「っし、帰ろ」
 定時きっかりの17時15分。
 タイミングよく、今朝入った新刊をコーティングし終えたところで、とっとと立ち上がる。
 名札のバーコードを読み込み、完全に撤収モード。
 だが、そんな様子を最初から最後まで見ていたらしく、執務室へ戻ろうとしたら、出入り口に野上さんが立ちふさがっていた。
「瀬那さん、聞きたいことがあります」
「え? 俺に?」
「どうしても確認しなければならないことがあります!」
 まるで仁王立ちさながらのポーズをされ、真剣さに一瞬自分がやらかしたかもしれないリストがよぎる。
 どれだ。
 野上さんが休みの日にかぎってドーナツの差し入れがあったことか、それともついこの間彼女が会いたがってた書店員が来たのを黙ってたことか……はたまた書庫へこもってた理由に『でかい虫の駆除』と嘘ついたことか……わかんねーな。
 両手を腰へ当てたまま俺を見上げつつ睨む彼女へ眉を寄せると、ずびし、と鼻先へ人差し指を向けた。

「ズバリ! 今日はデートですね!?」
「違う」

 切り捨てた瞬間、あたりの空気が若干緩んだ。
「えぇえ!?  違うんですか!? なんでですか!」
「いや、むしろそれは俺が聞きたい。なんでデートなんだよ。するわけないじゃん」
「えぇぇえぇえ!? 若い独り身なのに!?」
「それは野上さんも――ってああ、若……ってぇ。何も言ってなくね?」
「セクハラですよもう! 訴えます!」
 ペシペシと手近にあったクリアファイルで叩かれ、さりげなく謝りつつ奪取。
 その中に、つい先日彼女へ館長が頼んだ県立図書館宛のFAX文が入ってた気がしたが、恐ろしいので送ったかどうかは確認しない。
「なんでですか!? 今日1日中、もうそれはそれはデレッデレの顔で過ごしてたじゃないですかぁ! なんかニヤニヤしてませんでした!?」
「え、してた?」
「してました! ばっちりすっかりしてました!! だからもう、私ずっと気になって仕事にならなかったんですよ! なのになのにっ……もー! どうしてくれるんですか!!」
「いや、だから。なんで俺がニヤニヤしてるのと野上さんの仕事の能率が関係あるんだよ」
「あるに決まってるじゃないですか! みんなが知らない瀬那さんの秘密を握れるか否かの瀬戸際なんですよ!?」
「ちょっと待った。ンなアホな理由どころか、そもそも勝手に俺のこと巻き込まないでくれる?」
 つか、なんだよ俺の秘密って。
 ンなもん握ってどうする気だ。
 ……ってまあ、間違いなく言いふらすつもりなんだろうけどな。
 彼女が好きなタイプの学生限定とかなんとかつって、いろんな連中へあることないこと吹聴する首謀者だし。
「いや、今日ちょっといろいろあるんだよ」
「きゃーきゃー! だからその顔ですってばその顔!! ものすごくいかがわしいこと考えてますね!?」
「全然。どこをどう見たらそうなるのか、さっぱりわかんねぇ」
 いろいろあるにはある。
 だが、まさか顔に出ていたかどうかまでは気づかなかったが……どうやら、楽しみにはしてるらしい。
 でもま、そりゃテンションも上がるだろ。
 ちょっとやってみたいと思ってたシチュエーションが、まさにカモネギ状態で突然手に入ったんだから。
「ちょっとお瀬那さんてば! 黙ってないで教えてくださいよ! かわいい彼女ちゃんがいるんでしょ!?」
「だから、いないっつってるだろ。しつこい」
「そんな! じゃあじゃあアレですか? これからナンパですか!?」
「あのな。人をなんだと思ってんだ。ンなことばっか言ってると、彼氏泣くぞ」
「言わないでくださいよ!? 言ったら絶交ですからね!?」
「なんのこっちゃ」
 ほとんど座ることのない自席へ戻り、書類をケースへしまってからロッカーへ。
 ほかの連中も早々に帰り支度をしてるってのに、野上さんは俺のあとをついてくると、いつまでもしつこく『ホントのこと教えてくださいよ!』を繰り返した。
「お疲れ様でした。お先です」
「お疲れ様」
 誰へともなく声をかけ、返ってきた返事に軽く会釈。
 つか、ほんと野上さん早く帰れって。
 16時過ぎに、見たいドラマがどうこうってデカい声で騒いでたじゃん。
 俺のストーカーしなくていいっつの。
「おつかれ」
「あああ瀬那さん! ひょっとしてアレですか!? あの子と出かけるんですか!?」
「だから、出かけないっつって――」
「ほらぁ! あの、かわいい従妹ちゃん!」
「っ……」
 外へのガラス扉へ手をかけた瞬間、背中へぶち当たった大きな声で、らしくもなく足が止まった。
 今朝、見たアイツの顔がよぎる。

『ごめんね』

 俺へ謝った葉月は、いかにも泣くのを我慢してるように見えた。
「最近、姿を見ないと思ってたんですよぉぉ! そうなんですね!? 久しぶりに会えるから、うきうきし……ひっ」
 俺はまだ何も言っちゃいない。
 だが、間違いなく顔には出てたんだろうな。
 それ以上アイツの話したら、たとえ野上さん相手でもうっかり口利かなくなる日がくるかも、って。
「お、おおおお疲れ様ですっ!」
「お疲れ」
 まるで敬礼のごとくキレイに肘を曲げたのを見てから、踵を返して外へ出る。
 冷たい風はいつものこと。
 空に白い月が浮かんでるのも、夏と違ってすっかり暗くなってるのもそう。
 だが、今日は……いや、今日からは帰る方向が違う。
 アイツと会うことはない、日常。
 姿を見るどころか、声を聞くことも今日からは完全に『ない』んだから。

「へえ……つか、広くね?」
 家と真逆の方向へ車を走らせ、海沿いからそこそこ入ったところにある住宅街。
 恭介さんに教えてもらった住所を頼りにきた場所は、まだ新しそうな4階建てのマンションだった。
 自分の家とは違う鍵の開く音に、ドアノブの感触。
 入ってすぐのこじんまりとした玄関の壁にあったスイッチを押すと、暖色の灯りが部屋を奥まで照らした。
「うわ、すっげえ。よそんち感はんぱねーな」
 当然ながら、俺以外に音を立てるものはゼロ。
 夕飯として仕込んできたコンビニの袋だけが、やけに耳につく。
 いわゆるよその家の匂いはせず、ガランとしたリビングにはソファとシェルフ、間接照明とテレビが置かれているだけ。
 だが、もちろん十分。
 荷物が少ないせいか、自分の部屋より狭いはずなのに、広く感じた。
「あー……やっべぇ、すげぇ楽しい」
 何をしたわけじゃない。
 まだ、上がっただけ。
 ざっくりまとめてきたボストンバッグを置いてソファへ座ると、見慣れない家具の配置で、さらに『自分の知らない場所 』と強く認知されてか、ついにやけた。
 ここなら、誰に何を言われることもない。
 余計なことを考える必要もない。
 好きなことをして、やらなくていいことはしなくていい、まさにプライベート空間。
「あー……ひとりって楽でいいな」
 明日はまだ勤務があるものの、気持ち的にはすでに週末。
 あーだこーだ言ってくるうるせぇお袋も、昔と違ってほとんど苦言を呈することのなくなった親父も、プリンを食ったくらいでぐだぐだ言う妹も、擁護するその彼氏もいない。
 そして……何より、アイツがいない。
 俺のせいですっかり笑わなくなった、葉月が。
「……腹減った」
 ソファの縁へ頭をもたげると、自室ともどことも違う照明が目に入った。
 今日だけじゃない、明日だけじゃない、明後日も明々後日もその次もずっとここにいられる。
 快適に決まってる。当然だ。
 なんせ俺が全部選んで決めていいんだから。
 座り直して弁当を取り出したところで、せめて着替えるかと思い直す。
 普段、帰ってきてどんなルーティンこなしてたっけな。
 肌寒さがあるためエアコンのスイッチを入れながら、たった1日しか経ってないのに、昨日の自分の帰宅後の姿が早くもぼんやりし始めていた。

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