「はー……」
祝日の月曜日であり、成人の日。
何もこんな日に会合をぶつけなくてもいいとは思うが、文句は言えない。
神奈川県立の各図書館と大学図書館の司書が集まる、合同のシンポジウム。
今回は地域との協働と連携ってのが主なタイトルだったが……しかしま、最近やたら聞くよな。
同じセリフを吐いた彼も、いわゆるコミュニティスクール関連でいろいろ駆り出されているらしく、『言葉はいいけど難しくね?』とジョッキ一杯空けてたっけか。
「…………」
結局、昨日はあれからクリーニングを出しにスーパーまで向かい、19時すぎにふたたび取りに行った。
1日に3回も同じ店行くとか、よっぽどでもしねーよな。
だが、お陰でいつもと同じ……いや、もう少しパリッと糊のきいたワイシャツで少しばかりストレスは減った。
今日は藤沢までの出張で、帰りの飲みも想定して電車。
が、駅近くの飲み屋はすべて貸切か満席になっており、また来月にある湘南地区の図書館司書研修後に飲もうぜと約束して、数人とさっき別れた。
電車到着まで、あと5分。
下りのホームには、着慣れてなさそうなスーツ姿の連中がフラフラしているのが見え、いかにも成人式だなと思った。
自分のときはどんなだったっけな。
たった数年なのに自分とは違う人種に見えて、それもおかしかった。
数年経っても、中身はさほど変わっちゃいない。
ましてや一昨日の今頃は、彼ら以上に馬鹿騒ぎしてそれこそ遊びまくってたんだから。
冬瀬駅よりも茅ヶ崎駅のほうが近いこともあって、マンションからはバス 。
帰りのバスの時間を検索すべくスマフォを取り出したところで読んでなかったメッセージの通知に気づき、アプリを立ちあげる。
「……?」
そのとき、覚えのある香りに顔が上がった。
あれはまだ、小学生だったころ。
俺よりひとまわり年上で、なんでもできて、頭もよくて、人当たりもよくて、誰にでも笑顔で接していた人。
“大人”っていうのはあの人のことを言うんだなと思ったし、だからこそ自分もそうなりたいと思った。
だから……きっと無意識のうちにいろんな面を真似てきたんだ。
香水もそのひとつ。
微かに香る程度に付けているそれは、所有物を示すかのように残り香になる。
動作すべてがきれいで、姿勢もよくて、いつだってシャンとしていて。
憧れ、とひとことでは片付けられないモノを、幼いころからずっと追ってきた。
その……香り。
いるはずない、なんてことは思わない。
なんせあの人はつい先日、俺にマンションの鍵をさらりと受け渡してくれたんだから。
「…………」
質のよさそうなスーツに、かっちりとした革のバッグをコートと一緒に持っているいでたちは、いかにも仕事帰り。
あー、アレだよあれ。
小さいころから見てきたせいで、大人の男はああいうモンだって刷り込みされた姿は。
きっと、俺が彼に憧れを抱いていたことを、彼自身も知っているだろう。
だから、何かと俺を構ってくれて、遊びも趣味もアウトドアも……ほかにもまあいろいろ、いわゆる“経験”ってヤツをすべて教えてくれた。
今の俺があるのは、親父とお袋の影響というより、がっつり彼の影響。
そのせいか、父方の伯父伯母連中には、『恭介とうりふたつ』と言われ、正直それが誇らしかった。
「…………」
すっげぇ、恭介さんに似てる。
けど本物か?
数年間ほとんど見ることのなかった姿をここ最近でずいぶんと印象づけられたが、藤沢駅の下りホームってのがあたかもありえない場所に思えて半信半疑。
持ち物から判断できないあたり、昔と違うなとは思うがまあしょうがねーよな。
今まで毎日見てきたアイツなら間違うはずなくわかるだろうが、俺には『ぽい』程度の知識のみ。
スマフォではなく、手帳を確認しているあたりは、いかにもらしいとは思うけど。
「…………」
混雑していることもあり、間には何人もの人の壁。
じきに電車が来るというアナウンスを聞きながら電話をかけると、離れた彼が胸ポケットを探った。
「っ……!」
『どうした?』
目の前の彼が同じ言葉をつむいだのがわかり、慌てて駆け寄る。
すると、靴音で気づいたのか、彼も俺を振り返った。
「なんだ。そこにいたのか」
「恭介さんこそ、なんでここに」
「ちょっとな。お前はどうした。仕事帰りか? 休みなのに」
「まあね。でも、代わりに水曜代休」
「ほう。ならいいじゃないか。たまの平日も謳歌したらいい」
ああ、そういやこんなふうにお互いスーツで会うのなんて、これまでなかったんじゃねーか。
彼にとっての俺は、きっとさっき俺が新成人たちを見て抱いた感想程度と同じようなもんだろうが、どことなく誇らしい気にもなる。
彼から学んだことは多い。
ミリ単位でも近づけているのなら、それは自信にもなる。
「で? じーちゃんちでも行くわけ?」
帰国している彼がどこへ滞在しているかは聞かなかったが、てっきり茅ヶ崎のじーちゃんちだとばかり思っていた。
もしくは、職場のある横浜かどっちか。
たまに会う彼から聞く地名がそのふたつってのが、単なる根拠。
「いや」
ホームへ電車が滑り込んできた瞬間、冷たい風が吹き抜けた。
ゴウと響く音と、ブレーキ音。
いつも変わらない、ホーム特有の雑多な音に混じって尋ねると、ちらりと俺を見た恭介さんは逡巡してから口を開いた。
「お前も付き合うか?」
「付き合うって……どこへ?」
ドアが開き、大勢の人間がホームへあふれる。
中には、酔っ払っている人間も含まれているようで、大声で話しながら通り過ぎていった。
「連れてってやってもいいが、今日のことは誰にも口外しないと誓え」
「……てか、口外できないってのが正しいんじゃねーの?」
「さあな」
彼は大抵、こんなふうに前置きをする。
そのうえで見せる笑みは、いかにもってくらい余裕めいていて。
経験値の差なのか、それともほかの何かなのか。
恭介さんに続いて乗り込むと、ドアが閉まって喧騒から離れた。
「俺も明日は朝早いからな、さっと行ってすぐ引き上げるつもりだ」
「……で、どこ行くわけ?」
「風呂へ入りに」
「…………」
「なんだ」
「いや、なんか……なんでもねーけど」
「わかりやすいな、お前は本当に」
「え、ガチじゃねーの?」
「さあな」
そればっかじゃん。
とは思うもののつっこめず、ホームと違って静かな車内ゆえデカい声で指摘もできず……つか風呂っていかにもじゃね。
明日が早いと言いながら元気というかタフというかすげぇなとある意味感心するも、正直意外といえば意外。
恭介さんが遊び倒してたのは、少なくとも学生のころまでのはず。
葉月と暮らし始めてからは皆無……いやそのテの話を聞かされるときは『学生のとき』って冠が付いてたからこそ、今の彼からは聞かなさそうな方面だけに心底意外としかいえない。
何も言わず小さく含んだように笑う横顔を見ながら、なんの気なしに腕時計へ目が行く。
時間はまだ、18時前。
ああ、そういや恭介さんは、この時計がアイツからもらったモンだってこと知ってんのかな。
形こそ違えど……いや、明らかに“いいもの”感漂う彼の腕時計を見ながら、この先の展開が読めず少しだけ……どこかワクワクしてる自分もいて笑える。
ああ、さすがだぜ叔父貴殿。
こういう感覚染みついたのも、間違いなく影響だろうからな。
窓に反射する自分の姿を見ながら、笑いそうになるのを咳払いで誤魔化した。
「……すげぇ存外すぎる」
「酔いを覚ますにはちょうどいいだろう?」
「いや、俺飲んでねーけど」
「そうなのか? 出張と懇親会はセットだろう」
「いつもはそうだけど、今日は駅チカの店が全部パンクしてたんだよ」
「……ああ、成人式だったな。そういえば」
普段、まず足を延ばすことのない地まで来たせいか、気分的にはある意味小旅行。
てか、電車乗り換えるとかすげぇ久しぶり。
たまたま乗り継ぎの関係なんだろうが、だからこそ随分遠くまで来た気分だ。
どこでも今日は同じらしく、通り過ぎた数人の新成人が校歌とおぼしき歌を口ずさみながら肩を組んで駅へ向かっていった。
「てか、ホントにここ?」
「なんだ。想像と違ったか?」
「いや、違いすぎ。……てか、風呂ってガチの風呂?」
「それ以外に何を考えた?」
「そりゃ……って、恭介さんこそわかりやすいって。そーゆー顔、アイツには見せねぇんじゃねーの?」
「あまりしないな」
眉を寄せたのを見て、彼はいかにも悪戯っぽく笑う。
あー、絶対見せねぇだろうよ。大事な愛娘には。
湯河原駅から歩いて数分で着いたここは、大きな岩造りの壁が続く、いかにも由緒正しきな雰囲気が漂う旅館だった。
てか、すげぇ高そう。
外観といい、ハイヤーで乗り付けてる客層といい、駐車場の外車といい……どれもこれも俺には縁遠いものばかり。
燈の灯りがともるエントランスには、宿の名前が入った法被を着ている人間と、かっちりしたスーツを着込んでいるスタッフとどちらも立っている。
「“ながれは”と読むんだ」
「へえ……」
分厚い一枚岩に掘られている“流浪葉”の筆字を見ながら、先に入った恭介さんの後を追う。
すると、外観ともまた違った意味で、俺ひとりじゃ場違い感漂うエントランスに小さく喉が鳴った。
色の統一されたロビーは、キラキラと輝くシャンデリアもなければ派手な置物もない、木が多く使われているいかにも和の空間だった。
照度がやや低いというより、あえてそう見せているんだろう。
箇所箇所に置かれている灯篭は、本物の炎じゃないだろうにゆらめきがあり、足元の玉石を照らしている。
庭があるんだよ、室内なのに。
吹き抜けとも違う、それこそ日本庭園を建物で囲ったかのような作りは独特で、正直ほかで見たことのない場所だった。
水の流れるせせらぎも本物なら、そこに立っている松や竹も本物だろう。
さわさわとほのかに葉が揺れる音がして、一瞬自分がどこに来たのか迷う。
日本人ももちろん多いが、外国人の姿もかなり多く、箇所箇所にしつらえられている“和”のスポットで写真を撮っている。
「座ってていいぞ」
「え? いや……ひとりでいると、落ち着かない」
「客が突っ立ってるほうが、スタッフは落ち着かないだろう。ほら、座ってやれ。茶を淹れてくれる」
ささやかれて見ると、数名のスタッフが声をかけようかどうしようか考えあぐねているような顔で、少し離れた場所にいた。
見れば、入ってきた客はすんなりと 毛氈が敷かれた区画へ通されており、みな一様にこれまた高そうな湯のみ茶碗をかたむけている。
和室というより、茶室かのような場所。
大きな野点傘の下には、着物の女性数名がそれぞれ客をもてなしている。
「よくおいでくださいました。どうぞ」
「ありがとうございます」
赤い毛氈のかけられている縁台へ腰掛けると、ほどなくしてほかの人々と同じ茶碗と菓子のセットが届けられた。
蝋梅を模した小さな練り切りはかなり精巧に作られており、まるで本物の花が添えられているかのようにも見えた。
濃い緑の日本茶は、温かそうな湯気が立っている。
あー、すげぇ久しぶり。
まだ数日しか経ってないが、実家にいたときは毎日飲んでいたこともあり、どこかで『飲みたい』と思っちゃいたんだろうな。
気づいたら手を伸ばして、ひとくち。
「……うま」
温度もちょうどよければ、濃さも……いや、かなり濃い目の緑茶。
だからこそ、どこか懐かしくも感じる。
葉月が帰国してから、毎日当たり前のように飲んでいた緑茶と同じだと思えて。
「瀬那君……?」
呼ばれたというよりは、確認めいた小さな声がした。
こんな場所で会う知り合いが思い当たらないが、落としていた視線を上げる……と、目の前に立つ女性を見て小さく喉が鳴った。
「……え……」
「あなた……」
座る俺の高さに合わせるかのように、彼女は腰を落とした。
淡いピンクの着物で、髪を結っている女性。
きっと下ろせば長いであろう髪も、話し方も、そして……雰囲気も、何もかもがアイツを彷彿とさせる。
まじまじ見つめられ、何をも言えずまばたくと、ほどなくしてやっぱりどこかアイツと似たように笑った。
「とてもよく似ていたの」
「え……俺、ですか?」
「ええ、昔の知り合いに……とても。ごめんなさいね、突然」
俺じゃない、誰かを見ているかのような表情だった。
目を合わせてから、にこりと微笑むと、立ち上がりもう一度頭を下げる。
そのとき、彼女の後ろから受付を済ませたらしい恭介さんが歩いてきたのが見えた。
「似てるだろう? 俺に」
「っ……」
「コイツほど、俺に似ている甥っ子はいない」
静かな声だった。
だが、恭介さんが彼女へ声をかけた途端、びくりと肩が震え、振り返るまでにほんの少し時間がかかった。
今の今、俺に見せた表情とはまるで違う。
確かめるかのように、そして信じられないものでも見るかのように、彼女は振り返ると両手を口元へ当てた。
「6年は、思ったよりも早く感じたよ」
「恭介、君……」
「久しぶり、でいいかな?」
穏やかに笑った恭介さんは、真正面から彼女の前へ立った。
身長差があるのは当然だが、それだけじゃない、まるで通せんぼでもしているかのような立ち方に、意外さを感じる。
……ああ、そういや恭介さんが誰かと――女性とともにあるのを見るのは、初めてかもしれない。
話でこそいろいろ聞いていたが、実際に目にするのはこれが初。
そのせいか、珍しさと意外さとで『へえ』と小さく漏れそうになった。
「っ……」
「女将と約束している。通してもらえるかな」
一歩あとずさった彼女の手を、恭介さんが掴んだ。
途端、何か言いたげな顔をした彼女が、うつむいてから小さくうなずき、その場を……離れ、られないことに気づいたらしい。
彼女を見つめたまま手を離さない恭介さんに対し、戸惑っているのは明らか。
それを彼は当然わかっているだろうが、だからこそ敢えてそうしているように見えた。
「……こちらへ」
指の先の先がゆっくりと離れたあと、彼女が俺たちの先を歩く。
ほんの少しだけ、それこそまるで感覚を失しないためかのように、指先をもう片手で包んだのが印象的だった。
「恭介さん」
「うまい茶だったろう」
「それはまあ……って、そうじゃなくて。あの人って……」
「どうやら、本当にお前は昔の俺と似てるらしいな」
エントランスから、“STAFF ONLY”の札で区切られている廊下の先へ案内されながら、恭介さんが笑った。
だが、視線は俺ではなく、前を歩いている彼女を見たまま。
眼差しはどちらかというと、葉月へ向けるのに近いように思う。
「彼女は、お前を見て俺を思い浮かべた」
『瀬那君』
口ぶりは、かなり驚いていた。
と同時に懐かしいような、それでいてある種の戸惑いがあるようにも聞こえた。
「お前は、誰を思い浮かべた?」
長い廊下の先、機械での施錠がされている先には、もうひとつ扉があった。
薄暗いここのせいか、彼女が取り出した金の鍵がわずかな光を反射する。
「よく似てるだろう」
「……まさか」
ドアが開いた向こうには、外の景色が広がっていた。
冬の夜特有の乾いた冷たい空気に、これまでとの大きな違いから息を呑む。
「彼女は、俺が引き取るまでずっと葉月を育てた人だ」
ドアの軋む音とともに、聞いたことのない言葉が耳に届いた。
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