そこは、旅館からは少しだけ離れた敷地にあった。
 建物の裏手から小道を進んだ、先。
 喧騒はまったく届かず、住宅地とも違う静かな時間が流れているように思う。
 旅館と同じく……いや、どっちかっつーと由緒正しき旧家とでもいえばいいか。
 平屋の大きな門構えに、石畳。
 じーちゃんちとも違う雰囲気のそこは、引き戸の玄関もかなり大きめに作られている。
「…………」
 いかにも、よその家の匂い。
 マンションの部屋に入ったときとは違い、生活感と暮らしの歴史があるような香りで、来たこともないのに懐かしさを感じる。
 そこそこ高い天井に、長い板張りの廊下。
 そこからは小さな中庭が見え、それこそ時代劇か何かをほうふつとする。
「どうぞ」
「あ。ありがとうございます」
 長い廊下の途中にある柱に、何か書かれているように見えたものの、彼女に振り返られ足早に向かう。
 そのとき、やはり同じようにあちこちへ視線を向けていた恭介さんが、『変わらないな』とつぶやいたのが印象的だった。
「ご無沙汰しております」
「……何言ってんだい。ついこの間も来たじゃないか」
「本宅は数年ぶりですよ。それに、県内にいるにもかかわらず1週間会っていなければ、その挨拶でもいいじゃないですか」
「君はうちに来すぎだよ。本当に仕事してるのかい?」
「ご心配していただき光栄ですね」
 長い廊下の奥は、まるで離れのような部屋だった。
 本や帳簿のようなものもかなり多く置かれており、手狭には変わりない。
 窓際に置かれた火鉢には火が入っており、どうりで廊下と差が大きいと感じた。
「それにしたって、随分とビジネス色の濃い二人組だね。さぞ浮いただろうに」
「そうですか? 接待として使われることもあるでしょう」
「それにしたって、いかにもすぎだよ。それこそ、営業か何かにも見えるけどね」
「はは。それじゃあ、折角ですから中庭のリノベーションについて話でも詰めますか」
「また来な」
「ほら、そうやって呼んでくれるから足繁く通うことになるんですって」
 肌艶がよく、白髪もまったくない黒々とした髪を結い、濃い色の着物の彼女は、文机で作業したまま話していた。
 目を通しているのは、まるで巻物かのような束。
 その対面へ座りながら話す恭介さんは、普段見ている姿とはかなりかけ離れた……それこそ、砕けた印象を受けた。
「まったく。年寄りに細かい字を読ませるんじゃないよ」
「想いが詰まっているでしょう。長いこと……それどころか、何度も読み書きし直したと言ってましたよ」
 眼鏡を外した彼女が、目頭に手を当てる。
 そのとき、立ったままだった俺を頭からつま先まで見ると、ため息をついた。
「よくもまぁこれだけ似た人間に育ったもんだね」
「血でしょうね」
「まあお座りよ。座布団は……瀬那君、って坊やも同じか。ややこしいねまったく」
「はは。すみません」
「……え……」
 恭介さんが、すぐそこの襖を開け、積まれていた座布団を取り出した。
 それこそ、勝手知ったる。
 受け取って座すものの、見たことのない姿に……聞いたこともない口調に、何もかも意外でしかない。
「あの。なんで俺のこと……」
「ん? ああ、君は覚えてないだろうけどね。昔、それこそまだ小学生だったときに一度、ここへきたことがあるんだよ」
「え! 俺が、ですか?」
「ああ。君だけじゃない、妹さんもいたね。それと……ご両親と。私だけじゃない、美月とも一度だけ会ったことがあるんだよ」
 まったく身に覚えのないことを突きつけられ、目が丸くなった。
 ここに、きた。俺が?
 小学生といえば、記憶にあってもおかしくない年のこと。
 だが、まったく覚えておらず、それこそ美月さんのことも女将のことも“初めまして”で疑わなかった。
「あのときはまだ……小学4年だったか。ちょうどあそこの縁側で、スイカを食べたんだぞ」
「っ……まじで」
 ちょうど今通ってきた縁側を指差されるも、まったく記憶にはなくごくりと喉が鳴った。
 となると……ちょっと待った。
 さっき恭介さんは、美月さんのことを『葉月を育てた人』と俺に紹介してくれた。
 ということは間違いなく、アイツはここで育ったはず。
 もしも。
 もし、両親とともにここを一度訪れていたとしたら……そしたら、俺は……。
「待った。それじゃあ……葉月と初めて会ったあの夜は……」
「……正確にはあれが2度目なんだよ。だが、当時もお前は覚えてなかったな。『どこかで見た気がする』程度で、俺がエピソードを話したことで多少思い出したが……ああ子どもはそんなものか、と少しだけ寂しい気はしたよ」
 葉月が恭介さんとともに家にきたあの日のことを、俺は覚えている。
 が、あのときが“初めまして”だと思っていたのに……その前に一度会っていたとは。
 覚えていないとはいえ、寂しいような申し訳ないような気持ちになったが、恭介さんは小さく笑うと『そんな顔するな』と肩を叩いた。
「さて。今日は、お返事をいただきにまいりました」
 正座したまま女将へ向き直ると、恭介さんは背を伸ばした。
「いつなら許してもらえますか」
「……あのねぇ、手紙を受け取ってまだ1週間経ってないんだよ? こっちにも心の準備ってもんがあるだろう」
「あの子は、それこそ半年近く待っているんです。これ以上待たせるわけにはいきません」
「何度も言うけど、環境すべてが変わるんだよ? それなのに、何も新しいことを詰め込みすぎなくてもいいじゃないか」
「あの子の気持ちが最優先です。あの子にとって最善のことをしてやりたいと思うのは親の常でしょう」
「…………」
 ぱさり、と音を立てて彼女が手放したのは、どうやら手紙らしい。
 折り目のついているそれには、手書きの文字が並んでいる。
 ……恐らくは、葉月の。
 ふたりが話しているのは、ほかでもないアイツのことだ。
「まったく……。わかった。連れといで」
「よかった。その言葉をずっと待っていました」
 長いため息をついた彼女を見て、恭介さんがそれはそれは嬉しそうに笑った。
 だが次の瞬間、彼女の表情が変わる。

「女将だけでなく、美月さんにも会ってもらいます」

 これまでの恭介さんとは、声が違った。
 冗談めいた雰囲気は一切なく、値踏みするかのように彼を見つめる女将の雰囲気と相まって、室内がぴりりとする。
「待てません」
「……まだ何も言ってないよ」
「12年だ……12年、待ちました。これ以上待てとおっしゃるなら、攫われても文句言わないでいただきたい」
「…………わかってないね、まったく」
 部屋へ通されたとき案内してくれた彼女は、あれから姿を見せていない。
 それにしても、引っかかる部分はいくつもある。
 口調からして、女将と恭介さんはかなりの頻度で会っているらしい。
 だが、美月さんに対して彼は数年ぶりと口にした。
 そして……この顔、か。
 そこには、葉月に対する彼の態度と似たものも感じ、不思議ではありつつも、もしかしてという推測は成り立つ。
「いいかい? 今まで、親子水入らずで生きてきたんだ。なのに、ばあさんと会わせるだけでなく、なんの脈略もなく突然再婚相手と会わせたりしたら、娘は動揺するに決まってるだろう」
「再婚相手と紹介していいんですね」
「…………」
 恭介さんが笑うと、女将が小さく舌打ちしたような気がしたんだが、気のせいじゃない。
 彼の言葉で気づいたんだろうな。
 そこまで口にしてなかったことに。
「葉月にはすべて話してきました」
「っ……なんだって?」
「あの子はずっと知りたがっていた。……事実を話せないままきたせいで、相当苦しい思いもしたはずです。俺には聞けなかった部分だけにね」
「どこまで話した」
「新しい環境で……いや、この日本で生きるために必要な程度のことは伝えました。だからこそ、の手紙です。あの子はもうとっくに覚悟を決めている。今さら戸惑うことはないはずです」
「……あの子がどう生きてきたかとはまた、別の話だよ。再婚てのはね、子どもにとっちゃ大きな傷にもなりかねないんだ。ましてや、男親と娘だよ? 頭ではわかっていたとしても、君を取られたと思っても仕方ない部分がある。もちろん口には出さないだろうが、新しく家族になるというのは……心の中ではいろいろあるんだ」
 厳しい眼差しに対し、恭介さんは宣言の際と異なる穏やかな笑みを浮かべていた。
 ああ、いつだったっけな。
 『厳しいことを指摘するときは笑顔で言え』
 今から数年前、彼に言われたことを思い出す。
「あの子は受け入れてくれますよ。無論、自分が傷つくこともない」
「呆れるね。どこから来るんだい、そんな根拠のない自信は」
「あの子は、本当に優しい子です。少々自分を後回しにしすぎですが、それでも……今回のことを告げたとき、逆に叱られましたよ。もっと早く教えてほしかったと」
「……なんだって?」
「うちの大切なひとり娘はとても素直で、人の気持ちをおもんばかる賢い子です。……あなたの孫娘は、どこへ出しても恥ずかしくないどころか、世界中探しても見つからないほど気高く、優しく、唯一無二の子に育ちましたよ」
 その顔には、確かな自信が見えた。
 それこそ、父としての自負であり誇りそのもの。
 真正面から女将を見つめた彼は、にっこり笑うと『自慢の娘です』とさらに付け加えた。
「……本当はこのまま追い返そうかと思ったんだが、気が変わったよ。風呂でも入って帰りな」
 黙ったまま恭介さんを見つめていた彼女は、長い長いため息をついたあとでゆっくり口を開いた。
「いいんですか?」
「見たところ、ふたりとも仕事帰りなんだろう? 簡単に服もなんとかしてあげるから、入っといで」
「うわ……ありがたいのもありますが、素直に嬉しいです」
「まったく。君のそのセリフはどこか芝居がかって聞こえるんだけどね」
「いや、本心ですよ。それこそ、手を入れてから入ってませんからね。じっくり見られるのはとても嬉しいです」
 先ほどよりも長いため息をついたあとで、女将が違う襖を顎で示した。
 恭介さんは場所がわかるらしく、それはそれは嬉しそうな顔をしながら『あのときの柱が』とか『敢えて箱庭を見れるように』とかなんとか言っている。
 女将は、もしかしたら何べんも聞いているのかもしれないが、適当にあしらっているように見えた。
「君も入っておいで。彼が言うに、こだわりの風呂だそうだ」
「貴賓室の貸切風呂よりも、いいモノを使ってるからな。金を積んでも入れない内湯にはなってるぞ」
「……え、恭介さんが手がけたわけ?」
「当然だ。ここだけじゃない。この宿はすべて……俺が数年かけてリノベーションしてきたからな。ある意味、敷地すべてが作品だ」
 そう言って笑った彼は、女将に葉月を自慢したときと同じような誇らしげな顔をしていた。

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