえておいてもらうのが常。
 それはもちろん特別待遇であることに間違いなく、当然のようにおばちゃんたちには頭が上がらない。
 これまで、どんだけおまけしてもらったことか。
 お陰で、どれほど昼休みギリギリで顔を出しても、決して食いっぱぐれることはなかった。
 ……そういや、さすがに財布は持ってきたよな。
 嫌な予感にいつも入れてるポケットを叩くと、そこにはちゃんと財布が入っていた。
「……あ?」
 図書館の重たいガラス張りのドアに手をかけたところで、後ろから声がかかった。
「言い忘れてたんですけど、さっき瀬那さんのこと訪ねて来た女の子がいましたよ」
「俺を?」
「ええ。なんでも、瀬那さんの知り合いとかって言ってましたけど……」
 カウンターの中で立ち上がった彼女に身体を向け、腕を組む。
 知り合い、ね。
 そう言われてもピンと来ないだけに、眉が寄る。
「くふふ。かわいい子でしたよぉ? 今付き合ってる彼女さんですか?」
「いや、今は誰とも付き合ってないから」
「え、そうなんですか? なぜです?」
「なぜって……そこ、野上さんに説明必要?」
 いかにも楽しいことを見つけたかのような顔の彼女へため息をつくも、『いいじゃないですか教えてくれても!』とテンション高くなぜか逆切れされた。
 もしかしたら、知り合いかもしれない。が、それだけじゃわからない。
 ……あー。
 やっぱ、スマフォねぇと不便だな。
 今日誰かと約束をしていた記憶はないが、ひょっとしたらメッセージは届いてるかもしれない。
「まぁ、用事ならまた来るだろ。名前と連絡先聞いといて」
「……もー、アバウトですね。でもま、わかりました」
 誕生日である今日は、毎年まず誰かと約束することはない。
 それだけは確かだ。
 ……つっても、誰だろうな。
 知り合いつったって、わざわざ俺を訪ねてくる時点でピンと来ない。
 いくらなんでも、羽織が来れば妹だって言うだろうし。
 …………ま、アイツはぜってー来ねぇけどな。俺のトコには。
 一瞬よぎった考えに顔が歪み、無意識の内に軽く首を横に振っていた。
「あ」
「なんだ、出かけるのか?」
「ちげーよ。今からメシ」
「珍しい。お前、いつも12時より前に学食にいるんじゃないのか」
「誤解を招く言いかたはやめろ。さすがにンなこと週1でしかしねーよ」
 ドアから外へ出たところで、普段見かけないヤツがうろうろしており、タイミングいいんだか悪いんだかと自分で思う。
「つーか、何してんだよ。ここで」
「いや、今日は午後年休」
「あ、そ」
 俺とは逆に階段を上がってきたのは、ほかならぬ祐恭。
 ……あー。
 そーいや、羽織も言ってたっけな。
 今日は終業式だとか、って。
「そうだ。これ、ついでに返しといて」
「は?」
 分厚い数冊の専門書を当たり前のように差し出され、心からの嫌味を込めたセリフが出る。
 ハードカバーが所々ほつれているのが見えて、『要修繕』の言葉も頭に浮かんだ。
「なんで俺が」
「どうせ、メシ食ったら戻るんだろ?」
「……そーゆー問題じゃねーだろ」
 本を突き出され、眉を寄せるもののうっかり手を出す。
 ……くそ。
 受け取った途端ニヤりと笑われ、小さく舌打ち。
 相変わらず、面倒くさがりなのは変わってないらしい。
 つーかここまで来たら、自分で返しゃいーのに。
「あ、そうだ。お前、今回馬券何買う?」
「まだ見てない」
「んじゃ、見たら予想教えろ。代わりに買っとく」
「忘れなかったらな」
 今朝方思い立ったことを伝えると、肩をすくめられた。
 まぁ、忘れることはねーだろよ。
 多分、家に帰ってスマフォ見たら思い出すだろうから。俺が。
「羽織は?」
「家にいるよ」
「……家?」
「ああ。宿題やるってさ」
「宿題? アイツが? ……っへー」
 勉強の『べ』の字も聞かなかったようなヤツが自らやるとは。
 ……ま、宿題くらいやれって話だけどな。
 受験なんだし。
「そういえば、また喧嘩したんだって?」
「は?」
「あれ? 違うのか?」
 ……あー、そーいやそんなこともあったな。
 すっかり忘れてただけに、一瞬ぽかんと口が開く。
「で? 今度は何が原因なんだ?」
「俺がプリン食ったんだよ。アイツの」
「……それだけ……?」
「それだけ」
「……相変わらず、変わらないなふたりとも」
「うるせーな」
 くっ、と笑い出した祐恭に眉を寄せ、そっぽを向く。
 相変わらず、ってなんだ。くそ。
 ほっとけっつの。
「……あー。腹減った」
 つか、お前暇なんだな。
 階段を降りて学食へ向かいながらも、祐恭は同じように道を辿ってきた。
 ま、いーけど。
 ひょっとして何か話したいことでもあるとか?
 振ってはやらないが、そっちから振るなら聞いてやらないことはない。
「そういやお前、葉月ちゃん見た?」
「は? 何言ってんだお前。アイツがいるワケねーじゃん」
「聞いてないのか? 羽織ちゃんは、今こっちへ来てるって言ってるけど」
「………はァ!?」
 いつの間にか電話をしていたらしく、スマフォを耳に当てていた祐恭が、とんでもないことを口走ってから再び電話に戻った。
 葉月が? ここに?
 あ。
 じゃあ、アレか。
 さっき俺を訪ねてきた『女の子』ってのも――なるほど。
 確かに、女の子だな。アイツじゃ。
「お前、スマフォ持ってないのか?」
「忘れた」
「……うわ。それじゃ意味ないだろ」
「うるせーな」
 言われなくてもわかってるよ。
 呆れたのがわかって、顔を逸らす。
「羽織ちゃんに電話があったんだってさ。家に行ったら、誰もいないんだけどって」
「そりゃそーだろ。まだみんな仕事だし、ましてやアイツが来るなんて聞い――」
 と、そこまで口にしてはたと止まる。
 ……そういや、思い当たらないことも、ない。
 今朝、お袋が言いかけた言葉だ。
 俺が遮ったからまったく聞いていないが……お袋の性格を考えると、ありえなくもない。
 なんでかは知らないが、こういう重要なことを決まって直前に言うんだよな。アイツ。
 今回の箱根旅行が、いい例だ。
 ……ったく。
 当日じゃねーか。今日話したって。
 前々からわかってるモンは、とっとと話しておけっつの。
「さっき、俺を訪ねてきたヤツがいるんだよ。だから多分、葉月は学内にいるんだろ」
「葉月ちゃんの電話番号知らないのか?」
「俺が暗記してるわけねぇじゃん」
「まぁそうだろうな」
 食券を買おうと取り出した財布をしまい、来た道を引き返す。
「とりあえず、図書館戻る。もし見かけたら、頼むな」
「わかった」
 もし、まだここにいるならば。
 知り合いのいない大学内で落ち着ける場所としたら……多分、あそこ。
 自分と同じ本好きな葉月という点で、まず思いついた。
 外れていたら、また違う場所を探せばいい。
 とりあえず、図書館行っていなかったら、同僚にでも言伝を頼もう。
 ……はー。
 スマフォがないって、かなり不便だな……。
 現代社会に毒されているのか、ついため息が漏れた。

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