「あっれー? 瀬那さん、ずいぶんかわいい子連れてるじゃないっすか」
 メニュー一覧が示されているパネルの前で、たーくんへまた声がかかる。
 いったい、これで何度目だろう。
 知らない人が彼を呼び、足を止め――。
「あのな。俺は忙しいんだっつの」
「えー? 見えないんすもん。構ってくださいよ」
「なんでお前を構わなきゃなんねーんだよ。飯食わせろ」
 たーくんが、声の主に振り返って苦笑を浮かべるのを見るのは。
 先ほど図書館を出てすぐに、あの女性に声をかけられてからというもの。
 この場所へ来るまでに、3人に声をかけられた。
 ある人は、本について。
 ある人は、麻雀について。
 そして、ある人はやはり飲み会の誘い。
 ……たーくん、ひょっとして毎週末飲んでるのかな。
 彼とその相手との会話を聞いていると、そんな図式が成り立ってしまう。
 事実、今、彼が話している内容も飲み会だし。
 ……身体壊しちゃうよ? もう。
 まるで彼から聞いたひと昔前のお父さんのようで、眉が寄る。
「しつけーな。もう、いーだろ? メシ食うんだよ、メシを!」
「ちぇー。冷てー。あ。じゃあ、また連絡するんで。スルーしないでくださいよ!」
「わーったわーった」
 ひらひらと手を振って軽くあしらった彼が、ため息混じりに歩き出した。
 ……途端。
 何かに気付いたらしく、足を止めて私を振り返る。
「あっ」
 たーくんの、先。
 彼の背中から前を覗くと、そこには見知った人が笑みを浮かべていた。
「久しぶり、でいいのかな。こんにちは」
「お久しぶりです」
 柔らかく笑みをくれたのは、先日会ったときと何ひとつ変わっていない瀬尋先生だった。
 そんな彼に頭を下げると、同じように反応をくれる。
 相変わらず、たーくんとは違う対応を見せてくれる人だ。
「昼、まだでしょ?」
「だから連れて来たんだろ? ……ったく」
 私が答えるよりも前に、ため息混じりにたーくんが答えた。
 どうやら、よほどお腹が空いてでもいるのか、先ほどまでの人たちに見せていた顔とはまるで違う反応を見せる。
「……わ」
 外とは違い、人が多いのもあってかいろんな音が飛び交う。
 お昼はとうに過ぎたけれど、まだまだ置かれているテーブルのどれもが人で埋まっていた。
 日本の、大学の学食……。
 当然だけど、学生らしき人たちばかり。
「すごいでしょ、ここ」
「ですね。びっくりしました」
 苦笑を浮かべた瀬尋先生にうなずき、改めてあたりを見回す。
 途端にいい匂いが漂ってきて、お腹が小さく鳴ったような気がした。
「でも、春からはここで葉月ちゃんもメシ食うんだよね?」
「……あ……」
「合格、おめでとうございます」
「わ……瀬尋先生、ありがとうございます。とっても嬉しいです」
 いよいよ、春からは大学生。
 私も、ここにいる人たちの仲間入りを果たす。
 ……学生、か。
 今から、とても楽しみ。
「おい葉月!」
「え?」
 瀬尋先生へぺこりと頭を下げると、いつの間に移動していたのか、遠くから名前を呼ばれた。
「え、じゃねーよ。お前な、ただでさえ昼休みねぇんだから、とっとと来い!」
「……あっ」
「ったく」
 眉を寄せたたーくんが、戻って来たかと思いきや私の手を掴んだ。
 連れて行かれた先は、どうやら受け渡しカウンターらしい。
 白衣を着たおばさんたちが、忙しそうに動いている。
「え? なぁに? これ」
「ウチの学食は、一律その値段なんだよ。だから、それ出してなんでも好きなモン頼め」
 トレイと一緒に手渡された、小さな切符みたいな物。
 そこには大きく『380』と書かれていた。
 ……好きなもの。
 そう言われても、メニューは知らない。
「……あ」
 と思っていたら、上から吊るされているホワイトボードに、『今日の日替わり』と書いてあるメニュー表があった。
「あら瀬那君、今日はずいぶん遅かったねぇ」
「いやー人気者なんで。安田さんも知ってるでしょ?」
「あらやだ、もてるじゃない」
「おかげさまで」
 カウンターを覗くように彼が食券を出すと、やや年配の女性が珍しそうな顔を見せた。
 ……う。
 そのとき『お前のせいだ』とでも言いたげな彼がこちらを振り返って、眉が寄る。
 申し訳ない気持ちは確かにあるんだけど、簡単には許してもらえないみたいだ。
「残念ね、もうAランチ終わっちゃったのよ」
「うわ、マジすか?」
「そーよー。ほら、今朝顔見せなかったじゃない? だから、てっきりお休みなんだと思ってね」
「あー、やっぱり」
 笑いながらのやり取りは、まるで親子みたいで。
 ダメでしょ、なんて諭されている彼を見ると、ほんの少しおかしくなる。
 たーくんって、本当に年齢や立場関係なく、たくさんの人と付き合いがあるんだね。
 先ほどまで見せていた学生に対する顔と違って、ちょっとだけおかしかった。
「で? お前は何食うんだ?」
「え?」
 やり取りを見て笑ってたら、いきなりこちらを向かれた。
 ……メニュー決めてないなんて言ったら、怒られるかな。
 早くしろと言わんばかりの顔をされて、もう1度ホワイトボードを見る。
 んー……。
「じゃあ、ハヤシライスお願いします」
「はーい」
 ハヤシライスがオススメだったんだよね。
 先ほど彼が言っていたのを思い出し、食券を渡す。
「それにしても珍しいじゃない、瀬那君が女の子紹介してくれるなんて」
「そりゃ、まずは安田さんに会わせなきゃまずいじゃないすか」
 いたずらっぽく笑ったたーくんが、声を上げて笑った。
 お皿に盛ったハヤシライスを差し出してくれながら、『大事にされてるのね』と先ほどの女性がにっこり笑う。
 ……珍しい、のかな。
 いつだって周りにはいろんな人が集まる彼のことだから、てっきり……ってきっとこのやりとりも冗談なんだろうけれど。
 そういえば、素直に受け取りすぎるって、ついこの間たーくんに言われたっけ。
「春からウチの学生の従妹です」
「あらー、そうなの! おめでとう」
「ありがとうございます」
 小さな拍手とともにもらったお祝いの言葉が、素直に嬉しい。
 ……でも、言葉だけじゃない。
 今、私を紹介してくれながら、たーくんが頭を撫でてくれたことが嬉しかった。
「瀬尋先生は、食べないんですか?」
「ん? うん。俺はいいよ」
 一歩後ろでおかしそうに笑っていた彼に声をかけると、笑みを浮かべたまま首を横に振った。
「かわいい彼女が、待ってるんで」
「……あ……。それは失礼しました」
「いいえ」
 かわいい彼女。
 そんなふうにさらりと言う瀬尋先生は、カッコいいと思う。
 羽織ってば、すごく愛されてるんだから。
 かわいい従姉妹が幸せいっぱいのようで、とても嬉しくなる。
 今日のこと、近い内に羽織に教えてあげたいな。
「……あそこが空くな」
 トレイを持って少し歩いたところで、たーくんが窓際を顎で指した。
 ……あ、ホントだ。
 観察力が鋭いというか、目ざといというか……。
 言ってすぐ、窓際のテーブルから数人の学生が立ち上がるのが見えた。
「じゃあ、あそこで――」
「瀬那君」
 彼が私を振り返ると同時に、後ろから声がかかった。
 だけど、それはこれまで彼にかかった声とは違って、低い男性の声。
 たーくんと同じように振り返ると、そこにはにこにこと柔和な笑みを浮かべる年配の男性が立っていた。
「……あれ。珍しいっすね、穂坂先生」
「はは。まぁ、たまにはね」
 先生、というくらいだから大学の先生なんだろう。
 伯父さんよりも年上だとは思うけれど、明るい色のスーツを着込んでいるせいか、微妙に歳がわからない。
「……え?」
中・国(ちゅうこく)に、希望の星が入りますよ」
「ほぉ。君が言うということは、相当だね」
「もちろん。ヘタしたら、俺なんて目じゃないかもしれないっす」
「ははは。それは楽しみだ」
 ぐいっと肩を抱き寄せられ、思わず目を見張る。
 すぐ近くで聞こえる声。
 両手でトレイを持っている状態だけど、危うく落としかけた。
「……た……、たーくん……!」
「あ? あー、悪い」
 大して悪びれもせずに彼が笑い、ようやく解放された。
 ……ほ。
 いきなりそんなことされたら、すごく困るのに。
 …………人の気持ちも知らないで……。
 ちらりと横顔を見上げると、相変わらずにこやかに話を続けている横顔が目に入る。
「中等国語も、最近はパっとしなくてね。君のお墨付きの学生なら、期待が持てそうだ」
「いえ、私はそんな……」
「もちろん。悪いようにはならないっすよ」
 にっこりと笑いかけられて首を振るも、横からたーくんが言葉を続けた。
 ……もう。
 私、そんなにできのいい生徒じゃないのに。
 最初から目に見えないプレッシャーができあがってしまったようで、ため息が漏れる。
「ああ、そうそう。それで、ちょっと見てもらいたい物があるんだが……」
「俺にですか?」
「うん。今から、研究室まで来れるかな?」
「あ、はい。構いませんけど」
「っ……」
 思い出したように切り出した彼の言葉で、たーくんが真面目な顔を見せた。
 ……こういうのって、反則じゃないかな。
 今までけらけら笑っていたのに、こんな、急に顔つき変えるんだもん。
 不覚にも、カッコいいって思っちゃうじゃない。
 ……きっと、そう思う人は私だけじゃないはず。
 もしかしたら、これまで彼に声をかけていた女性たちも、このギャップで彼を好きになってしまったんじゃないだろうか。
「悪い。先食ってていいぞ」
「あ、うん。いってらっしゃい」
「じゃあな」
「おー」
 瀬尋先生にトレイを渡すと、たーくんはこちらに背を向けた。
 見送るように少しの間背中を見ていると……ああやっぱり。
 私と同じように彼を見ている人が何人か見えた。
 ……目立つんだよね。たーくんって。
 華があるというか、雰囲気がそうさせるというか。
 大学内でも彼は、何かと目立つらしい。
「じゃあ、席行こうか」
「あ、はい」
 ぽんぽん、と肩を叩かれてそちらを見ると、相変わらず優しい顔をした瀬尋先生がいた。
 たーくんとは大違い。
 ……なんて言ったら、怒られてしまうかもしれない。
 すでにここに姿はない彼を思い浮かべ、思わず苦笑が漏れた。

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