おいしそうなケーキが並んだ、コーヒーショップ。
 そこに入ろうかな、なんて思った。
 だけど、きっとたーくんがこれを食べたら嬉しそうな顔をするんだろうな、と思ったらできなくて。
 つい、『また今度』と言いながら足をほかに向ける。

 楽しいことは、ふたりぶん。
 悲しいことは、半分。

 小さいころよく口ずさんでいた、教育番組で流れていた歌。
 彼もまた同じように言ってくれていたのを、今でも覚えている。
 小さいころは、何かにつけて彼と一緒にいたがった。
 それは羽織に対してもそうだけど、彼とのほうが多かったような気がする。
 一緒に住んでいたころは、どこへ行くにもそばにいてくれた。
 私がひとりになると泣いてるのを、知っていたからだろう。
 仲良さそうな親子連れを見ると、つい泣いてしまいそうになる。
 ……特に、お母さんと一緒にいる、自分と同じくらいの子を見ると羨ましくてたまらなかった。
 私には、お父さんがいる。
 だけど、どうしても仕事で朝早く、夜遅く。
 すれ違いで会えないまま1日が終わってしまったことも、数え切れないくらいあった。
 伯父さんと伯母さんは、そんな私を羽織と同じように扱ってくれて。
 褒められ、叱られ、我が子のようにとても大事にしてもらえた。
 周りがそうしてくれたからこそ、私はこうして育つことができたんだと思う。
 ……そして、彼も。
 たーくんも、私のことを羽織と同じように扱ってくれた。
 だけどそれは、私にとってはほんの少し切なかったんだよね。
 だって私は……妹、じゃない。
 それと同じで、たーくんはお兄ちゃんなんかじゃなくて、ずっと私の憧れでとても好きな人だった。
「っ……」
 ふと香った匂いに、思わず振り返る。
 だけど、そこに彼の姿はない。
 その代わり、仲良く彼女らしき人と歩いて行く男の人がいた。
 笑顔で話しながら歩く姿に、思わず顔が緩む。
 楽しそうに話すこと。
 そして、笑顔でのやり取り。
 それは、私にもできる。
 けれど……あんなふうに、手を繋いで歩くことはできない。
 私ができるのは、笑顔で話しながらも一定の距離を保つこと。
 いわゆるパーソナル・スペースに入ることだけは、許されない。
 そこに入ることができるのは、彼に許された人だけだから。
「……香水」
 ちょうど振り返った先に、香水専門店が見えた。
 それで自然と、足が向かう。
「これ……」
 きれいに並べられたビンを見ながら、1点で視線が止まった。
 ついつい、彼と同じ匂いに反応してしまう自分。
 昔から知っている匂いだけに、つい手が伸びる。
 彼じゃない人が付けていても、私にとっては彼を表す香り。
 だからこそ、困るんだよね。
 彼の存在を示す場所には、必ずこの匂いがある。
 車も、部屋も、服も。
 それだけじゃなくて、こうして外にいても……同じ香水をつけている人に会うたび、彼を思い浮かべる。
 ……こんなんじゃ、忘れられないじゃない。
 手にしたサンプルを棚に戻しながら、ため息が漏れた。
 彼からかかってきた電話は、全部で4回。
 そのどれにも出ることができなくて、増えていく通知を見てから画面を切る。
「…………」
 これからどうしよう。
 ……帰ろうかな。
 ある程度街のことは見れたし、地理も把握できた。
 だから、ここから駅に向かって出ているバスに乗れば、途中、家のそばのバス停に辿り着く。
 ……だって、今さら電話できないもん。
 怒られるだろうし、それに……また、さっきみたいな話になったら、今度はきっと逃げられない。
「え……?」
 あれこれと考えながら、足が止まる。
 意識が向かうのは女の人の声。
 ……いわゆる、館内アナウンス。
 うそ。だってそんな。
 いくらたーくんでも、そんなことをするはず……と思いながらも、でも彼ならばやりかねない、とも思う自分がいる。

 『お連れさまがお待ちです。映画館前までお越しください』

 ピンポンという音とともに響いた、通る声。
 でも、普通ならば、これを聞いても反応なんてするはずないでしょう?
 たとえば……自分の名前でも、呼ばれたりしなければ。
「……うそ、でしょう……?」
 ぽつりと漏れた言葉と同時に、思わず天井を見上げる。
 アナウンスの流れた館内とはいえ、何も変わらない。
 それもそのはず。
 歩いているほかの人たちには、まったく関係ないんだから。
「…………」
 映画館前を指定したということは、恐らく彼がそこにいるのだろう。
 それがわかっているからこそ、くるりと背を向けて歩き出すのは映画館と逆の方向。
 だって、こんなふうにされたりしたら、行けるものも行けなくなってしまう。
「っ……」
 また、アナウンスを知らせるチャイムが響いた。
 ……ぅ。
 まさか、また私じゃないよね……?
 そう時間が経ってないだけに、どきどきし始める。
 だけど、予想に反して流れてきたのは、迷子を知らせるものだった。
「っ……!?」
 ほっとしたのも束の間。
 このことがさらに私を窮地へ追いやる結果になった。

『白いスカートに、ピンクのセーター。デニムのジャケットをお召しの、18歳の瀬那葉月ちゃんが迷子になっています。
 お見かけになられた方は、至急、お近くの店員までお知らせください』

「……っ!?」
「ねぇ、今18歳って言わなかった?」
「まさかー。8歳の間違いじゃない?」
 ぎくり。
 おかしそうに話す女性の声に、慌てて身体の向きを変える。
 ちょ……ちょっと待って。
 だって、だって……!
 服装を告げられただけでなく、年齢までセットになっている迷子のお知らせなんだもん。
 ……そう。
 迷子、なのだ。
 お呼び出しを……ではなく。
 みんなに、『探してください』と呼びかける、アナウンス。
 っ……!
 きっと、アナウンスをしているお姉さんは、笑い出すのを必死に堪えてるに違いない。
 と同時に、ニヤニヤ笑いながらサービスカウンターに迷子の連絡を頼んだ彼の姿も頭に浮かんで、かぁっと顔が赤くなった。

『迷子のお知らせをします。白いスカートに、ピンクの――』
「っ……!!」
 もうっ!
 アナウンスが響く中、小走りで向かうのはもちろんあそこしかない。
 彼が私を呼び出した、映画館前だ。
 っ……もう、何もそんなことしなくても……!
 誰かと目が合うのが恐くて俯きながら、思わず眉が寄った。

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