「……おい、葉月」
 たーくんの……声が聞こえる。
 しかも、結構近くで。
「こら。もう閉館時間過ぎてんぞ」
 ……世界が揺れる。
 揺れ――。
「ん……」
「……たく。図書館は寝る場所じゃねーぞ」
「あれ……たーくん?」
 少しぼんやりする頭を上げると、そこには呆れた顔をした彼が立っていた。
 すでにしっかりと身支度を整え、腕にコートをかけている。
「もう、そんな時間……だね」
 スマフォを見ると、15時半を少しすぎたところだった。
 ……結構寝てたんだ。
 なんて言ったら、怒られてしまうかもしれないけれど。
「ん……っ……?」
 伸びをしてから机の本を片付け、立ち上がったとき。
 背中から何かが落ちそうになって、慌てて手が出た。
 ……カーディガン……?
「これって……」
「ったく。ンな格好で寝てたら、風邪引くだろ」
「たーくんがかけてくれたの? ……ありがとう」
「礼はいいから、次は寝るな」
「ん、そうだね」
 びし、と指差されて苦笑を浮かべ、丁寧に畳んで彼へ返す。
 間違いなくこれは、さっきまで彼が着ていた物。
 ……いつの間にかけてくれたんだろう。
 というか、いつから寝てたんだろう。
「ほら。行くぞ」
「あ、待って」
 ため息をつきながらコートと一緒にそれを持った彼を見て、苦笑が浮かぶ。
 だけど、振り返った彼が浮かべた意地悪っぽい顔に思わず眉が寄った。
「いい気なモンだな。俺は仕事してんのに」
「だって……眠くなっちゃったんだもん」
「本能の赴くままに生きてる子どもと一緒だろ、それじゃ」
「……ぅ……」
 相変わらず、手厳しい。
 ……だって、気付いたら寝ちゃってたんだもん。
 確かに、いけないとは思う。
 でも、この静かな空間と、本の匂いと……そして、暖かな空調と。
 いろいろなことが重なって、気付いたら意識が途切れていた。
「っ……ぃた」
 硬い机に伏して寝ていたせいか、下にしていた腕が鈍く痛む。
「え?」
「お前な。ばーさんじゃねぇんだから」
「……だって……」
 エレベーターに乗り込みながら腕を撫でると、たーくんが小さく笑った。
「でも、こうして撫でると痛いのはなくなるんだよ?」
「昼寝してた人間が、なんで痛み覚えんだよ」
 十分休養したクセに。
 は、と短く笑いながら言われ、何も言い返すことは当然だけどできなかった。

 エレベータを降りて図書館を抜け、そのまま図書館裏手の駐車場に停めてあった彼の車へ。
 ……相変わらず、きれい。
 艶のあるきれいな黒が、光を受けて一層輝いて見えた。
「どうした?」
 鍵が開いたのに乗り込まなかったのを不思議に思ったのか、たーくんが運転席のドアを開けながらこちらを向いた。
 そんな彼を見て、思わず笑みが漏れる。
「きれいだなぁと思って」
「そりゃあな。俺の車だし」
「んー……。ん? どういうこと?」
「なんでもねーよ」
 視線を逸らしてからもう一度合わせ、首をかしげる。
 すると、眉を寄せて『ち』と小さく舌打ちした。
「…………」
「あー……さみ」
 エンジンの振動が身体に伝わって、なんとも言えない気分。
 クラッチを踏んでからギアを入れ、アクセルを踏む。
 まるで意識していないかのように車を出すまでの一連の流れを見ていると、本当に昔のたーくんとは全然違うんだ、と実感。
 最後に、彼と会ったあのとき私はまだ小学6年生だったけど、彼はもう高校生で。
 ……そう。
 ちょうど、今の私と同じ年齢だった。
 そのときは車じゃなかったけど、同じように艶のある黒いタンクのバイクに乗っていたんだよね。
 そのとき、初めて乗せてもらったんだっけ。
 バイクは、どうしても抱きつく格好になる。
 もちろん、最初は違う場所を掴んでいたんだけど、『それだと危ねーだろ』と彼が私の手を取って腰に回してくれた。
 ドラマでも漫画でも、バイクに乗るときはそういう格好をしている女の子が多くて、小さいころから憧れてもいた。
 しかも、相手は年の離れた従兄。
 同級生の男の子とは違って、大人で、カッコよくて。
 しかも無条件に優しくしてくれる、憧れの対象。
 そんな人にバイクに乗せてやるって言われたら、誰だってドキドキすると思う。
 バイクは車と違ってスピードを肌で感じる乗り物。
 だから、体感スピードは実際よりずっと速い。
 結構怖かったけど……でも、『しっかり掴まってろよ?』って言われたから、しっかりぎゅっと抱きつく格好になって……。
 あのときのことは、幼心にも強く印象に残った。
 ……たーくんは、もう忘れちゃったかもしれないけどね。
「バイクはもう乗らないの?」
「ん?」
 信号待ちで止まったときに訊ねると、こちらを見てからヘッドレストに頭をもたげた。
「そういえば、ずいぶん乗ってねぇな」
「どうして?」
「寒いから」
 …………。
「え?」
「寒いだろ。車と違って」
「……そんな理由……?」
「うるせーな。いいんだよ。俺は車が好きなんだから」
「でも、バイクも好きだったでしょう?」
「あれは高校のときだろ? 今は、4輪派」
「……もう」
 聞いてびっくり。
 まさかそんな理由だなんて思わなかったから、思わず笑ってしまった。
 だって、いかにも彼らしいと思ったから。
「そういや、葉月は乗ったことあるんだよな。バイク」
「うん。……え? 葉月、は?」
「ああ。羽織は乗せてねーんだよ」
 意外な言葉に、目が丸くなった。
 羽織は妹だし、てっきり私より多く乗ったことがあると思ったのに。
「どうして?」
「嫌がったんだよ、アイツが。俺の運転は怖い、ってな」
「……あー……」
「なんだその『あー』ってのは」
「え? んー……ちょっとだけね、わかるかなって」
「……何?」
「なんでもないよ?」
 眉を寄せて怖い顔をされ、くすくす笑って首を振る。
 ……でも、そっか。
 羽織は乗ったことないんだ。

 『じゃあ、ほかの女の人は?』

 咄嗟にそう聞きたい衝動に駆られたけれど、言えるはずがなく唇を閉じる。
 それは、私が聞いていいことじゃない。
 たーくんの女性遍歴は、ちょっとだけ聞いたことがある。
 ……そして、さっきのこと。
 彼には何も言っていないけれど、やっぱり聞こえてしまった部分があって。
 というか、あの人の友達らしき人たちがいろいろな話をしていて、それが聞こえたというのもあった。
「…………」
 ちらりと、瞳だけで彼の横顔を伺う。
 前だけを見て、いつもみたいな冗談めいた表情じゃない、真剣な顔つき。
 こうして見ていると、彼女らが言っていた言葉はやっぱり信じられない。

 『キスもえっちもうまくて、彼と付き合うのが一種のステータス』

 あの人の友達のひとりが、そう言っていた。
 そして、ほかの人たちも同意していたこと。
 どれもこれも、聞いていていい気分のする話じゃなかった。
 彼は、これまでにたくさんの女性と付き合ったことがあるようだ。
 それは、直接たーくんからも聞いていたけど……でも、さすがにこれほど深い話は聞いたことなかったんだよね。
 いくら従兄とはいえ、こう……なんていうんだろう。
 正直言って、快く思えないと同時に、いろいろな思いも広がっていく。
 どんなふうに、その人たちと付き合ってたんだろう。
 どんなふうに、その人たちへ笑いかけたんだろう。
 ……そして、どんな姿を見せていたんだろう。
 あれこれとたくさんの疑問が浮かんでは、消えてくれない。
 いつか、聞いてみたいと思う。
 だけど、鬱陶しがられるのは嫌だ。
 ――そう。
 私は、彼の従妹にすぎないんだから。
 遠目に見えてきた今の私にとっての『我が家』を眺めながら、ふとそんなことが浮かんだ。

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